新世帯
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)新吉《しんきち》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)飯|喰《く》う隙《ひま》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「兀+王」、第3水準1−47−62、36−上段−8]
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     一

 新吉《しんきち》がお作《さく》を迎えたのは、新吉が二十五、お作が二十の時、今からちょうど四年前の冬であった。
 十四の時豪商の立志伝や何かで、少年の過敏な頭脳《あたま》を刺戟《しげき》され、東京へ飛び出してから十一年間、新川《しんかわ》の酒問屋で、傍目《わきめ》もふらず滅茶苦茶《めっちゃくちゃ》に働いた。表町《おもてちょう》で小さい家《いえ》を借りて、酒に醤油《しょうゆ》、薪《まき》に炭、塩などの新店を出した時も、飯|喰《く》う隙《ひま》が惜しいくらい、クルクルと働き詰めでいた。始終|襷《たすき》がけの足袋跣《たびはだし》のままで、店頭《みせさき》に腰かけて、モクモクと気忙《きぜわ》しそうに飯を掻《か》ッ込んでいた。
 新吉はちょっといい縹致《きりょう》である。面長《おもなが》の色白で、鼻筋の通った、口元の優しい男である。ビジネスカットとかいうのに刈り込んで、襟《えり》の深い毛糸のシャツを着て、前垂《まえだれ》がけで立ち働いている姿にすら、どことなく品があった。雪の深い水の清い山国育ちということが、皮膚の色沢《いろつや》の優《すぐ》れて美しいのでも解る。
 お作を周旋したのは、同じ酒屋仲間の和泉屋《いずみや》という男であった。
「内儀《かみ》さんを一人世話しましょう。いいのがありますぜ。」と和泉屋は、新吉の店がどうか成り立ちそうだという目論見《もくろみ》のついた時分に口を切った。
 新吉はすぐには話に乗らなかった。
「まだ海のものとも山のものとも知れねいんだからね。これなら大丈夫屋台骨が張って行けるという見越しがつかんことにゃ、私《あっし》ア不安心で、とても嚊《かかあ》など持つ気になれやしない。嚊アを持ちゃ、子供が生れるものと覚悟せんけアなんねえしね。」とその淋《さび》しい顔に、不安らしい笑《え》みを浮べた。
 けれども新吉は、その必要は感じていた。注文取りに歩いている時でも、洗湯《せんとう》へ行っている間でも、小僧ばかりでは片時も安心が出来なかった。帳合いや、三度三度の飯も、自分の手と頭とを使わなければならなかった。新吉は、内儀《かみ》さんを貰《もら》うと貰わないとの経済上の得失などを、深く綿密に考えていた。一々|算盤珠《そろばんだま》を弾《はじ》いて、口が一つ殖《ふ》えればどう、二年|経《た》って子供が一人|産《うま》れればどうなるということまで、出来るだけ詳しく積って見た。一年の店の利益、貯金の額、利子なども最少額に見積って、間違いのないところを、ほぼ見極《みきわ》めをつけて、幾年目にどれだけの資本《もと》が出来るという勘定をすることぐらい、新吉にとって興味のある仕事はなかった。
 三月ばかり、内儀さんの問題で、頭脳《あたま》を悩ましていたが、やっぱり貰わずにはいられなかった。
 お作はそのころ本郷西片町《ほんごうにしかたまち》の、ある官吏の屋敷に奉公していた。
 産れは八王子のずっと手前の、ある小さい町で、叔父《おじ》が伝通院《でんずういん》前にかなりな鰹節屋《かつぶしや》を出していた。新吉は、ある日わざわざ汽車で乗り出して女の産《うま》れ在所《ざいしょ》へ身元調べに行った。

     二

 お作の宅《うち》は、その町のかなり大きな荒物屋であった。鍋《なべ》、桶《おけ》、瀬戸物、シャボン、塵紙《ちりがみ》、草履《ぞうり》といった物をコテコテとならべて、老舗《しにせ》と見えて、黝《くろず》んだ太い柱がツルツルと光っていた。
 新吉はすぐ近所の、怪しげな暗い飲食店へ飛び込んで、チビチビと酒を呑《の》みながら、女を捉《とら》えて、荒物屋の身上《しんしょう》、家族の人柄、土地の風評などを、抜け目なく訊《き》き糺《ただ》した。女は油くさい島田の首を突き出しては、酌《しゃく》をしていたが、知っているだけのことは話してくれた。田地が少しばかりに、小さい物置同様の、倉のあることも話した。兄が百姓をしていて、弟《おとと》が土地で養子に行っていることも話した。養蚕時《ようさんどき》には養蚕もするし、そっちこっちへ金の時貸しなどをしていることも弁《しゃべ》った。
 新吉自身の家柄との権衡《けんこう》から言えば、あまりドッとした縁辺《えんぺん》でもなかった。新吉の家《うち》は、今はすっかり零落しているけれど、村では筋目正しい家《いえ》の一ツであった。新吉は七、八歳までは、お坊《ぼッ》ちゃんで育った。親戚《しんせき》にも家柄の家《うち》がたくさんある。物は亡《な》くしても、家の格はさまで低くなかった。
 けれど、新吉はそんなことにはあまり頓着《とんちゃく》もしなかった。自分の今の分際では、それで十分だと考えた。
 そのことを、同じ村から出ている友達に相談してから、新吉はようやく談《はなし》を進めた。見合いは近間の寄席《よせ》ですることにした。新吉はその友達と一緒に、和泉屋に連れられて、不断着のままでヒョコヒョコと出かけた。お作は薄ッぺらな小紋縮緬《こもんちりめん》のような白ッぽい羽織のうえに、ショールを着て、叔父と田舎《いなか》から出ている兄との真中に、少し顔を斜《はす》にして坐っていた。叔父は毛むくじゃらのような顔をして、古い二重廻しを着ていた。兄は菱《ひし》なりのような顔の口の大きい男で、これも綿ネルのシャツなど着て、土くさい様子をしていた。横向きであったので、新吉は女の顔をよく見得なかった。色の白い、丸ぽちゃだということだけは解った。お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていたが、新吉は胸がワクワクして、頭脳《あたま》が酔ったようになっていた。
 寄席を出るとき、新吉は出てゆくお作の姿をチラリと見た。お作も振り顧《かえ》って、正面から男の立ち姿を二、三度熟視した。お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。
 そこを出ると、和泉屋は不恰好《ぶかっこう》な長い二重廻しの袖《そで》をヒラヒラさせて、一足《ひとあし》先にお作の仲間と一緒に帰った。
「どうだい、どんな女だい。」と新吉はそっと友達に訊いた。
 何だか頭脳《あたま》がボッとしていた。叔父や兄貴の百姓百姓した風体《ふうてい》が、何となく気にかかった。でも厭《いや》でたまらぬというほどでもなかった。

     三

 明日《あす》は朝早く、小僧を注文取りに出して、自分は店頭《みせさき》でせっせと樽《たる》を滌《すす》いでいると、まだ日影の薄ら寒い街を、せかせかとこっちへやって来る男がある。柳原ものの、薄ッぺらな、例の二重廻しを着込んだ和泉屋である。
 和泉屋は、羅紗《ラシャ》の硬《こわ》そうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶《あいさつ》して、そのまま店頭《みせさき》へ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入《たばこい》れを抜いて莨を吸い出した。
 「君の評判は大したもんですぜ。」と和泉屋は突如《だしぬけ》に高声《たかごえ》で弁《しゃべ》り出した。「先方《さき》じゃもうすっかり気に入っちゃって、何が何でも一緒にしたいと言うんです。」
「冷評《ひやか》しちゃいけませんよ。」と新吉はやっぱりザクザクやっている。気が気でないような心持もした。
「いやまったくですよ。」と和泉屋は反《そ》り身になって、「それで話は早い方がいいからッってんで、今日にでも日取りを決めてくれろと言うんですがね、どうです、女も決して悪いて方じゃないでしょう。」と和泉屋は、それから女の身上持ちのいいこと、気立ての優しいことなどをベラベラと説き立てた。星廻りや相性のことなども弁じて、独《ひと》りで呑み込んでいた。支度《したく》はもとよりあろうはずはないけれど、それでもよかれ悪《あ》しかれ、箪笥《たんす》の一|棹《さお》ぐらいは持って来るだろう。夜具も一組は持ち込むだろう。とにかく貰って見給え、同じ働くにも、どんなに張合いがあって面白いか。あの女なら請け合って桝新《ますしん》のお釜《かま》を興しますと、小汚《こぎたな》い歯齦《はぐき》に泡《あわ》を溜《た》めて説き勧めた。
 新吉は帳場格子の前のところに腰かけて、何やらもの足りなそうな顔をして聴《き》いていたが、「じゃ貰おうかね。」と首を傾《かし》げながら低声《こごえ》に言った。
「だが、来て見て、びっくりするだろうな。何ぼ何でも、まさかこんな乱暴な宅《うち》だとは思うまい。けど、まあいいや、君に任しておくとしましょう。逃げ出されたら逃げ出された時のことだ。」
「そんなもんじゃありませんよ。物は試《ため》し、まあ貰って御覧なさい。」
 和泉屋はほくほくもので帰って行った。
 それから七日ばかり経ったある晩、新吉の宅《うち》には、いろいろの人が多勢集まった。前《ぜん》の朋輩が二人、小野という例の友達が一人――これはことに朝から詰めかけて、部屋の装飾《かざり》や、今夜の料理の指揮《さしず》などしてくれた。障子を張り替えたり、どこからか安い懸け物を買って来てくれなどした。新吉の着るような斜子《ななこ》の羽織と、何やらクタクタの袴《はかま》を借りて来てくれたのも小野である。小さい口銭《コンミッション》取《と》りなどして、小才の利《き》く、世話好きの男である。
 料理の見積りをこの男がしてくれた時、新吉は優しい顔を顰《しか》めた。
「どうも困るな、こんな取着《とりつ》き身上《しんしょう》で、そんな贅沢《ぜいたく》な真似《まね》なんかされちゃ……。何だか知んねえが、その引物《ひきもの》とかいう物を廃《よ》そうじゃねえか。」

     四

 小野は怒りもしない。愛嬌《あいきょう》のある丸顔に笑《え》みを漂《うか》べて、「そう吝《けち》なことを言いなさんな。一生に一度じゃないか。こんな物を倹約したからって、何ほども違うものじゃありゃしない。第一見すぼらしくていけないよ。」
「でも君、私《あっし》アまったくのところ酷工面《ひどくめん》して婚礼するんだからね。何も苦しい思いをして、虚栄《みえ》を張る必要もなかろうじゃねいか。ね、小野君|私《あっし》アそういう主義なんだぜ。君らのように懐手《ふところで》していい銭儲《ぜにもう》けの出来る人たア少し違うんだからね。」
「理窟《りくつ》は理窟さ。」と小野は笑顔《えがお》を放さず、
「他《ほか》の場合と異《ちが》うんだから、少しは世間体ていうことを考えなくちゃ……。いいじゃないか、後でミッチリ二人で稼《かせ》げば。」
 新吉は黒い指頭《ゆびさき》に、臭い莨を摘《つま》んで、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》に詰めて、炭の粉を埋《い》けた鉄瓶《てつびん》の下で火を点《つ》けると、思案深い目容《めつき》をして、濃い煙を噴《ふ》いていた。
 六畳の部屋には、もう総桐《そうぎり》の箪笥が一棹|据《す》えられてある。新しい鏡台もその上に載せてあった。借りて来た火鉢《ひばち》、黄縞《きじま》の座蒲団《ざぶとん》などが、赭《あか》い畳の上に積んであった。ちょうど昼飯を済ましたばかりのところで、耳の遠い傭《やと》い婆さんが台所でその後始末をしていた。
 新吉はまだ何やらクドクド言っていた。小野の見積り書きを手に取っては、独りで胸算用をしていた。ここへ店を出してから食う物も食わずに、少しずつ溜めた金がもう三、四十もある。それをこの際あらかた噴《は》き出してしまわねばならぬというのは、新吉にとってちょっと苦痛であった。新吉はこうした大業な式を挙げるつもりはなかった。そっと輿入《こしい》れをして、そっと儀式を済ますはずであった。あながち金が惜しいばかりではない。一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、華《はな》やかなこと
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