空々しいような言い方をした。
 嫂を送り出して、奥へ入って来ると、まだ灯《あかり》の点《つ》かぬ部屋には夕方の色が漂うていた。お作は台所の入口の柱に凭《よ》りかかって、何を思うともなく、物思いに沈んでいた。裏手の貧乏長屋で、力のない赤子の啼《な》き声が聞えて、乳が乏しくて、脾弛《ひだる》いような嗄《か》れた声である。四下《あたり》はひっそとして、他に何の音も響きも聞えない。お作は亡《な》くなった子供の声を聞くように感ぜられて、何とも言えぬ悲しい思いが胸に迫って来た。冷たい土の底に、まだ死にきれずに泣いているような気もした。冷たい涙がポロポロと頬に伝わった。
 お作は水口へ出て、しばらく泣いていた。

     三十三

 部屋へ入って来ると、お国がせッせとそこいらを掃き出していた。「ぼんやりした内儀さんだね。」と言いそうな顔をしている。
「あの、ランプは。」とお作がランプを出しに行こうとすると、「よござんすよ。あなたは御病人だから。」と大きな声で言って、埃《ごみ》を掃き出してしまい、箒《ほうき》を台所の壁のところへかけて、座蒲団を火鉢の前へ敷いた。「サア、お坐んなさい。」
 お作はランプを点けてから背が低いので、それをお国にかけてもらって、「へ、へ。」と人のよさそうな笑い方をして、その片膝を立てて坐った。
 晩飯の時、お国の話ばかり出た。小野の公判が今日あるはずだが、結果がどうだろうかと、新吉が言い出した。もし長く入るようだったら、私はもう破れかぶれだ……ということをお国が言っていた。
「それなれア気楽なもんだ。女一人くらい、どこへどう転《ころ》がったって、まさか日干《ひぼ》しになるようなことはありゃしませんからね。」と棄て鉢を言った。
 お作は惘《あき》れたような顔をした。
「お前なんざ幸福《しあわせ》ものだよ。」と新吉はお作に言いかけた。「お国さんを御覧、添って二年になるかならぬにこの始末だろう。己なんざ、たといどんなことがあったって、一日も女房を困らすようなことをしておきゃしねえ。拝んでいてもいいくらいのもんだ。まったくだぜ。」
 お作はニヤニヤと笑っていた。
 飯が済んでから、お作が台所へ出ていると、新吉とお国が火鉢に差し向いでベチャクチャと何か話していた。お国が帰ると言うのを新吉が止めているようにも聞えるし、またその反対で、お国が出て行くまいと言って、話がごてつくようにも聞えるが、その話は大分込み入っているらしい。いろんな情実が絡《から》み合っているようにも思える。お作は洗うものを洗ってから、手も拭《ふ》かずに、しばらく考え込んでいた。と、新吉は何かぷりぷりして、ふいと店へ出てしまったらしい。お作が入って来た時、お国は長煙管で、スパスパと莨を喫《ふか》していた。
 その晩三人は妙な工合であった。お作はランプの下で、仕事を始めようとしたが、何だか気が落ち着かなかった。それにしばらくうつむいていると、血の加減か、じきに頭脳《あたま》がフラフラして来る。お国に何か話しかけられても、不思議に返辞をするのが億劫《おっくう》であった。新吉は湯に行くと言って出かけたきり、近所で油を売っていると見えて、いつまでも帰って来なかった。
 十一時過ぎに、お作は床に就いても、やっぱり気が落ち着かなかった。それでウトウトするかと思うと、厭な夢に魘《うな》されなどしていた。新吉とお国と枕をならべて寝ているところを、夢に見た。側へ寄って、引き起そうとすると、二人はお作の顔を瞶《みつ》めて、ゲラゲラと笑っていた。目を覚まして見ると、お国は独り離れて店の入口に寝ていた。

     三十四

 小野の刑期が、二年と決まった通知が来てから、お国の様子が、一層不穏になった。時とすると、小野のために、こんなにひどい目に逢《あ》わされたのがくやしいと言って、小野を呪《のろ》うて見たり、こうなれば、私は腕一つでやり通すと言って、鼻息を荒くすることもあった。
 お国にのさばられ[#「のさばられ」に傍点]るのが、新吉にとっては、もう不愉快でたまらくなって来た。どうかすると、お国の心持がよく解ったような気がして、シミジミ同情を表することもあったが、後からはじきに、お国のわがままが癪《しゃく》に触《さわ》って、憎い女のように思われた。お作が愚痴を零《こぼ》し出すと、新吉はいつでも鼻で遇《あしら》って、相手にならなかったが、自分の胸には、お作以上の不平も鬱積《うっせき》していた。
 三人は、毎日|不快《まず》い顔を突き合わして暮した。お作は、お国さえ除《の》けば、それで事は済むように思った。が、新吉はそうも思わなかった。
「どうするですね、やっぱり当分田舎へでも帰ったらどうかね。」と新吉はある日の午後お国に切り出した。
 お国はその時、少し風邪《かぜ》の心地で、蟀谷《こめかみ》のところに即効紙《そっこうし》など貼《は》って、取り散《みだ》した風をしていた。
「それでなけア、東京でどこか奉公にでも入るか……。」と新吉はいつにない冷やかな態度で、「私《あっし》のところにいるのは、いつまでいても、それは一向かまわないようなもんだがね。小野さんなんぞと違って、宅《うち》は商売屋だもんだで、何だかわけの解らない女がいるなんぞと思われても、あまり体裁がよくねえしね……。」
 新吉はいつからか、言おうと思っていることをさらけ出そうとした。
 ずっと離れて、薄暗いところで、針仕事をしていたお作は、折々目を挙げて、二人の顔を見た。
 お国は嶮相《けんそう》な蒼い顔をして、火鉢の側に坐っていたが、しばらくすると、「え、それは私だって考えているんです。」
 新吉は、まだ一つ二つ自分の方の都合をならべた。お国はじっと考え込んでいたが、大分経ってから、莨を喫《ふか》し出すと一緒に、
「御心配入りません。私のことはどっちへ転んだって、体一つですから……。」と淋しく笑った。
「そうなんだ。……女てものは重宝なもんだからね。その代りどこへ行くということが決まれば、私《あっし》もそれは出来るだけのことはするつもりだから。」
 お国は黙って、釵《かんざし》で、自棄《やけ》に頭を掻いていた。晩方飯が済むと、お国は急に押入れを開けて、行李の中を掻き廻していたが、帯を締め直して、羽織を着替えると、二人に、更《あらた》まった挨拶をして、出て行こうとした。
 その様子が、ひどく落ち着き払っていたので、新吉も多少不安を感じ出した。
「どこへ行くね。」と訊いて見たが、お国は、「え、ちょいと。」と言ったきり、ふいと出て行った。
 新吉もお作も、後で口も利かなかった。

     三十五

 高ッ調子のお国がいなくなると、宅《うち》は水の退《ひ》いたようにケソリとして来た。お作は場所塞《ばしょふさ》げの厄介物を攘《はら》った気でいたが、新吉は何となく寂しそうな顔をしていた。お作に対する物の言いぶりにも、妙に角が立って来た。お国の行き先について、多少の不安もあったので、帰って来るのを、心待ちに待ちもした。
 が、翌日も、お国は帰らなかった。新吉は帳場にばかり坐り込んで、往来に差す人の影に、鋭い目を配っていた。たまに奥へ入って来ても、不愉快そうに顔を顰《しか》めて、ろくろく坐りもしなかった。
 お作も急に張合いがなくなって来た。新吉の顔を見るのも切ないようで、出来るだけ側に寄らぬようにした。昼飯の時も、黙って給仕をして、黙って不味《まず》ッぽらしく箸を取った。新吉がふいと起ってしまうと、何ということなし、ただ涙が出て来た。二時ごろに、お作はちょくちょく着に着替えて、出にくそうに店へ出て来た。
「あの、ちょっと小石川へ行って来てもようございますか。」とおずおず言うと、新吉はジロリとその姿を見た。
「何か用かね。」
 お作ははっきり返辞も出来なかった。
 出ては見たが、何となく足が重かった。叔父に厭なことを聞かすのも、気が進まない。叔父にいろいろ訊かれるのも、厭であった。叔父のところへ行けないとすると、さしあたりどこへ行くという的《あて》もない。お作はただフラフラと歩いた。
 表町を離れると、そこは激しい往来であった。外は大分春らしい陽気になって、日の光も目眩《まぶ》しいくらいであった。お作の目には、坂を降りて行く、幾組かの女学生の姿が、いかにも快活そうに見えた。何を考えるともなく、歩《あし》が自然《ひとりで》に反対の方向に嚮《む》いていたことに気がつくと、急に四辻《よつつじ》の角に立ち停って四下《あたり》を見廻した。
 何だか、もと奉公していた家《うち》がなつかしいような気がした。始終|拭《ふ》き掃除《そうじ》をしていた部屋部屋のちんまり[#「ちんまり」に傍点]した様子や、手がけた台所の模様が、目に浮んだ。どこかに中国訛《ちゅうごくなま》りのある、優しい夫人の声や目が憶い出された。出る時、赤子であった男の子も、もう大きくなったろうと思うと、その成人ぶりも見たくなった。
 お作は柳町まで来て、最中《もなか》の折を一つ買った。そうしてそれを風呂敷に包んで一端《いっぱし》何か酬《むく》いられたような心持で、元気よく行《ある》き出した。
 西片町|界隈《かいわい》は、古いお馴染《なじ》みの町である。この区域の空気は一体に明るいような気がする。お作は※[#「木+要」、第4水準2−15−13、43−下段−3]《かなめ》の垣根際《かきねぎわ》を行《ある》いている幼稚園の生徒の姿にも、一種のなつかしさを覚えた。ここの桜の散るころの、やるせないような思いも、胸に湧《わ》いて来た。
 家は松木といって、通りを少し左へ入ったところである。門からじきに格子戸で、庭には低い立ち木の頂が、スクスクと新しい塀越《へいご》しに見られる。お作は以前愛された旧主の門まで来て、ちょっと躊躇した。

     三十六

 門のうちに、綺麗な腕車《くるま》が一台|供待《ともま》ちをしていた。
 お作はこんもりした杜松《ひば》の陰を脱けて、湯殿の横からコークス殻を敷いた水口へ出た。障子の蔭からそっと台所を窺《のぞ》くと、誰もいなかったが、台所の模様はいくらか変っていた。瓦斯《ガス》など引いて、西洋料理の道具などもコテコテ並べてあった。自分のいたころから見ると、どこか豊かそうに見えた。
 奥から子供を愛《あや》している女中の声が洩れて来た。夫人が誰かと話している声も聞えた。客は女らしい、華《はな》やかな笑い声もするようである。
 しばらくすると、束髪に花簪《はなかんざし》を挿して、きちんとした姿《なり》をした十八、九の女が、ツカツカと出て来た。赤い盆を手に持っていたが、お作の姿《なり》を見ると、丸い目をクルクルさせて、「どなた?」と低声《こごえ》で訊いた。
「奥様いらっしゃいますか。」とお作は赤い顔をして言った。
「え、いらっしゃいますけれど……。」
「別に用はないんですけれど、前《ぜん》におりましたお作が伺ったと、そうおっしゃって……。」
「ハ、さよでございますか。」と女中はジロジロお作の様子を見たが、盆を拭いて、それに小さいコップを二つ載せて、奥へ引っ込んだ。
 しばらくすると、二歳《ふたつ》になる子が、片言交《かたことまじ》りに何やら言う声がする。咲《え》み割れるような、今の女中の笑い声が揺れて来る。その笑い声には、何の濁りも蟠《わだかま》りもなかった。お作はこの暖かい邸で過した、三年の静かな生活を憶い出した。
 奥様は急に出て来なかった。大分経ってから、女中が出て来て、「あの、こっちへお上んなさいな。」
 お作は女中部屋へ上った。女中部屋の窓の障子のところに、でこぼこの鏡が立てかけてあった。白い前垂や羽織が壁にかかっている。しばらくすると、夫人がちょっと顔を出した。痩《や》せぎすな、顔の淋しい女で、このごろことに毛が抜け上ったように思う。お作は平たくなってお辞儀をした。
「このごろはどうですね。商売屋じゃ、なかなか気骨が折れるだろうね。それに、お前何だか顔色が悪いようじゃないか。病気でもおしかい。」と夫人は詞《ことば》をかけた。
「え……。」と言っ
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