計の出物があるから買わないかとか、格安な莨入れの渋い奴があるから取っておけとか、よくそういう話を新吉に持ち込んでくる。
「私《あっし》なんぞは、そんなものを持って来たって駄目さ。気楽な隠居の身分にでもなったら願いましょうよ。」と言って新吉は相手にならなかった。
「だが君はいいね。そうやって年中|常綺羅《じょうきら》でもって、それに内儀さんは綺麗だし……。」と新吉は脂《やに》ッぽい煙管《きせる》をむやみに火鉢の縁で敲《たた》いて、「私《あっし》なんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」とそれからお作のことを零《こぼ》し始める。
「その後どうしてるんだい。」と小野はジロリと新吉の顔を見た。
「どうしたか、己《おら》さっぱり行って見もしねえ。これっきり来ねえけれア、なおいいと思っている。
「子供が出来れアそうも行くまい。」

     十七

「どんな餓鬼《がき》が出来るか。」と新吉は忌々《いまいま》しそうに呟《つぶや》いた。
 小野は黙って新吉の顔を見ていたが、「だが、見合いなんてものは、まったく当てにはならないよ。新さんの前だが、彼《あれ》は少し買い被ったね。婚礼の晩に、初めてお作さんの顔を見て、僕はオヤオヤと思ったくらいだ。」
「まったくだ。」新吉は淋しく笑った。「どうせ縹致《きりょう》なんぞに望みのあるわけアねえんだがね。……その点は我慢するとしても、彼奴《やつ》には気働きというものがちっともありゃしねえ。客が来ても、ろくすっぽう挨拶することも知んねえけれア、近所隣の交際《つきあい》一つ出来やしねえんだからね。俺アとんだ貧乏籤《びんぼうくじ》を引いちゃったのさ。」と新吉は溜息を吐《つ》いた。
「ともかく、もっと考えるんだったね。」と小野も気の毒そうに言う。「だがしかたがねえ、もう一年も二年も一緒にいたんだし、今さら別れると言ったって、君はいいとしても、お作さんが可哀そうだ。」
「だが、彼奴《やつ》もつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩《けんか》して、毒づかれて、打撲《はりとば》されてさ。……己《おら》頭から人間並みの待遇《あつかい》はしねえんだからね。」と新吉は空笑《そらわら》いをした。
「其奴《そいつ》ア悪いや。」と小野も気のない笑い方をする。
「今度マアどうなるか。」と新吉は考え込むように、「彼奴《やつ》も己《おれ》の気の荒いにはブルブルしてるんだから、お袋や兄貴に話をして、子供でも産んでしまったら、離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」と自分で笑いつけた。モヤモヤする胸の中《うち》が、抑えきれぬという風も見えた。
「そうでもねえんさ。」と小野は自分で頷《うなず》いて、「女は案外我慢強いもんさ。こっちから逐《お》ん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」
「どうして、そうでねえ。」新吉は目眩《まぶ》しそうな目をパチつかせた。「君にゃよくしてるし、客にも愛想はいいし、己ンとこの山の神に比べると雲泥《うんでい》の相違だ。」
 二人顔を合わすと、いつでもこうした噂が始まる。小野はいかにも暢気《のんき》らしく、得意そうであった。小野が帰ってしまうと、新吉はいつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる。何や彼や思い詰めると、あくせく働く甲斐《かい》がないようにも思われた。
 忙《せわ》しい十二月が来た。新吉の体と頭脳《あたま》はもうそんな問題を考えている隙《ひま》もなくなった。働けばまた働くのが面白くなって、一日の終りには言うべからざる満足があって、枕に就くと、去年から見て今年の景気のいいことや、得意場の殖えたことを考えて楽しい夢を結んだ。この上不足を言うところがないようにも思われた。
「少し手隙《てすき》になったら、一度お作を訪ねて、奴にも悦《よろこ》ばしてやろう。」などと考えた。

     十八

 ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色《うすいろ》の吾妻《あずま》コートを着た銀杏返《いちょうがえ》しの女が一人、腕車《くるま》でやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。
 お国は下町風の扮装《つくり》をしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗《ききょう》がかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、清《すず》しいながら目容《めつき》は少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌《あいきょう》のある顔である。
「御免下さい。」と蓮葉《はすは》のような、無邪気なような声で言って、スッと入って来た。そこに腰かけて、得意先の帳面を繰っていた小僧は、周章《あわ》てて片隅へ避《よ》けた。新吉は筆を耳に挟《はさ》んだまま、軽く挨拶した。
「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールを脱《と》って、コートの前を外《はず》した。頬が寒い風に逢《あ》って来たので紅味《あかみ》を差して、湿《うる》みを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色も淡《うす》く、紊《ほつ》れ毛もそそけていた。
「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔を瞶《みつ》めたが、じきに視線を外《そら》して、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それに嚊《かか》はいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」
「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。
「真実《ほんとう》に景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」
「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」
 新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。
「お忙《せわ》しいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」と更《あらた》まって、お辞儀をして、ジロジロ四下《あたり》を見廻した。
「随分きちんとしていますわね。それに何から何まで揃《そろ》って、小野なんざとても敵《かな》やしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声《こごえ》で何やら言っていた。
 新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。
「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」
 新吉は微温《ぬる》い茶を汲《く》んで出しながら、「私《あたし》なんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金を儲《も》ける伎倆《はたらき》はねえんだから。」
「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆《がっかり》したように口を噤《つぐ》んだ。顔の紅味がいつか褪《ひ》いて蒼《あお》くなっていた。

     十九

 お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦《そば》を食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日《あした》朝|夙《はや》く、寝込みに踏み込まれて、ろくろく顔を洗う間もなく引っ張られて行った始末を詳しく話した。小野はむっくり起き上ると、「拘引されるような覚えはない。行けば解るだろう。」と着物を着替えて、紙入れや時計など持って、刑事に従《つ》いて出た。
「なあに何かの間違いだろう。すぐ帰って来るから心配するなよ。」とオロオロするお国をたしなめるように言ったが、出る時は何だか厭な顔色をしていた。それきり何の音沙汰《おとさた》もない。昨夜《ゆうべ》は一ト晩中寝ないで待ったが、今朝になっても帰されて来ぬところを見ると、今日もどうやら異《あや》しい。何か悪いことでもして未決へでも投《ぶ》ち込まれているのではなかろうか。刑事の口吻《くちぶり》では、オイそれと言って出て来られそうな様子も見えなかったが……。
「一体どうしたんでしょう。」とお国は、新吉の顔に不安らしい目を据《す》えた。
「サア……。」と言って新吉は口も利かず考え込んだ。
 お国の目は一層深い不安の色を帯びて来た。「小野という男は、どういう人間なんでしょうか。」
「どんなって、つまりあれッきりの人間だがね……。」とまた考え込む。
「すると何かの間違いでしょうか。間違いなら嫌疑《けんぎ》とか何とかそう言って連れて行きそうなもんじゃありませんかね。」とお国は馴《な》れ馴れしげに火鉢に頬杖《ほおづえ》をついた。
「解んねえな。」と新吉も溜息を吐《つ》いた。「だが、今日は帰って来ますよ。心配することはねえ。」
「でも、あの人の田舎の裁判所から、こっちへ言って来たんだそうですよ。刑事がそう言っていましたもの。」とお国は一層深く傷口に触《さわ》るような調子で、附け加えた。
「だから、私何だか変だと思うの。田舎で何か悪いことをしてるんじゃないかと思って。」と猜疑深《うたぐりぶか》い目を見据えた。
「田舎のことア私《あっし》にゃ解んねえが、マアどっちにしても、今日は何とか様子が解るだろう。」
 新吉の頭脳《あたま》には、小野がこのごろの生活《くらし》の贅沢《ぜいたく》なことがじきに浮んで来た。きっと危《あぶな》いことをしていたに違いないということも頷かれた。「だから言わねえこッちゃない。」と独りでそう思った。
 お国は十二時ごろまで話し込んでいた。話のうちに新吉は二度も三度も店へ起《た》った。お国は新吉の知らない、小野の生活向《くらしむ》きのコマコマした秘密話などして、しきりに小野の挙動や、金儲けの手段が疑わしいというような口吻《こうふん》を洩《も》らしていた。

     二十

 小野の拘引事件は思ったより面倒であった。拘引された日に警視庁からただちに田舎の裁判所へ送られた。詳しい事情は解らなかったが、田舎のある商人との取引き上、何か約束手形から生じた間違いだということだけが知れた。期限の切れた手形の日附を書き直して利用したとかいうのであった。訴えた方も狡猾《こうかつ》だったが、小野のやり方もずるかった。小野からは内儀さんのところへ二、三度手紙が来た。新吉へもよこした。お国には東京に力となる親戚《しんせき》もないから、万事お世話を願う。青天白日の身になった暁《あかつき》、きっと恩返しをするからという意味の依頼もあった。弁護士を頼むについて、金が欲しいというようなことも言って来た。暮の二十日過ぎに、お国は新吉と相談して、方々借り集めたり、着物を質に入れなどして、少し纏《まと》まった金を送ってやった。
 お国と新吉とはほとんど毎日のように顔を合わすようになった。新吉の方から出向かない日は、大抵お国が表町へやって来る。話はいつでも未決にいる小野のことや、裁判の噂で持ちきっている。もし二年も三年も入れられるようだったら、どうしたものだろうという、相談なども持ちかける。
「いろいろ人に訊《き》いて見ますと、ちょっと重いそうですよ。二年くらいはどうしても入るだろうというんですがね。二年も入っていられたんじゃ、入っている者よりか、残された私がたまらないわ。向うは官費だけれど、こっちはそうは行かない。それにもう指環や櫛《くし》のような、少し目ぼしいものは大概金にして送ってやってしまったし……。」とお国は零《こぼ》しはじめる。
 新吉は、「何、私《あっし》だって小野君の人物は知ってるから、まさかあなた一人くらい日干しにするようなことはしやしない。どうかなるさ。」と言っていたが、これという目論見《もくろみ》も立たなかった。
 押し迫《つま》るにつれて店はだんだん忙《せわ》しくなって来た。門《かど》にはもう軒並み竹が立てられて、ざわざわと風に鳴っていた。殺風景な新開の町にも、年の瀬の波は押し寄せて、逆上《のぼ》せたような新吉の目の色が渝《かわ》っていた。お国はいつの間にか、この二、三日入浸りになっていた。奥のことは一切取
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