てお作は早産のことなど話そうとしたが、夫人は気忙しそうに、「マアゆっくり遊んでおいで。」と言い棄てて奥へ入った。
しばらく女中と二人で、子供をあっちへ取りこっちへ取りして、愛《あや》していた。子供は乳色の顔をして、よく肥っていた。先月中小田原の方へ行っていて、自分も伴《とも》をしていたことなぞ、お竹は気爽《きさく》に話し出した。話は罪のないことばかりで、小田原の海がどうだったとか、梅園がこうだとか、どこのお嬢さまが遊びに来て面白かったとか……お作は浮《うわ》の空で聞いていた。
外へ出ると、そこらの庭の木立ちに、夕靄《ゆうもや》が被《かか》っていた。お作は新坂をトボトボと小石川の方へ降りて行った。
三十七
帰って見ると、店が何だか紛擾《ごたごた》していた。いつもよく来る、赭《あか》ちゃけた髪の毛の長く伸びた、目の小さい、鼻のひしゃげた汚い男が、跣足《はだし》のまま突っ立って、コップ酒を呷《あお》りながら、何やら大声で怒鳴っていた。小僧たちの顔を見ると、一様に不安そうな目色をして、酔漢《よっぱらい》を見守っている。奥の方でも何だかごてついているらしい。上り口に蓮葉な脱ぎ方をしてある、籐表《とうおもて》の下駄は、お国のであった。
「お国さんが帰って?」と小僧に訊くと、小僧は「今帰りましたよ。」と胡散《うさん》くさい目容《めつき》でお作を見た。
そっと上って見ると、新吉は長火鉢のところに立て膝をして莨を吸っていた。お国は奥の押入れの前に、行李の蓋《ふた》を取って、これも片膝を立てて、目に殺気を帯びていた。お作の影が差しても、二人は見て見ぬ振りをしている。
新吉はポンポンと煙管を敲《はた》いて、「小野さんに、それじゃ私《あっし》が済まねえがね……。」と溜息を吐《つ》いた。
「新さんの知ったことじゃないわ。」とお国は赤い胴着のような物を畳んでいた。髪が昨日よりも一層|強《きつ》い紊《みだ》れ方で、立てた膝のあたりから、友禅の腰巻きなどが媚《なま》めかしく零《こぼ》れていた。
「私ゃ私の行きどころへ行くんですもの。誰が何と言うもんですか。」と凄《すさま》じい鼻息であった。
お作はぼんやり入口に突っ立っていた。
「それも、東京の内なら、私《あっし》も文句は言わねえが、何も千葉くんだりへ行かねえだって……。」と新吉も少し激したような調子で、「千葉は何だね。」
「何だか、私も知らないんですがね、私ゃとても、東京で堅気の奉公なんざ出来やしませんから……。」
「それじゃ千葉の方は、お茶屋ででもあるのかね。」
お国は黙っている。新吉も黙って見ていた。
「私の体なんか、どこへどう流れてどうなるか解りゃしませんよ。一つ体を沈めてしまう気になれア、気楽なもんでさ。」とお国は投げ出すように言い出した。
「だけど、何も、それほどまでにせんでも……。」と新吉はオドついたような調子で、「そう棄て鉢になることもねえわけだがね。」と同じようなことを繰り返した。
「それア、私だって、何も自分で棄て鉢になりたかないんですわ。だけど、どういうもんだか、私アそうなるんですのさ。小野と一緒になる時なぞも、もうちゃんと締るつもりで……。」とお国は口の中で何やら言っていたが、急に溜息を吐《つ》いて、「真実《ほんとう》にうっちゃっておいて下さいよ。小野のところから訊いて来たら、どこへ行ったか解らない、とそう言ってやって下さい。この先はどうなるんだか、私にも解らないんですから。」
「じゃ、マア、行くんなら行くとして、今夜に限ったこともあるまい。」
店がにわかにドヤドヤして来た。酔漢《よっぱらい》は、咽喉《のど》を絞るような声で唄い出した。
三十八
しばらくすると、食卓《ちゃぶだい》がランプの下に立てられた。新吉はしきりに興奮したような調子で、「酒をつけろ酒をつけろ。」とお作に呶鳴《どな》った。
「それじゃお別れに一つ頂きましょう。」お国も素直に言って、そこへ来て坐った。髪を撫《な》でつけて、キチンとした風をしていた。お作はこの場の心持が、よく呑み込めなかった。お国がどこへ何しに行くかもよく解らなかった。新吉に叱られて、無意識に酒の酌などして、傍に畏《かしこ》まっていた。
お国は嶮《けわ》しい目を光らせながら、グイグイ酒を飲んだ。飲めば飲むほど、顔が蒼くなった。外眦《めじり》が少し釣り上って、蟀谷《こめかみ》のところに脈が打っていた。唇が美しい潤《うるお》いをもって、頬が削《こ》けていた。
新吉は赤い顔をして、うつむきがちであった。お国が千葉のお茶屋へ行って、今夜のように酒など引っ被《かぶ》って、棄て鉢を言っている様子が、ありあり目に浮んで来た。頭脳《あたま》がガンガン鳴って、心臓の鼓動も激しかった。が、胸の底には、冷たいある物が流れていた。
「新さん、じゃ私これでおつもりよ。」とお国は猪口《ちょく》を干して渡した。
お作が黙ってお酌をした。
「お作さんにも、大変お世話になりましたね。」とお国は言い出した。
「いいえ。」とお作はオドついたような調子で言う。
「あちらへ行ったら、ちっとお遊びにいらして下さい……と言いたいんですけれどね、実は私は姿を見られるのもきまりが悪いくらいのところへ行くんですの。これッきり、もうどなたにもお目にかからないつもりですからね。」
お作はその顔を見あげた。
酔漢《よっぱらい》はもう出たと見えて、店が森《しん》としていた。生温《なまぬる》いような風が吹く晩で、じっとしていると、澄みきった耳の底へ、遠くで打っている警鐘の音が聞えるような気がする。かと思うと、それが裏長屋の話し声で消されてしまう。
「ア、酔った!」とお国は燃えている腹の底から出るような息を吐《つ》いて、「じゃ新さん、これで綺麗にお別れにしましょう。酔った勢いでもって……。」と帯の折れていたところを、キュと仕扱《しご》いてポンと敲《たた》いた。
「じゃ、今夜立つかね。」新吉は女の目を瞶《みつ》めて、「私《あっし》送ってもいいんだが……。」
「いいえ。そうして頂いちゃかえって……。」お国はもう一度猪口を取りあげて無意識に飲んだ。
お国は腕車《くるま》で発《た》った。
新吉はランプの下に大の字になって、しばらく寝ていた。お国がまだいるのやらいないのやら、解らなかった。持って行きどころのない体が曠野《あれの》の真中に横たわっているような気がした。
大分経ってから、掻巻《かいま》きを被《き》せてくれるお作の顔を、ジロリと見た。
新吉は引き寄せて、その頬にキッスしようとした。お作の頬は氷のように冷たかった。
* * *
「開業三周年を祝して……」と新吉の店に菰冠《こもかぶ》りが積み上げられた、その秋の末、お作はまた身重《みおも》になった。
底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
青空文庫作成ファイル:
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