でもお金が残るわ。」
「当然《あたりまえ》じゃねえか。」新吉は嬉しそうな笑《え》みを目元に見せたが、じきにこわいような顔をする。お作が始末屋というよりは、金を使う気働きすらないということは、新吉には一つの気休めであった。お作には、ここを切り詰めて、ここをどうしようという所思《おもわく》もないが、その代り|鐚《びた》一文自分の意志で使おうという気も起らぬ。ここへ来てから新吉の勝手元は少しずつ豊かになって来た。手廻りの道具も増《ふ》えた。新吉がどこからか格安に買って来た手箪笥や鼠入《ねずみい》らずがツヤツヤ光って、着物もまず一と通り揃《そろ》った。保険もつければ、別に毎月の貯金もして来た。お作はただの一度も、自分の料簡《りょうけん》で買物をしたことがない。新吉は三度三度のお菜《かず》までほとんど自分で見繕《みつくろ》った。お作はただ鈍《のろ》い機械のように引き廻されていた。

     十三

 得意場廻りをして来た小僧の一人が、ぶらりと帰って来たかと思うと、岡持をそこへ投《ほう》り出して、「旦那。」と奥へ声をかけた。
「××さんじゃ酒の小言が出ましたよ。あんな水ッぽいんじゃいけないから、今度少し吟味しろッって……。今持って行くんです。」
「吟味しろッて。」新吉は顔を顰《しか》めて、「水ッぽいわけはねえんだがな。誰がそう言った。」
「旦那がそう言ったですよ。」
「そういうわけは決してございませんッって。もっとも少し辛くしろッてッたから、そのつもりで辛口にしたんだが……。」と新吉は店へ飛び出して、下駄を突っかけて土間へ降りると、何やらブツクサ言っていた。
 店ではゴボゴボという音が聞える。しばらくすると、小僧はまた出て行った。
「ろくな酒も飲まねえ癖に文句ばっかり言ってやがる。」と独言《ひとりごと》を言って、新吉は旧《もと》の座へ帰って来た。得意先の所思《おもわく》を気にする様子が不安そうな目の色に見えた。
 お作は番茶を淹《い》れて、それから湿《しと》った塩煎餅《しおせんべい》を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛《かじ》っていた。三月の末で、外は大分春めいて来た。裏の納屋《なや》の蔭にある桜が、チラホラ白い葩《はなびら》を綻《ほころ》ばせて、暖かい日に柔かい光があった。外は人の往来《ゆきき》も、どこか騒《ざわ》ついて聞える。新吉は何だか長閑《のどか》なような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕《ゆとり》がついて来たのも、一つの原因であろう。
 お作は何《なん》かの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。
 新吉は黙ってお作の顔を見た。
「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華《れんげ》や蒲公英《たんぽぽ》が咲いて……野良《のら》のポカポカする時分の摘み草なんか、真実《ほんと》に面白うござんすよ。」
「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」
「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦《はぐき》を見せながら笑った。
「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月の儲《もう》けはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。産《うま》れ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」
 お作は急に萎《しょ》げてしまう。
「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実《ほんとう》だ。」
 新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。

     十四

 桜の繁《しげ》みに毛虫がつく時分に、お作はバッタリ月経《つきのもの》を見なくなった。お作は冷え性の女であった。唇《くちびる》の色も悪く、肌《はだ》も綺麗《きれい》ではなかった。歯性も弱かった。菊が移《すが》れるころになると、新吉に嗤《わら》われながら、裾《すそ》へ安火《あんか》を入れて寝た。これという病気もしないが時々食べたものが消化《こな》れずに、上げて来ることなぞもあった。空風《からかぜ》の寒い日などは、血色の悪い総毛立ったような顔をして、火鉢に縮かまっていた。少し劇《はげ》しい水仕事をすると、小さい手がじきに荒れて、揉《も》み手をすると、カサカサ音がするくらいであった。新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口《ちょく》に一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点《きゅうてん》の上手があると聞いたので、それをも試みさした。
「今からそんなこってどうするんだ。まるで婆さんのようだ。」と新吉は笑いつけた。
 お作はもうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せた。
 こうした弱い体で、妊娠したというのは、ちょっと不思議のようであった。
「嘘《うそ》つけ。体がどうかしているんだ。」と新吉は信じなかった。
「いいえ。」とお作は赤い顔をして、「大分|前《さき》からどうも変だと思ったんです。占って見たらそうなんです。」
 新吉は不安らしい目色《めつき》で、妻の顔を見込んだ。
「どうしたんでしょう、こんな弱い体で……。」といった目色《めつき》で、お作もきまり悪そうに、新吉の顔を見上げた。
 それから二人の間に、コナコナした湿《しめ》やかな話が始まった。新吉は長い間、絶えず悪口《あっこう》を浴びせかけて来たことが、今さら気の毒なように思われた。てんで自分の妻という考えを持つことの出来なかったのを悔いるような心も出て来た。ついこの四、五日前に、長湯をしたと言って怒ったのが因《もと》で、アクザモクザ罵《ののし》った果てに、何か厄介者《やっかいもの》でも養っていたようにくやしがって、出て行け、今出て行けと呶鳴《どな》ったことなども、我ながら浅ましく思われた。
 それに、妊娠でもしたとなると、何だか気が更《あらた》まるような気もする。多少の不安や、厭な感じは伴いながら、自分の生活を一層確実にする時期へ入って来たような心持もあった。
 お作はもう、お産の時の心配など始めた。初着《うぶぎ》や襁褓《むつき》のことまで言い出した。
「私は体が弱いから、きっとお産が重いだろうと思って……。」お作は嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて、男の顔を眺めた。新吉はいじらしいような気がした。
 お作は十二時を聞いて、急に針を針さしに刺した。めずらしく顔に光沢《つや》が出て、目のうちにも美しい湿《うるお》いをもっていた。新吉はうっとりした目容《めいろ》で、その顔を眺《なが》めていた。

     十五

 お作は婚礼当時と変らぬ初々《ういうい》しさと、男に甘えるような様子を見せて、そこらに散った布屑《きれくず》や糸屑を拾う。新吉も側《そば》で読んでいた講談物を閉じて、「サアこうしちアいられねえ。」と急《せ》き立てられるような調子で、懈怠《けだる》そうな身節《みぶし》がミリミリ言うほど伸びをする。
「もう親父《おやじ》になるのかな。」とその腕を擦《こす》っている。
「早いものですね、まるで夢のようね。」とお作もうっとりした目をして、媚《こ》びるように言う。「私のような者でも、子が出来ると思うと不思議ね。」
 二人はそれから婚礼前後の心持などを憶い出して、つまらぬことをも意味ありそうに話し出した。こうした仲の睦《むつ》まじい時、よく双方の親兄弟の噂《うわさ》などが出る。親戚《みうち》の話や、自分らの幼《ちいさ》い折の話なども出た。
「お産の時、阿母《おっか》さんは田舎へ来ていろと言うんですけれど、家にいたっていいでしょう。」
 時計が一時を打つと、お作は想い出したように、急いで床を延べる。新吉に寝衣《ねまき》を着せて床の中へ入れてから、自分はまたひとしきり、脱棄《ぬぎす》てを畳んだり、火鉢の火を消したりしていた。
 二、三日はこういう風の交情《なか》が続く。新吉はフイと側へ寄って、お作の頬《ほお》に熱いキスをすることなどもある。ふと思いついて、近所の寄席《よせ》へ連れ出すこともあった。
 が、そうした後では、じきに暴風《あらし》が来る。思いがけないことから、不意と新吉の心の平衡が破れて来る。
「……少し甘やかしておけア、もうこれだ。」と新吉は昼間火鉢の前で、お作がフラフラと居眠りをしかけているのを見つけると、その鼻の先で癪《しゃく》らしく舌打ちをして、ついと後へ引き返してゆく。
 お作はハッと思って、胸を騒がすのであるが、こうなるともう手の着けようがない。お作の知恵ではどうすることも出来なくなる。よくよく気が合わぬのだと思って、心の中《うち》で泣くよりほかなかった。新吉の仕向けは、まるで掌《て》の裏《うら》を翻《かえ》したようになって、顔を見るのも胸糞《むねくそ》が悪そうであった。
 秋の末になると、お作は田舎の実家《さと》へ引き取られることになった。そのころは人並みはずれて小さい腹も大分目に立つようになった。伝通院前の叔母が来て、例の気爽《きさく》な調子で新吉に話をつけた。
 夫婦間の感情は、糸が縺《もつ》れたように紛糾《こぐらか》っていた。お作はもう飽かれて棄てられるような気もした。新吉はお作がこのまま帰って来ないような気がした。お作はとにかくに衆《みんな》の意嚮《いこう》がそうであるらしく思われた。
 新吉は小使いを少し持たして、滋養の葡萄酒《ぶどうしゅ》などを鞄《かばん》の隅《すみ》へ入れてやった。
「そのうちには己も行くさ。」
「真実《ほんとう》に来て下さいよ。」お作は出遅れをしながら、いくたびも念を推した。

     十六

 お作が行ってから、新吉は物を取り落したような心持であった。家が急に寂しくなって、三度三度の膳に向う時、妙にそこに坐っているお作の姿が思い出される。お作を毒づいたことや、誹謗《へこな》したことなどを考えて、いたましいようにも思った。何かの癖に、「手前《てめえ》のような能なしを飼っておくより、猫の子を飼っておく方が、はるかに優《まし》だ。」とか、「さっさと出て行ってくれ、そうすれば己も晴々《せいせい》する。」とか言って呶鳴った時の、自分の荒れた感情が浅ましくも思われた。けれど、わざわざお作を見舞ってやる気にもなれなかった。お作から筆の廻らぬ手紙で、東京が恋しいとか、田舎は寂しいとか、体の工合が悪いから来てくれとか言って来るたんびに、舌鼓《したうち》をして、手紙を丸めて、投《ほう》り出した。お袋に兄貴、従妹《いとこ》、と多勢一緒に撮《と》った写真を送って来た時、新吉は、「何奴《どいつ》も此奴《こいつ》も百姓面《ひゃくしょうづら》してやがらア。厭になっちまう。」と吐き出すように言って、二タ目とは見なかった。
 そのころ小野が結婚して、京橋の岡崎町に間借りをして、小綺麗な生活《くらし》をしていた。女は伊勢《いせ》の産《うま》れとばかりで、素性《すじょう》が解らなかった。お作よりか、三つも四つも年を喰っていたが様子は若々しかった。
「君の内儀《かみ》さんは一体何だね。」と新吉は初めてこの女を見てから、小野が訪《たず》ねて来た時不思議そうに訊いた。
「君の目にゃ何と見える。」小野はニヤニヤ笑いながら、悪こすそうな目容《めつき》をした。
「解んねえな。どうせ素人《しろうと》じゃあるめえ。莫迦《ばか》に意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮の剥《む》けねえところもあるし……。」
「そんな代物《しろもの》じゃねえ。」と小野は目を逸《そら》して笑った。
 小野は相変らず綺麗な姿《なり》をしていた。何やらボトボトした新織りの小袖に、コックリした茶博多《ちゃはかた》の帯を締めて、純金の指環など光らせていた。持物も取り替え引き替え、気取った物を持っていた。このごろどこそこに、こういう金時
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