りのように思ったが、黙って出してやった。小僧連は、一様に軽蔑《けいべつ》するような目容《めつき》で出て行く姿を見送った。
 お国は昼になっても、晩になっても帰らなかった。新吉は一日不快そうな顔をしていた。晩に一杯飲みながら、新吉は女の噂《うわさ》をし始めた。
「どうせ彼奴《あいつ》は帰って来る気遣いないんだから、明朝《あした》から皆《みんな》で交《かわ》り番こに飯をたくんだぞ。」
 小僧はてんでに女の悪口《あっこう》を言い出した。内儀さん気取りでいたとか、お客分のつもりでいるのが小面憎《こづらにく》いとか、あれはただの女じゃあるまいなどと言い出した。
 新吉はただ苦笑いしていた。

     二十九

 二月の末――お作が流産をしたという報知《しらせ》があってからしばらく経って、新吉が見舞いに行った時には、お作はまだ蒼い顔をしていた。小鼻も目肉《めじし》も落ちて、髪もいくらか抜けていた。腰蒲団など当てて、足がまだよろつくようであった。
 胎児は綺麗な男の子であったとかいうことである。少し重い物――行李を棚から卸《おろ》した時、手を伸ばしたのが悪かったか知らぬが、その中には別に重いというほどの物もなければ、棚がさほど高いというほどでもない。が何しろ身体が※[#「兀+王」、第3水準1−47−62、36−上段−8]弱《ひよわ》いところへ、今年は別して寒《かん》じが強いのと、今一つはお作が苦労性で、いろいろの取越し苦労をしたり、今の身の上を心細がったり、表町の宅《うち》のことが気にかかったり、それやこれやで、あまりに神経を使い過ぎたせいだろう……というのがいいわけのような愚痴のような母親の言い分であった。
 お作は流産してから、じきに気が遠くなり、そこらが暗くなって、このまま死ぬのじゃないかと思った、その前後の心持を、母親の説明の間々へ、喙《くち》を容《い》れて話した。そうしてもう暗いところへやってしまったその子が不憫《ふびん》でならぬと言って泣き出した。いくら何でも自分の血を分けた子だのに、顔を見に来てくれなかったのは、私はとにかく、死んだ子が可哀そうだと怨《うら》んだ。
 新吉も詳しい話を訊いてみると、何だか自分ながらおそろしいような気もした。そういう薄情なつもりではなかったが、言われて見ると自分の心はいかにも冷たかったと、つくづくそう思った。
「私《あっし》はまた、どうせ死んでるんだから、なまじい顔でも見ちゃ、かえっていい心持がしねえだろうから、見ない方が優《まし》だという考えで……それにあのころは、小野の公判があるんで、東京から是非もう一人弁護士を差し向けてほしいという、当人の希望《のぞみ》だったもんだから、お国と二人で、そっちこっち奔走していたんで……友達の義理でどうもしかたがなかったんだ。」といいわけをした。
「それならせめて初七日にでもいらして下されば……。」とお作は目に涙を一杯溜めて怨んだ。「それにあなたは、お国さんのことと言うと、家のことはうっちゃっても……。」と口の中でブツブツ言った。
 これが新吉の耳には際立《きわだ》って鋭く響く。むろんお国は今でも宅《うち》へ入り浸っている。一度二度|喧嘩《けんか》して逐《お》い出したこともあるが、初めの時はこっちが宥《なだ》めて連れて帰り、二度目の時は、女の方から黙って帰って来た。連れて来たその晩には、京橋で一緒に天麩羅屋《てんぷらや》へ入って、飯を食って、電車で帰った。表町の角まで来ると、自分は一町ほど先へ歩いて、明るい自分の店へ別々に入った。何の意味もなかったが、ただそうしなければ気が済まぬように思った。それからのお国は、以前よりは素直であった。自分も初めて女というものの、暖かいある物につつまれているように感じた。

     三十

 それから二、三日は、また仲をよく暮らすのであるが、後からじきに些細《ささい》な葛藤《かっとう》が起きる。それでお国が出てゆくと、新吉は妙にその行く先などが気に引っかかって、一日腹立たしいような、胸苦しいような思いでいなければならぬのが、いかにも苦しかった。
「莫迦を言っちゃいけねえ。」新吉はわざと笑いつけた。「お国と己《おれ》とが、どうかしてるとでも思ってるんだろう。」
「いいえ、そういうわけじゃありませんけれどね、子供が死んでも来て下さらないところを見れば、あなたは私のことなんぞ、もう何とも思っていらっしゃらないんだわ。」
 新吉は横を向いて黙っていた。むろんお作の流産のことを想い出すと、病気に取り着かれるようであった。彼奴《やつ》も可哀そうだ、一度は行って見てやらなければ……という気はあっても、さて踏み出して行く決心が出来なかった。明日《あす》は明日はと思いながら、つい延引《のびのび》になってしまった。頭脳《あたま》が三方四方へ褫《と》られているようで、この一月ばかりの新吉の胸の悩ましさというものは、口にも辞《ことば》にも出せぬほどであった。その苦しい思いが、何でお作に解ろう。お作はとてもそういうことを打ち明ける相手ではないと、そう決めていた。
「それで、私が帰れば、お国さんは出てしまうんですの。」お作はおずおず訊いた。
 新吉は、口のうちで何やら曖昧《あいまい》なことを言っていた。
「義理だから、己から出て行けと言うわけにも行かないが、いずれお国にも考えがあるだろう……。それでお前はいつごろ帰って来られるね。」
「もう一週間も経てば、大概いいだろうと思うですがね……でも、お国さんがいては、私何だかいやだわ。阿母《おっか》さんもそう言うんですわ。小石川の叔母さんだけは、それならばなおのこと、速く癒《なお》って帰らなければいけないと言うんですけれど……。」
 新吉は、二人の間《なか》が、もうそういう危機に迫っているのかと、胸がはらはらするようであった。
「どちらにしても、お前が速く癒ってくれなければ……。」と気休めを言っていたが、そうテキパキ事情の決まるのが、何だかいやなような気がした。
 新吉と別れてから、十日目にお作は嫂に連れられて、表町へ帰って来た。ちょうどそれが朝の十時ごろで、三月と言っても、まだ余寒のきびしい、七、八日ごろのことであった。腕車《くるま》が町の入口へ入って来ると、お作は何とはなし気が詰るような思いであった。町の様子は出て行った時そのままで、寂れた床屋の前を通る時には、そこの肥った禿頭《はげあたま》の親方が、細い目を瞠《みは》って、自分の姿を物珍らしそうに眺めた。蕎麦屋《そばや》も荒物屋も、向うの塩煎餅屋《しおせんべいや》の店頭《みせさき》に孫を膝に載せて坐っている耳の遠い爺《じい》さんの姿も、何となくなつかしかった。
 腕車《くるま》を降りると、お作はちょいと嫂を振り顧《かえ》って躊躇《ちゅうちょ》した。
「姉さん……。」と顔を赧《あか》らめて、嫂から先へ入らせた。

     三十一

 店には増蔵が一人いるきりで、新吉の姿が見えなかった。奥へ通ると、水口《みずぐち》の方で、蓮葉《はすは》なような口を利いている女の声がする。相手は魚屋の若い衆らしい。干物《ひもの》のおいしいのを持って来て欲しいとか、この間の鮭《しゃけ》は不味《まず》かったとか、そういうようなことを言っている。お前さんとこの親方は威勢がいいばかりで、肴《さかな》は一向新しくないとか、刺身の作り方が拙《まず》くてしようがないとかいう小言もあった。
 お作は嫂と一緒に、お客にでも来たように、火鉢を一尺も離れて、キチンと坐って聞いていた。
「それじゃね、晩にお刺身を一人前……いいかえ。」と言って、お国は台所の棚へ何やら収《しま》い込んでから、茶の室《ま》へ入って来た。軟《やわら》かものの羽織を引っ被《か》けて、丸髷《まるまげ》に桃色の手絡《てがら》をかけていた。生《は》え際《ぎわ》がクッキリしていて、お作も美しい女だと思った。
 お国は、キチンと手を膝に突いている二人の姿を見ると、
「オヤ。」とびっくりしたような風をして、
「何てえんでしょう、私ちっとも知りませんでしたよ。それでも、もうそんなに快《よ》くおなんなすって。汽車に乗ってもいいんですか。」と火鉢の前に座を占めて、鉄瓶を持ちあげて、火を直した。
「え、もう……。」とお作は淋しい笑顔《えがお》を挙げて、「まだ十分というわけには行きませんけれど……。」と嫂の方を向いて、「姉さん、この方が小野さんのお内儀《かみ》さん……。」
「さようでございますか。」と姉が挨拶しようとすると、お国はジロジロその様子を眺めて、少し横の方へ出て、洒々《しゃあしゃあ》した風で挨拶した。そうして菓子を出したり、茶をいれたりした。
「あなたも流産なすったんですってね。私一度お見舞いに上ろうと思いながら……何《なん》しろ手が足りないんでしょう。」
 お作は嫂と顔を見合わしてうつむいた。
「暮だって、お正月だって、私一人きりですもの。それに新さんと来たら、なかなかむずかしいんですからね……。マアこれでやっと安心です。人様の家を預かる気苦労というものはなかなか大抵じゃありませんね。」
「真実《ほんとう》にね。」とお作は赤い顔をして、気の毒そうに言った。「どうも永々済みませんでした。」
 お作はしばらくすると、着物を着替えて、それから台所へ出た。お国は、取っておいた鯵《あじ》に、塩を少しばかり撒《ふ》って、鉄灸《てっきゅう》で焼いてくれとか、漬物《つけもの》は下の方から出してくれとか、火鉢の側から指図がましく声かけた。お作は勝手なれぬ、人の家にいるような心持で、ドギマギしながら、昼飯《ひる》の支度にかかった。 
 飯時分に新吉が帰って来た。新吉はお作の顔を見ると、「ホ……。」と言ったきりで、話をしかけるでもなかった。飯の時、お作はお国の次に坐って、わが家の飯を砂を噛《か》むような思いで食った。

     三十二

 それでも、嫂のいるうちは、いくらか話が持てた。そうして家が賑《にぎ》やかであった。日の暮れ方になると、嫂は急に気を変えて、これから小石川へもちょっと寄らなければならぬからと言って、暇を告げようとした。お作は、にわかに寂しそうな顔をした。
 お作は嫂を台所へ呼び出して、水口の方へ連れて行って、何やら密談《ないしょばなし》をし始めた。
「お国さんは、まったく変ですよ。私何だか厭で厭で、しようがないわ。」と顔を顰《しか》めた。
「真実《ほんとう》に勝手の強そうな、厭な女だね。」と嫂も心《しん》から憎そうに言った。「でも、いつまでもいるわけじゃないでしょう。私でも帰ったら、あの人も帰るでしょう。かまわないから、テキパキきめつけてやるといい。」
「でも、宅《うち》はどういう気なんでしょう。」
「サア、新さんが柔和《おとな》しいからね。」と嫂も曖昧《あいまい》なことを言った。そうして溜息を吐《つ》いた。その顔を見ると、何だか望みが少なそうに見える。「お前さんは、よっぽどしっかりしなくちゃ駄目だよ。」と言っているようにも見えるし、「あの女にゃ、どうせ敵《かな》やしない。」と失望しているようにも見える。
 三、四十分、顔を突き合わしていたが、別にどうという話も纏《まと》まらない。いずれその内にはお国が帰るだろうからとか、新さんだってまさか、あの人をどうしようという気でもあるまいから、しばらく辛抱おしなさいとか、そのくらいであった。
 お作は嫂の口から、そのことをよく新吉に話してくれということを頼んだ。
「姉さんから、宅《うち》の人の料簡《りょうけん》を訊いて見て下さいよ。」と言った。
「それはお作さんから訊く方がいいわ。私がそれを訊くと、何だか物に角《かど》が立って、かえって拙《まず》かないかね。」
「そうね。」とお作は困ったような顔をする。
 台所から出て来た時、お国は店にいた。新吉も店にいた。お作と嫂の茶の室《ま》へ入って来る気勢《けはい》がすると一緒に、お国も茶の室へ入って来た。それを機《きっかけ》に、嫂が、「どうもお邪魔を致しました……。」と暇を告げる。
「オヤ、もうお帰り。マアいいじゃありませんか。」お国は
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