が、質素《じみ》な新吉の性に適《あ》わなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙な偏《かたよ》った一種の考えが、丁稚《でっち》奉公をしてからこのかた彼の頭脳《あたま》に強く染《し》み込んでいた。小野の干渉は、彼にとっては、あまり心持よくなかった。と言って、この男がなくては、この場合、彼はほとんど手が出なかった。グズグズ言いながら、きっぱり反抗することも出来なかった。
三時過ぎになると、彼は床屋に行って、それから湯に入った。帰って来ると、家はもう明りが点《つ》いていた。
新吉は、「アア。」と言って、長火鉢の前に坐った。小野は自分の花嫁でも来るような晴れ晴れしい顔をして、「どうだ新さん待ち遠しいだろう。茶でも淹《い》れようか。」
「莫迦《ばか》言いたまえ。」新吉は淋しい笑い方をした。
五
するうち綺麗《きれい》に磨《みが》き立てられた台ランプが二台、狭苦しい座敷に点《とも》され、火鉢や座蒲団もきちんとならべられた。小さい島台や、銚子《ちょうし》、盃《さかずき》なども、いつの間にか、浅い床に据えられた。台所から、料理が持ち込まれると、耳の遠い婆さんが、やがて一々|叮寧《ていねい》に拭いた膳《ぜん》の上に並べて、それから見事な蝦《えび》や蛤《はまぐり》を盛った、竹の色の青々した引物の籠《かご》をも、ズラリと茶の室《ま》へならべた。小野は新聞紙を引き裂いては、埃《ほこり》の被《かぶ》らぬように、御馳走《ごちそう》の上に被せて行《ある》いていた。新吉は気がそわそわして来た。切立ての銘撰《めいせん》の小袖を着込んで、目眩《まぶ》しいような目容《めつき》で、あっちへ行って立ったり、こっちへ来て坐ったりしていた。
「サア、これでこっちの用意はすっかり出来|揚《あが》った。何時《なんどき》おいでなすってもさしつかえないんだ。マア一服しよう。」と蜻蛉《とんぼ》の眼顆《めだま》のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。
「イヤ御苦労御苦労。」と新吉もほかの二人と一緒に傍《そば》に坐って、頭を掻きながら、「私《あっし》アどうも、こんなことにゃ一向慣れねえもんだからね……。」といいわけしていた。
「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。
「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」
新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚《みより》の者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまで漕《こ》ぎつけて来た、長い年月《としつき》の苦労を思うと、迂廻《うねり》くねった小径《こみち》をいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日《きのう》までのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火《ともしび》が、風もないのに眼先に揺《ゆら》いで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻《にいづま》が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。
「しかしもう来そうなものだね。」と小野は膝《ひざ》のうえで見ていた新聞紙から目を離して、「ひどく思わせぶりだな。」と生あくびをした。
「そうですね。」
「けど、まだ暮れたばかりですもの。」と他《ほか》の二人も目を見合わせて、伸び上って、店口を覗《のぞ》いた。店は入口だけ残して、後は閉めきってある。小僧は火の気のない帳場格子の傍《わき》に坐って、懐手をしながら、コクリコクリ居睡《いねむ》りをしていた。時計がちょうど七時を打った。
小野と新吉とが、間もなく羽織袴を着けて坐り直した時分に、静かな宵《よい》の町をゴロゴロと腕車《くるま》の響きが、遠くから聞え出した。
「ソラ来た!」
小野は新吉と顔を見合って起《た》ち上った。他の両人《ふたり》も新吉も何ということなし起ち上った。
新開の暗い街を、鈍《のろ》く曳《ひ》いて来る腕車《くるま》の音は、何となく物々しかった。
四人は店口に肩をならべ合って、暗い外を見透《みすか》していた。向うの塩煎餅屋《しおせんべいや》の軒明りが、暗い広い街の片側に淋しい光を投げていた。
六
新吉が胸をワクワクさせている間に、五台の腕車が、店先で梶棒《かじぼう》を卸《おろ》した。真先に飛び降りたのは、足の先ばかり白い和泉屋であった。続いて降りたのが、丸髷頭《まるまげあたま》の短い首を据えて、何やら淡色《うすいろ》の紋附を着た和泉屋の内儀《かみ》さんであった。三番目に見栄《みば》えのしない小躯《こがら》のお作が、ひょッこりと降りると、その後から、叔父の連合いだという四十ばかりの女が、黒い吾妻《あずま》コートを着て、「ハイ、御苦労さま。」と軽い東京弁で、若い衆《しゅ》に声かけながら降りた。兄貴は黒い鍔広《つばびろ》の中折帽を冠《かぶ》って、殿《しんがり》をしていた。
和泉屋は小野と二人で、一同を席へ就かせた。
気爽《きさく》らしい叔母はちょッと垢脱《あかぬ》けのした女であった。眉《まゆ》の薄い目尻《めじり》の下った、ボチャボチャした色白の顔で、愛嬌のある口元から金歯の光が洩《も》れていた。
「ハイ、これは初めまして……私《わたくし》はこれの叔父の家内でございまして、実はこれのお袋があいにく二、三日加減が悪いとか申しまして、それで今日は私が出ましたようなわけで、どうかまあ何分よろしく……。このたびはまた不束《ふつつか》な者を差し上げまして……。」とだらだらと叔母が口誼《こうぎ》を述べると、続いて兄もキュウクツ張った調子で挨拶を済ました。
後はしばらく森《しん》として、蒼《あお》い莨《たばこ》の煙が、人々の目の前を漂うた。正面の右に坐った新吉は、テラテラした頭に血の気の美しい顔、目のうちにも優しい潤《うる》みをもって、腕組みしたまま、堅くなっていた。お作は薄化粧した顔をボッと紅《あか》くして、うつむいていた。坐った膝も詰り、肩や胸のあたりもスッとした方ではなかった。結立ての島田や櫛笄《くしこうがい》も、ひしゃげたような頭には何だか、持って来て載せたようにも見えた。でも、取り澄ました気振りは少しも見えず、折々表情のない目を挙《あ》げて、どこを見るともなく瞶《みつ》めると、目眩《まぶ》しそうにまた伏せていた。
和泉屋と小野は、袴をシュッシュッ言わせながら、狭い座敷を出たり入ったりしていたが、するうち銚子や盃が運ばれて、手軽な三々九度の儀式が済むと、赤い盃が二側《ふたかわ》に居並んだ人々の手へ順々に廻された。
「おめでとう。」という声と一緒に、多勢が一斉にお辞儀をし合った。
新吉とお作の顔は、一様に熱《ほて》って、目が美しく輝いていた。
七
盃が一順廻った時分に、小野がどこからか引っ張って来た若い謡謳《うたうた》いが、末座に坐って、いきなり突拍子な大声を張り揚げて、高砂《たかさご》を謳い出した。同時にお作が次の間へ着換えに起って、人々の前には膳が運ばれ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口《ちょく》が盛んにそちこちへ飛んだ。
「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」和泉屋が言い出した。
新吉も席を離れて、「私《あっし》のとこもまだ真《ほん》の取着《とっつ》き身上《しんしょう》で、御馳走と言っちゃ何もありませんが、酒だけアたくさんありますから、どうかマア御ゆっくり。」
「イヤなかなか御丁重な御馳走で……。」と兄貴は大きい掌《てのひら》に猪口を載せて、莫迦叮寧なお辞儀をして、新吉に差した。「私《わたし》は田舎者で、何にも知らねえもんでござえますが、何分どうぞよろしく。」
「イヤ私《あっし》こそ。」と新吉は押し戴《いただ》いて、「何《なん》しろまだ世帯を持ったばかりでして……それに私アこっちには親戚《みより》と言っては一人もねえもんですから、これでなかなか心細いです。マア一つ皆さんのお心添えで、一人前の商人になるまでは、真黒になって稼ぐつもりです。」
「とんでもないこって……。」と兄貴は返盃《へんぱい》を両手に受け取って、「こちとらと違えまして、伎倆《はたらき》がおありなさるから……。」
「オイ新さん、そう銭儲《ぜにもう》けの話ばかりしていねえで、ちょっとお飲《や》りよ。」と小野は向う側から高調子で声かけた。
新吉は罰《ばつ》が悪そうに振り顧《む》いて、淋しい顔に笑《え》みを浮べた。「笑談《じょうだん》じゃねえ。明日から頭数が一人殖えるんだ。うっかりしちゃいらんねえ。」と低声《こごえ》で言った。
「イヤ、世帯持ちはその心がけが肝腎です。」と和泉屋は、叔母とシミジミ何やら、談《はな》していたが、この時口を容《い》れた。「ここの家へ来た嫁さんは何しろ幸《しあわ》せですよ。男ッぷりはよし、伎倆《はたらき》はあるしね。」
「そうでございますとも。」と叔母は楊枝《ようじ》で金歯を弄《せせ》りながら、愛想笑いをした。
「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」と誰やらが混《ま》ぜッ交《かえ》した。
銚子が後から後からと運ばれた。話し声がいよいよ高調子になって、狭い座敷には、酒の香と莨《たばこ》の煙とが、一杯に漂うた。
「花嫁さんはどうしたどうした。」と誰やらが不平そうに喚《わめ》いた。
和泉屋が次の間へ行って見た。お作は何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪《はなかんざし》を挿《さ》し、長火鉢の前に、灯影《ひかげ》に背《そむ》いて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。
「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」
お作は顔を赧《あか》らめ、締りのない口元に皺《しわ》を寄せて笑った。
八
小野が少し食べ酔って管を捲《ま》いたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾《ごたごた》のなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してから暇《いとま》を告げた。
「アア、人の婚礼でああ騒ぐ奴《やつ》の気が知れねえ。」というように、新吉は酔《え》いの退《ひ》いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。
明朝《あした》目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭《まくらもと》には綺麗に火入れの灰を均《なら》した莨盆と、折り目の崩《くず》れぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴《あまだれ》の音が、眠りを貪《むさぼ》った頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織《ガスいとお》りの不断着に赤い襷《たすき》をかけて、顔は下手につけた白粉《おしろい》が斑《まだら》づくっていた。
「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子を負《おぶ》った四十ばかりの萎《しな》びた爺《おやじ》が一人、炭や味噌《みそ》を買いに来ていた。
新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よく商《あきな》いをした。
朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜《ゆうべ》の残りの御馳走などをならべて、差し向いで箸《はし》を取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっと瞶《みつ》めた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節《ゆびふし》の短い手に何やら石入りの指環《ゆびわ》を嵌《は》めていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で
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