縮図
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)片隅《かたすみ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)草|蓬々《ぼうぼう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、323−上1]
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    日蔭《ひかげ》に居《お》りて

      一

 晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。
 銀子と均平とは、しばらく二階の片隅《かたすみ》の長椅子《ソファ》で席の空《あ》くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際《まどぎわ》のところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文《ちゅうもん》した。均平が大衆的な浅草あたりの食堂へ入ることを覚えたのは、銀子と附き合いたての、もう大分古いことであったが、それ以前にも彼がぐれ出した時分の、舞踏仲間につれられて、下町の盛り場にある横丁のおでん屋やとんかつ屋、小料理屋へ入って、夜更《よふ》けまで飲み食いをした時代もあり、映画の帰りに銀子に誘われて入口に見本の出ているような食堂へ入るのを、そう不愉快にも感じなくなっていた。かえって大衆の匂いをかぐことに興味をすら覚えるのであった。それは一つは養家へ対する反感から来ているのでもあり、自身の生活の破綻《はたん》を諦《あきら》め忘れようとする意気地《いくじ》なさの意地とでも言うべきものであった。
 しかし今は長いあいだ恵まれなかった銀子の生活にも少しは余裕が出来、いくらかほっとするような日々を送ることができるので、いつとはなし均平を誘っての映画館の帰りにも、いくらかの贅沢《ぜいたく》が許されるようになり、喰《く》いしん坊の彼の時々の食慾を充《み》たすことくらいはできるのであった。もちろん食通というほど料理の趣味に耽《ふけ》るような柄でもなかったが、均平自身は経済的にもなるべく合理的な選択はする方であった。戦争も足かけ五年つづき物資も無くなっているには違いないが、生活のどの部面でも公定価格にまですべての粗悪な品物が吊りあげられ、商品に信用のおけない時代であり、景気のいいに委《まか》せて、無責任をする店も少なくないように思われたが、一方購買力の旺盛《おうせい》なことは疑う余地もなかった。
 パンやスープが運ばれたところで、今まで煙草《たばこ》をふかしながら、外ばかり見ていた均平は、吸差しを灰皿の縁におき、バタを取り分けた。五月の末だったが、その日はひどく冷気で、空気がじとじとしており、鼻や気管の悪い彼はいつもの癖でつい嚔《くさめ》をしたり、ナプキンの紙で水洟《みずばな》をふいたりしながら、パンを※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、323−上1]《むし》っていた。
「ひょっとすると今年は凶作でなければいいがね。」
 素朴《そぼく》で単純な性格を、今もって失わない銀子は、取越し苦労などしたことは、かつてないように見えた。幼少の時分から、相当生活に虐《しいた》げられて来た不幸な女性の一人でありながら、どうかするとお天気がにわかにわるくなり気分がひどく険しくなることはあっても、陰気になったり鬱《ふさ》ぎ込んだりするようなことは、絶対になかった。苦労性の均平は、どんな気分のくさくさする時でも、そこに明るい気持の持ち方を発見するのであった。彼女にも暗い部分が全然ないとは言えなかったが、過去を後悔したり現在を嘆いたりはしなかった。毎日の新聞はよく読むが、均平が事件の成行きを案じ、一応現実を否定しないではいられないのに反し、ともすると統制で蒙《こうむ》りがちな商売のやりにくさを、こぼすようなこともなかった。
「幕末には二年も続いてひどい飢饉《ききん》があったんだぜ。六月に袷《あわせ》を着るという冷気でね。」
 返辞のしようもないので、銀子は黙ってパンを食べていた。
 次の皿の来る間、窓の下を眺めていた均平は、ふと三台の人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端《ではな》に立往生しているのが目についた。そしてそれが行きすぎる間もなく、また他の一台が威勢よくやって来て、大通りを突っ切って行った。

      二

 もちろん車は二台や三台に止《とど》まらなかった。レストウランの食事時間と同じに、ちょうど五時が商売の許された時間なので、六時に近い今があだかも潮時でもあるらしく、ちょっと間をおいては三台五台と駈《か》け出して来る車は、みるみる何十台とも知れぬ数に上り、ともすると先が閊《つか》えるほど後から後から押し寄せて来るのであった。それはことに今日初めて見る風景でもなかったが、食事前後にわたってかなり長い時間のことなので、ナイフを使いながら窓から見下ろしている均平の目に、時節柄異様の感じを与えたのも無理はなかった。
 ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦《れんが》の鋪装が出来ており、馬車がレールの上を走っていた。ほとんどすべての新聞社はこの界隈《かいわい》に陣取って自由民権の論陣を張り、洋品店洋服屋洋食屋洋菓子屋というようなものもここが先駆であったらしく、この食堂も化粧品が本業で、わずかに店の余地で縞《しま》の綿服に襷《たすき》がけのボオイが曹達水《ソーダすい》の給仕をしており、手狭な風月の二階では、同じ打※[#「※」は「にんべん+分」、第3水準1−14−9、323−下22]《いでたち》の男給仕が、フランス風の料理を食いに来る会社員たちにサアビスしていた。尾張町《おわりちょう》の角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女に傭《やと》って、慶応ボオイの金持の子息《むすこ》や華族の若様などを相手にしていたのもそう遠いことではなかった。そのころになると、電車も敷けて各区からの距離も短縮され、草|蓬々《ぼうぼう》たる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦《れんが》造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な資本主義の発展とともに、欧風文明もようやくこの都会の面貌《めんぼう》を一新しようとしていた。銀座にはうまい珈琲《コオヒー》や菓子を食べさす家《うち》が出来、勧工場《かんこうば》の階上に尖端的《せんたんてき》なキャヴァレイが出現したりした。やがてデパートメントストアが各区域の商店街を寂れさせ、享楽機関が次第に膨脹するこの大都会の大衆を吸引することになるであろう。
 この裏通りに巣喰《すく》っている花柳界も、時に時代の波を被《かぶ》って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢《おういつ》につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤《アナクロニズム》の可笑《おか》しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育《はぐく》まれて来たさすが時代の寵児《ちょうじ》であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎《かぶき》などとともに日本の矜《ほこ》りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興《ぼっこう》の蔭《かげ》、時局的な統制の下に、軍需景気の煽《あお》りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃《はや》され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。
「今夜はとんぼ[#「とんぼ」に傍点]あたりで、大宴会があるらしいね。」
 均平は珈琲を掻《か》きまわしながら私語《ささや》いた。
 生来ぶっ切ら棒の銀子は、別に返辞もしなかったが、彼女は彼女でそんなことよりも、もっと細かいところへ目を注いでいて、車のなかに反《そ》りかえっている女たちの服装について、その地や色彩や柄のことばかり気にしていた。それというのも彼女もまた場末とはいいながら、ひとかどの芸者の抱え主として、自身はお化粧|嫌《ぎら》いの、身装《みなり》などに一向|頓着《とんじゃく》しないながらに、抱えのお座敷着には、相当金をかける方だからであった。それも安くて割のいいものを捜すとか、古いものを押っくり返し染め返したり、仕立て直したり、手数をかけるだけの細かい頭脳《あたま》を働かすことはしないで、すべて大雑把《おおざっぱ》にてきぱき捌《さば》いて行く方で、大抵は呉服屋まかせであったが、商売人の服装には注意を怠らなかった。
「この花柳界は出先が遠くて、地理的に不利益だね。」
 均平は呟《つぶや》きながら、いつか黄昏《たそがれ》の色の迫って来る街《まち》をぼんやり見ていた。

      三

 均平は、こんな知明の華《はな》やかな食堂へなぞ入るたびに、今ではちょっと照れ気味であった。今から十年余も前の四十前後には、一時ぐれていた時代もあって、ネオンの光を求めて、そのころ全盛をきわめていたカフエへ入り浸ったこともあり、本来そう好きでもない酒を呷《あお》って、連中と一緒に京浜国道をドライブして本牧《ほんもく》あたりまで踊りに行ったこともあったが、そのころには船会社で資産を作った養家から貰《もら》った株券なども多少残っていて、かなり派手に札びらを切ることもできたのだが、今はすっかり境遇がかわっていた。今から回想してみるとそのころの世界はまるで夢のようであった。これという生産力もなくて、自暴《やけ》気味でぐれ出したのがだんだん嵩《こう》じて、本来の自己を見失ってしまい、一度軌道をはずれると、抑制機《ブレーキ》も利かなくなって、夢中で遊びに耽《ふけ》っていたので、酒の醒《さ》めぎわなどには、何か冷たいものがひやりと背筋を走り、昔しの同窓の噂《うわさ》などを耳にすると、体が疼《うず》くような感じで飲んで遊んだりすることが真実《ほんとう》は別に面白いわけではなかった。ことに雨のふる夜更《よふ》けなどに養家において来た二人の子供のことを憶《おも》い出すと、荊《いばら》で鞭打《むちう》たるるように心が痛み、気弱くも枕《まくら》に涙することもしばしばであった。しかしほとんど酷薄ともいえる養家の仕打ちに対する激情が彼の温和な性質を、そこへ駆り立てた。
 今はすでにその悪夢からもさめていたが、醒めたころには金も余すところ幾許《いくばく》もなかった。それでも気紛《きまぐ》れな株さえやらなかったら、新婚当時養家で建ててくれた邸宅まで人手に渡るようなことにもならなかったかも知れなかった。
 そのころには世の中もかわっていた。放漫な財政の破綻《はたん》もあって、財界に恐慌が襲い来たり、時の政治家によって財政緊縮が叫ばれ、国防費がひどく切り詰められた。均平も学校を卒業するとすぐ、地方庁に官職をもったこともあるので、政治には人並みに興味があり、議会や言論界の動静に、それとなく注意を払ったものだったが、彼自身の生活がそれどころではなかった。それに官界への振出しに、地方庁で政党色の濃厚な上官と、選挙取締りのことなどで衝突して、即日辞表を叩《たた》きつけてからは、官吏がふつふついやになり、一時新聞の政治部に入ってみたこともあったが、それも客気の多い彼には、人事の交渉が煩わしく、じきに罷《や》めてしまい、先輩の勧めと斡旋《あっせん》で、三村の妹の婿《むこ》が取締をしている紙の会社へ勤めた。そこがしっくり箝《は》まっているとも思えないのであったが、田舎《いなか》に残っている老母が、どこでも尻《しり》のおちつかない、物に飽きやすい彼の性質を苦にして漢学者の父の詩文のお弟子であったその先輩に頼んで、それとなし彼を戒めたので、均平も少し恥ずかしくなり、意地にもそこで辛抱しようと決心したのであった。そしてそれが三村家の三女と結婚する因縁ともなり、三村家の別家の養子となる機縁ともなったのであった。
 しかし均平にとって、三村家のそうした複
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