姐《ねえ》さんも気の毒よ。男の兄弟も多勢あるのに、どれもこれもやくざ[#「やくざ」に傍点]で、年がら年中たかられてばかりいるのよ。この土地建て初まりからの姐さんだけれど、今にお米の一升買いしてるという話だわ。あの弁士がまた為様《しよう》のない男で、お金がないというと、暴《あば》れまわって姐さんと取っ組み合いの喧嘩《けんか》をするそうだわ。」
しかし均平が窓から見たところでは、そんな様子もなく、館から帰って来ると、庭向きの部屋でビイルをぬき、子供をあやしたり、ダンス・レコオドをかけたりして、陽気なその日その日を暮らしていた。
五
均平は銀子の松次から言うと本家に当たる松の家で、風呂《ふろ》を入れてもらったり、電話を取り次いでもらったりしていたので、たまには二階へ上がってお茶を呑《の》み、金ぴかの仏壇の新仏《あらぼとけ》にお線香をあげることもあった。二階は八畳と六畳で、総桐《そうぎり》の箪笥《たんす》が三|棹《さお》も箝《は》め込みになっており、押入の鴨居《かもい》の上にも余地のないまでに袋戸棚《ふくろとだな》が設《しつら》われ、階下《した》の抱えたちの寝起きする狭苦しさとは打って変わって住み心地《ごこち》よく工夫されてあった。
ここが松島と今の若い姐さんの品子と、朝夕に睦《むつ》み合った恋愛生活の巣で、銀子たちはうっかりそこへ上がってはならず、伝票を渡すにも段梯子《だんばしご》の三四段目から顔だけ出すというふうであった。お八ツ時分になると、甘党の松島は卓上電話で紅谷《べにや》から生菓子を取り寄せ、玉露を煎《い》れて呑んでいたが、晩餐《ばんめし》には姐さんのためにてんや[#「てんや」に傍点]ものの料理が決まって二三品食卓に並び、楽しい食事が始まるのだったが、彼自身は口がきわめて質素で、ひじきや煮豆で済ますのであった。
東京はまだ復興途上にあったので、下町はバラック建てで営業を始め、山の手へ押し寄せた客も幾分緩和された形だったが、この悲惨な出来事のあとには厳粛になるべきはずの人間の心理も、反対の方嚮《ほうこう》へと雪崩《なだ》れがちで、逆に歓楽を追求する傾向にあり、避難民で行っていた田舎《いなか》から足を洗って来たばかりの銀子たちも、出先で猛烈な掠奪戦《りゃくだつせん》が始まり、うっかり後口《あとくち》を廻ろうとして外へ出ると、待ち伏せしていた出先のお神に厭応《いやおう》なし持って行かれるというふうだったが、それでもたまには隙《ひま》を食う宵《よい》の口もあり、いやな座敷を二階へ秘密で断わることもあった。すると松島は近所で聞こえる燧火《きりび》の音に神経が苛立《いらだ》ち、とんとんと段梯子をおりて来て、
「おい、近所は忙しいぞ。お前たち用事でもつけたのなら、伝票切るんだ。」
と呶鳴《どな》る。
しかしその気分に憎むべきところがなく、またお株が始まったくらいで、お馴染《なじみ》が来たとき、出先でその分の伝票を切ってもらうことにしていた。抱えたちを競争させることにも妙を得ていたが、親たちの歓心を買うことにも抜目がなく、本人の借金が殖《ふ》えれば殖えるだけ、主人は儲《もう》かるので、親への仕送りを倍加するという一石二鳥の手も使うのであった。親もその手には乗りやすく、主人をひどく徳としていた。
「私のお母さんなんか、来るたびにちやほやされて、盆暮には家中めいめいにうんとお中元やお歳暮をもらうもんだから、あんな話のわかる御主人はないと言って、有難がっていたものよ。」
銀子は言っていた。
「けど一ついいことは、月末の勘定をきちんとしてくれるんで張合いがあるんです。勘定をきちんとする主人なんてめったにありませんからね。」
一週に一度松島は品子をつれて銀ぶらに出かけるのが恒例で、晩飯はあの辺で食うことにしていたが、彼は元来夜店のステッキと綽名《あだな》されたほどでつるりとした頭臚《あたま》に、薄い毛が少しばかり禿《は》げ残っており、それが朝の起きたてには、鼠《ねずみ》の巣のようにもじゃもじゃになっているのを、香油を振りかけ、一筋々々丁寧にそろえて、右へ左へ掻《か》き撫《な》でておくのだったが、この愛嬌《あいきょう》ある頭臚も若い女たちを使いまわすのに、かなりの役割を演じていた。しかし年が大分違うので、まだ二十《はたち》にもならないのに、品子には四十女のような小型の丸髷《まるまげ》を結わせ、手絡《てがら》もせいぜい藤色《ふじいろ》か緑で、着物も下駄《げた》の緒も、できるだけじみ[#「じみ」に傍点]なものを択《えら》んだ。彼女の指には大粒のダイヤが輝き、頭髪《あたま》にも古渡珊瑚《こわたりさんご》の赤い粒が覗《のぞ》いていた。
子供が初めて産まれた時も、奇蹟《きせき》が現われたか、または何様の御誕生かと思うほど、年取ってからの子供だけに、歓喜も大袈裟《おおげさ》なもので、毎日々々湯を沸かし、新しい盥《たらい》を部屋の真ン中へ持ち出して湯をつかわせるのだった。
品子は小さい時分から、松島の第二の妻の姉に愛され、踊りや長唄《ながうた》を、そのころ愛人の鹿島《かしま》と一緒に、本郷の講釈場の路次に逼塞《ひっそく》し、辛うじて芸で口を凌《しの》いでいた、かつての新橋の名妓《めいぎ》ぽん太についてみっちり仕込まれたものだったが、商売に出すつもりはなく、芸者屋の娘としては、おっとり育っていた。
銀子は噂《うわさ》にきいている、土地で評判の品子の姉の写真が見たく、ある時老母にきいてみた。
六
「私長いあいだお宅にいて、小菊姐さんの写真つい見たことないわ。」
銀子が老母のお篠《しの》お婆《ばあ》さんに言うと、彼女は子供のような笑顔《えがお》で、
「写真はお父さんが、束にして天井裏かどこかへ仕舞ったのさ。」
小菊は松島の死んだ妻で、品子姐さんの姉の芸名だが、お篠おばあさんは、そう言いながら、仏壇の納まっている戸棚の天井うらから、半紙に裹《くる》んだものを取り出して来た。
銀子があけてみると、出の着物で島田の半身像のほかに仮装が幾枚かあり、手甲《てっこう》甲掛けの花売娘であったり、どんどろ大師のお弓であったりしたが、お篠お婆さんに似て小股《こまた》のきりりとした優形《やさがた》であった。赤坂時代のだという、肉づきのややふっくりしたのなぞもあった。
均平もちょっと手に取ってみたが、どこか大正の初期らしい古風な感じであった。
この小菊と松島との情痴の物語は、単に情痴といって嗤《わら》ってしまえないような、人間愛慾の葛藤《かっとう》で、それが娼婦型《しょうふがた》でないにしても、とかく二つ三つの人情にほだされやすいこの稼業《かぎょう》の女と、それを愛人にもった男との陥りやすい悲劇でもあろう。
均平は芝居や小説にある花柳|情緒《じょうしょ》の感傷的な甘やかしさ美しさに触れるには、情感も疾《と》うの昔しに乾ききり、むしろ生まれつき醜悪な心情の持主でさえあったが、二人の愛慾の悩みは、あながちよそごとのようにも思えなかった。
小菊は親たちが微禄《びろく》して、本所のさる裏町の長屋に逼塞していた時分、ようよう十二か三で、安房《あわ》の那古《なこ》に売られ、そこで下地ッ児《こ》として踊りや三味線《しゃみせん》を仕込まれ、それが彼女の生涯の運命を決定してしまった。
彼女の本所の家の隣に、あの辺の工場で事務を扱い、小楽に暮らしている小父《おじ》さんがおったが、不断|可愛《かわい》がられていたので、暇乞《いとまご》いに行くと、何がしかの餞別《せんべつ》を紙にひねってくれ、お披露目《ひろめ》をしたら行ってやるから、葉書でもよこすようにとのことだったので、その通りすると、約束を反故《ほご》にせず観音|詣《まい》りかたがたやって来て、また何某《なにがし》かの小遣《こづかい》をくれて行った。彼女は東京でいっぱしの芸者になってからも、それを忘れることはなかった。
銀子は深川で世帯《しょたい》をもった時分、裁縫の稽古《けいこ》に通っている家《うち》で、一度この小父さんに逢《あ》い、銀子が同じ土地に棲《す》んでいたというので、小菊のことをきかれた。しかし銀子がこの土地の、しかも同じ家へ来た時分には、小菊の亡くなった直後であった。
那古は那古観音で名が高く、霊岸島から船で来る東京人も多かった。洋画家や文学青年も入り込んだ。芸者は大抵東京の海沿いから渡ったもので、下町らしい気分があり、波の音かと思われる鼓や太鼓が浜風に伝わった。小菊はそこに七年もいたが、次第に土地の狭苦しさに堪えられなくなり、客に智慧《ちえ》をかわれたりして、東京への憧《あこが》れと伸びあがりたい気持に駆られた。彼女は赤坂へと住みかえた。
松島を知ったのは、ちょうどそのころであった。
松島は儲《もう》けの荒いところから、とかく道楽ものの多いといわれる洋服屋で、本郷通りに店をもっていた。年上の女房に下職、小僧もいて、大学なぞへも出入りしていた。この店を出すについての資金も、女房の方から出ていた。松島はそうした世渡りに特別の才能をもっており、女の信用を得るのに生まれながら器用さもあった。
一夜遊び仲間と赤坂で、松島は三十人ばかり芸者をかけてみた。若い美妓《びぎ》もあり、座持ちのうまい年増《としま》もあった。その中に小菊もいて、初め座敷へ現われたところでは、ちょいとぱっとしないようで、大して美形というほどでもなく、芸も一流とは言いがたく、これといって目立つ特色はなかったが、附き合っているうちに、人柄のよさが出て来、素直な顔に細かい陰影があり、小作りの姿にも意気人柄なところがあった。
彼は何かぴったり来るものを感じ、かれこれと品定めは無用、今まで人の目につかなかったのが不思議と、思わず食指の動くのを感じた。
七
行きつけの家で松島はしばらく小菊を呼んでいた。電話でもかけておかないと、時には出ていることもあったが、耳へ入りさえすれば少し遅くなっても、彼女はきっと貰《もら》って来ることにしていた。
するとある日、約束の日に仕事が立て込んで行けず、翌日少し早目に出かけて行くと、彼女はいなかった。
「何ですかね、見番は用事になっているそうですけれど、そのうちには帰るでしょう。繋《つな》ぎに誰か呼びますから、どうぞごゆっくりなすって。」
女中は言うのであった。
しかし松島は呑《の》めそうにみえて、酒はせいぜい二三杯しか呑めず、唄《うた》も謳《うた》わず、女に凝る一方なので、小菊がいないとなると遊ぶ意味もなかった。芸者が二三人来て、お銚子《ちょうし》を取りあげ酌《しゃく》をするので、一口二口呑んでみても口に苦く、三味線《しゃみせん》を弾《ひ》かれても陽気にはなれないで、気を苛立《いらだ》つばかりであった。松島は待ちきれず、つかつか廊下へ出て女中を呼び、病気か遠出か小菊の家へ電話をかけさせてみた。そしてその返事で、小菊が客につれられて、三四人の芸者と熱海《あたみ》へ遠出に行っていて、昨日行ったのだから今夜は遅くも帰るのではないかというのであった。
松島が座敷へ還《かえ》って来ると、一人の妓《こ》が何の気もなしに、
「小菊さんですか。小菊さんなら昨日新橋で一人でぼんやりしていたと言うわ。」
「一人で……。」
「そうらしいのよ。」
いやなことが耳に入ったと、松島は思ったが、どうにもならず、約束の昨日というのと一人というのが面白くなく、その晩は家へ帰って寝た。
間一日おいて、松島は小菊に逢い、連れが多勢で、決してお楽しみなどの筋ではなく、客も突然の思いつきで、誰某《だれそれ》さんに強《し》いられて往《い》きは往ったが、日帰りのつもりがつい二タ晩になったりして、一人先へ帰るわけにいかず、何も商売だと思って附き合っていたと、小菊もお茶を濁そうとしたが、松島はそれでは納まらず、何かとこだわりをつけたがるのであった。
「じゃあ今度話してあげるわ。」
小菊はその場を逃げた。
間もなく松島は、房州時代からの馴染《なじみ》の客が一人あることを知った。それは
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