も肩で息をしていた。気が重いのか、口の利き方も鈍かった。差し向いになると黙ってうつむいてしまうのであるが、折々|媚《こ》びるような素振りをして、そっと男の顔を見上げていた。新吉は外方《そっぽう》を向いて、壁にかかった東郷大将の石版摺《せきばんず》りの硝子張《ガラスば》りの額など見ていた。床の鏡餅に、大きな串柿《くしがき》が載せてあって、花瓶《かびん》に梅が挿《さ》してあった。
「今日はお泊りなすってもいいんでしょう。」お作は何かのついでに言い出した。
「イヤ、そうは行かねえ。日一杯に帰るつもりで来たんだから。」新吉は素気《そっけ》もない言い方をする。
しばらく経ってから、「このごろ、小野さんのお内儀《かみ》さんが来ているんですって……。」
「ア、お国か、来ている。」と新吉はどういうものか大きく出た。
お作はうつむいて灰を弄《いじ》っていた。またしばらく経ってから、「あの方、ずっといるつもりなんですか。」
「サア、どういう気だか……彼女《あれ》も何だか変な女だ。」新吉は投げ出すように言った。
二十五
「でも、ずるずるべったりにいられでもしたら困るでしょう。」お作は気の毒そうに、赤い顔をして言った。
新吉は黙っている。
「今のうち、断わっちまうわけには行かないんですの。」
「そうもいかないさ。お国だって、さしあたり行くところがないんだからね。」と新吉は胡散《うさん》くさい目容《めつき》をして、「それに宅《うち》だって、まるきり女手がなくちゃやりきれやしない。人を傭《やと》うとなると、これまたちょっと億劫《おっくう》なんです。だからこっちも別に損の行く話じゃねえし……。」と独りで頷《うなず》いて見せた。
お作は一層不安そうな顔をした。
「でもこの間、和泉屋さんが行った時、あの方が一人で宅《うち》を切り廻していたとか……何だかそんなようなお話を、小石川の叔父さんにしていたそうですよ。」とお作はおずおず言った。「それに、あなたは少しも来て下さらないし、気分でも少し悪いと、私何だか心細くなって……何だってこんなところへ引っ込んだろうと、つくづくそう思うわ。」
「お前の方で引き取ったのじゃないか。親兄弟の側で産ませれば、何につけ安心だからというんで、小石川の叔母さんが来て連れて行ったんだろう。」と新吉は邪慳《じゃけん》そうに言った。
「それはそうですけれど。」
「その時私がちゃんと小遣いまで配《あてが》って、それから何分お願い申しますと、叔母っ子に頼んだくらいじゃないか。」と新吉の語気は少し急になって来た。
「己《おれ》はすることだけはちゃんとしているんだ。お前に不足を言われるところはねえつもりだ。小野なんぞのすること見ねえ、あの内儀さんと一緒になってから、もう大分になるけれど、今に人の宅《うち》の部屋借りなんぞしてる始末だ。いろいろ聞いて見ると随分内儀さんを困らしておくそうだ。そのあげくに今度の事件だろう。内儀さんは裸になってしまったよ。いるところもなけれア、喰うことも出来やしない。その癖あの内儀さんと来たら、なかなか伎倆《はたらき》もんなんだ。客の応対ぶりだって、立派なもんだし、宅《うち》もキチンキチンとする方だし……どうしてお前なんざ、とても脚下《あしもと》へも追っ着きゃしねえ。」
お作は赤い顔をしてうつむいていた。
「私《あっし》なんざ、内儀さんにはよくする方なんだ。これで不足を言われちゃ埋《うま》らないや。」
「不足を言うわけじゃないんですけれど……。」お作はあちらの部屋へ聞えでもするかと独りではらはらしていた。
「真実《ほんと》に……。」と鼻頭《はなさき》で笑って、「和泉屋の野郎、よけいなことばかり弁《しゃべ》りやがって、彼奴《あいつ》に私《あっし》が何の厄介になった。干渉される謂《い》われはねえ。」と新吉はブツブツ言っていた。
「そうじゃないんですけれどね……。」お作はドギマギして来た。
二十六
「マア一口……。」と言って、初手《しょて》に甘ッたるい屠蘇《とそ》を飲まされた。それから黒塗りの膳が運ばれた。膳には仕出し屋から取ったらしい赤い刺身や椀や、鯔《いな》の塩焼きなどがならべてあった。
「サア、お作や、お前お酌をしてあげておくれ。あいにくお相をする者がおりませんでね……。」
お作は無器用な手容《てつき》で、大きな銚子から酒を注《つ》いだ。新吉は刺身をペロペロと食って、けろりとしているかと思うと、思い出したように猪口を口へ持ってゆく。
「阿母《おっか》さん、一つどうですな。」とやがて母親へ差した。
「さようでございますかね。それでは……。」と母親は似而非笑《えせわら》いをして、両手で猪口を受け取った。そうしてお作に少しばかり注がせて、じきに飲み干して返した。
「これも久しく東京へ出ていたせいでござりますか、大変に田舎を寂しがりまして……それに、だんだん産月《うみづき》も近づいて参りますと、気が鬱《ふさ》ぐと見えまして、もう自分で穴掘って入《へえ》るようなことばかり言っておるでござります。」とそれからお作が亭主や家思《うちおも》いの、気立ての至って優しいものだということを説き出した。前《ぜん》に奉公していた邸《やしき》で、ことのほか惜しまれたということ、稚《ちいさ》い時分から、親や兄に、口答え一つしたことのない素直な性質だということも話した。生来《うまれつき》体が弱いから、お産が重くでもあったら、さぞ応《こた》えるであろうと思って、朝晩に気をつけて大事にしていること、牛乳を一合ずつ飲まして、血の補いをつけておることなども話した。産れる子の初着《うぶぎ》などを、お作に持って来さして、お産の経験などをくどくどと話した。
新吉は「ハ、ハ。」と空返辞《からへんじ》ばかりしていたが、その時はもう酒が大分廻って来た。
「お店の方も、追い追い御繁昌《ごはんじょう》で、誠に結構でござります。」母親は話を変えた。
「お蔭でまアどうかこうか……。」と新吉は大概|肴《さかな》を荒してしまって、今度は莨《たばこ》を喫《す》い出した。そうして気忙しそうに時計を引き出して、「もう四時だ。」
「マア、あなたようござりましょう。春初めだからもっと御ゆっくりなすって……そのうちには兄も帰ってまいります。」と母親は銚子を替えに立った。
二人とも黙ってうつむいてしまった。障子の日が、もう蔭ってしまって、部屋には夕気《ゆうけ》づいたような幽暗《ほのぐら》い影が漂うていた。風も静まったと見えて、外はひっそとしていた。
「今日は、真実《ほんとう》にいいんでしょう。」お作はおずおず言い出した。
「商人が家《うち》を明けてどうするもんか。」と新吉は冷たい酒をグッと一ト口に飲んだ。
それからかれこれ一時間も引き留められたが、暇《いとま》を告げる時、お作は低声《こごえ》で、「お産の時、きっと来て下さいよ。」と幾度も頼んだ。
店頭《みせさき》へ送って出る時、目に涙が一杯溜っていた。
二十七
腕車《くるま》がステーションへ着くころ、灯《ひ》がそこここの森蔭から見えていた。前の濁醪屋《どぶろくや》では、暖《あった》かそうな煮物のいい匂《にお》いが洩れて、濁声《だみごえ》で談笑している労働者の影も見えた。寒い広場に、子守が四、五人集まって、哀れな調子の唄《うた》を謳《うた》っているのを聞くと、自分が田舎で貧しく育った昔のことが想い出される。新吉はふと自分の影が寂しいように思って、「己の親戚《みうち》と言っちゃ、まアお作の家だけなんだから……。」と独り言を言っていた。
汽車は間もなく出た。新吉は硬いクッションの上に縮かまって横になると、じきに目を瞑《つぶ》った。中野あたりまでとりとめもなくお作のことを考えていた。あまり可愛いと思ったこともないが、何だか深く胸に刻み込まれてしまったようにも思えた。そのうちに、ウトウトと眠ったかと思うと、東京へ入るに従って、客車が追い追い雑踏して来るのに気がついた。
飯田町のステーションを出るころは、酔《え》いがもうすっかり醒《さ》めていた。新吉は何かに唆《そその》かされるような心持で、月の冴《さ》えた広い大道をフラフラと歩いて行った。
店では二人の小僧が帳場で講釈本を読んでいた。黙って奥へ通ると、茶の室《ま》には湯の沸《たぎ》る音ばかりが耳に立って、その隅ッこの押入れの側で、蒲団を延べて、按摩《あんま》に腰を揉《も》ましながら、グッタリとお国が正体もなく眠っていた。後向きになった銀杏返《いちょうがえ》しの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏《うつぶ》しになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。貧相な男按摩は、薄気味の悪い白眼を剥《む》き出して、折々|灯《ひ》の方を瞶《みつ》めていた。
坐って鉄瓶を下す時の新吉の顔色は変っていた。煙管《きせる》を二、三度、火鉢の縁に敲《たた》きつけると、疎《うと》ましそうに女の姿を見やって、スパスパと莨を喫《す》った。するうちお国は目を覚ました。
「お帰りなさい。」と舌のだらけたような調子で声かけた。「少し御免なさいよ。あまり肩が凝ったもんですから……あなたもお疲れでしょう。後で揉んでおもらいなすってはどうです。」
新吉は何とも言わなかった。
しばらくすると、お国は懈《だる》そうに、うつむいたまま顔を半分こっちへ向けた。
「どうでした、お作さんは……。」
「イヤ、別に変りはないようです。」新吉は空を向いていた。
お国はまだ何やら、寝ぼけ声で話しかけたが、後は呻吟《うめ》くように細い声が聞えて、じきにウトウトと眠りに陥《お》ちてしまう。
新吉は茶を二、三杯飲むと、ツト帳場へ出た。大きな帳面を拡げて、今日の附揚《つけあ》げをしようとしたが、妙に気がイライラして、落ち着かなかった。おそろしい自堕落な女の本性が、初めて見えて来たようにも思われた。
「莫迦にしてやがる。もう明日からお断わりだ。」
二十八
療治が済むと、お国は自分の財布から金をくれて按摩を返した。近所ではもうパタパタ戸が閉《しま》るころである。
お国はいつまでも、ぽつねんと火鉢の前に坐っていたが、新吉も十一時過ぎまで帳場にへばり着いていた。
寝支度に取りかかる時、二人はまた不快《まず》い顔を合わした。新吉はもう愛想がつきたという顔で、ろくろく口も利かず、蒲団のなかへ潜《もぐ》り込んだ。お国は洋燈《ランプ》を降したり、火を消したり、茶道具を洗ったり、いつもの通り働いていたが、これも気のない顔をしていた。
寝しなに、ランプの火で煙草を喫《ふか》しながら、気がくさくさするような調子で、「アア、何だか厭になってしまった。」と溜息を吐《つ》いた。「もうどっちでもいいから、早く決まってくれればいい。裁判が決まらないうちは、どうすることも出来やしない。ね、新さん、どうしたんでしょうね。」
新吉は寝た振りをして聴いていたが、この時ちょっと身動きをした。
「解んねえ。けど、まア入るものと決めておいて、自分の体の振り方をつけた方がよかないかね。私《あっし》あそう思うがね。」と声が半分蒲団に籠《こも》っていた。「そうして出て来るのを待つんですね。」
「ですけど、私だって、そう気長に構えてもいられませんからね。」と寝衣姿《ねまきすがた》のまま自分の枕頭《まくらもと》に蹲跪《つくば》って、煙管をポンポン敲いた。「あの人の体だって、出て来てからどうなるか解りゃしない。」
新吉はもう黙っていた。
翌日《あした》目を覚まして見ると、お国はまだ寝ていた。戸を開けて、顔を洗っているうちに、ようやく起きて出た。
朝飯が済んでしまうと、お国は金盥《かなだらい》に湯を取って、顔や手を洗い、お作の鏡台を取り出して来て、お扮飾《つくり》をしはじめた。それが済むと、余所行《よそゆ》きに着替えて、スッと店頭《みせさき》へ出て来た。
「私ちょいと出かけますから……。」と帳場の前に膝《ひざ》を突いて、どこへ行くとも言わず出てしまった。
新吉はどこか気がか
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