雑な環境に身をおくことは、決して心から楽しいことでも、ありがたいことでもなかった。祖父以来儒者の家であった彼の家庭には、何か時代とそぐわぬ因習に囚《とら》われがちな気分もあると同時に、儒教が孤独的な道徳教の多いところから、保身的な独善主義に陥りやすく、そういうところから醸《かも》された雰囲気《ふんいき》は、均平にはやりきれないものであった。それが少年期から壮年期へかけての、明治中葉期の進歩的な時代の風潮に目ざめた均平に、何かしら叛逆的《はんぎゃくてき》な傾向をその性格に植えつけ、育った環境と運命から脱《ぬ》け出ようとする反撥心《はんぱつしん》を唆《そそ》らずにはおかなかった。それゆえ学窓を出て官界に入り、身辺の世のなかの現実に触れた時、勝手がまるで違ったように、上官や同僚がすべて虚偽と諂諛《てんゆ》の便宜主義者のように見えて仕方がなかった。しかしそっちこっち転々してみて、前後左右を見廻した果てに、いくらか人生がわかって来たし、人間の社会的に生きて行くべき方法も頷《うなず》けるような気がして、持前の圭角《けいかく》が除《と》れ、にわかに足元に気を配るようになり、養子という条件で三村の令嬢と結婚もしたのであったが、内面的な悲劇もまたそこから発生しずにはいなかった。

      四

 ここでは酒が飲めないので、均平は何か間のぬけた感じだったが、近頃はそう物にこだわらず、すべてを貴方《あなた》まかせというふうにしていればいられないこともないので、酒の払底な今の時代でも、格別不自由も感じなかった。もちろん心臓も少し悪くしていた。こうした日蔭者《ひかげもの》の気楽さに馴《な》れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲《じちょう》するほどの感情の熾烈《しれつ》さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。時にははっとするほど自分を腑効《ふがい》なく感じ、いっそ満洲《まんしゅう》へでも飛び出してみようかと考えることもあったが、あの辺にも同窓の偉いのが重要ポストに納まっていたりして、何をするにも方嚮《ほうこう》が解《わか》らず、自信を持てず、いざとなると才能の乏しさに怯《おじ》けるのであった。四十過ぎての蹉跌《さてつ》を挽回《ばんかい》することは、事実そうたやすいことでもなかったし、双鬢《そうびん》に白いものがちかちかするこの年になっては、どこへ行っても使ってくれ手はなかった。
 二人が席を立つと、後連《あと》がもうやって来て、傍《そば》へ寄って来たが、それは中産階級らしい一組の母と娘で、健康そのもののような逞《たくま》しい肉体をもった十六七の娘は、無造作な洋装で、買物のボール箱をもっていた。均平は弾《はじ》けるような若さに目を見張り、笑顔《えがお》で椅子《いす》を譲ったが、今夜に限らず銀座辺を歩いている若い娘を見ると、加世子《かよこ》のことが思い出されて、暗い気持になるのだったが、同窓会の帰りらしい娘たちが、嬉《うれ》しそうに派手な着物を着て、横町のしる粉屋などへぞろぞろ入って行くのを見たりすると、その中に加世子がいるような気がして、わざと顔を背向《そむ》けたりするのだった。加世子が純白な乙女《おとめ》心に父を憎んでいるということも解っていた。そしてそれがまた一方銀子にとって、何となし好い気持がしないので、彼女の前では加世子の話はしないことにしていた。そのくせ銀子は内心加世子を見たがってはいた。
「いいじゃないの。加世子さん何不足なく暮らしているんだから。」
 加世子の話をすると、均平はいつも凹《へこ》まされるのだったが、それは均平の心を安めるためのようでもあり、恵まれない娘時代を過ごした彼女の当然の僻《ひが》みのようでもあった。
 階段をおりると、明るい広間の人たちの楽しそうな顔が見え、均平は無意識にその中から知った顔を物色するように、瞬間視線を配ったが、ここも客種がかわっていて、何かしら屈托《くったく》のなさそうな時代の溌剌《はつらつ》さがあった。
「いかがです、前線座見ませんか。」
 映画狂の銀子が追い縋《すが》るようにして言った。彼女は大抵朝の九時ごろから、夜の十一時まで下の玄関わきの三畳に頑張《がんば》っていて、時には「風と共に去りぬ」とか、「大地」、「キュリー夫人」といった小説に読み耽《ふけ》るのだったが、デパート歩きも好きではなかったし、芝居も高いばがりで、相もかわらぬ俳優の顔触れや出しもので、テンポの鈍いのに肩が凝るくらいが落ちであり、乗りものも不便になって帰りが億劫《おっくう》であった。下町にいた十五六時代から、映画だけが一つの道楽で、着物や持物にも大した趣味がなかった。均平も退屈|凌《しの》ぎに一緒に日比谷《ひびや》や邦楽座、また大勝館あたりで封切りを見るのが、月々の行事になってしまったが、見る後から後から筋や俳優を忘れてしまうのであった。物によると見ていて筋のてんで解らないものもあって、彼女の解説が必要であった。
「さあ、もう遅いだろ。」
「そうね、じゃ早く帰って風呂《ふろ》へ入りましょう。」
 銀子はでっくりした小躯《こがら》だが、この二三年めきめき肥《ふと》って、十五貫もあるので、ぶらぶら歩くのは好きでなかった。いつか奈良《なら》へ旅した時、歩きくたぶれて、道傍《みちばた》の青草原に、べったり坐ってしまったくらいだった。
 銀子は途々《みちみち》車を掛け合っていたが、やがて諦《あきら》めて電車に乗ることにした。この系統の電車は均平にもすでに久しくお馴染《なじみ》になっており、飽き飽きしていた。

      五

 銀子の家《うち》は電車通りから三四町も入った処《ところ》の片側町にあったが、今では二人でちょいちょい出歩く均平の顔は、この辺でも相当見知られ、狭いこの世界の女たちが、行きずりに挨拶《あいさつ》したりすることも珍しくなかったが、均平には大抵覚えがなく、当惑することもあったが、初めほどいやではなくなった。それでも何か居候《いそうろう》のような気がして、これが自分の家という感じがしなかった。銀子も商売を始めない以前の一年ばかり、ここからずっと奥の方にあった均平の家へ入りこんでいたこともあって、子供もいただけに、もっといやな思いをしたのであったが、均平も持ちきれない感じで、「私はどうすればいいかしら」と苦しんでいるのを見ながら、どうすることもできなかった。そういう時に、自力で起《た》ちあがる腹を決めるのが、夙《はや》くから世間へ放《ほう》り出されて、苦しんで来た彼女の強味で、諦めもよかったが、転身にも敏捷《びんしょう》であった。今まではこの世界から足を洗いたいのが念願で、ましてこの商売の裏表をよく知っているだけに、二度と後を振り返らないつもりであったが、一度この世界の雰囲気《ふんいき》に浸った以上、そこで這《は》いあがるよりほかなかった。
「そう気を腐らしてばかりいても仕方がないから、ここで一つ思い切って置き家を一軒出してみたらどうかね。」
 母が言うので銀子もその気になり、いくらかの手持と母の臍繰《へそく》りとを纏《まと》めて株を買い、思ってもみなかったこの商売に取りついたのだった。銀子の気象と働きぶりを知っているものは、少し頭を下げて行きさえすれば、金はいくらでも融通してくれる人もあり、その中には出先の女中で、小金を溜《た》めているものもあり、このなかで金を廻して、安くない利子で腹を肥やしているものもあったが、ともすると弱いものいじめもしかねないことも知っているので、たといどんな屋台骨でも、人に縋《すが》りたくはなかった。ともかく当分自前で稼《かせ》ぐことにして路次に一軒を借り、お袋や妹に手伝ってもらって、披露目《ひろめ》をした。案じるほどのこともなく、みんなが声援してくれた。
「ああ、その方がいいよ。」
 見番の役員もそう言って悦《よろこ》んでくれ、銀子も気乗りがした。
「大体あんたは安本《やすもと》を出て、家をもった時に始めるべきだった。多分始める下工作だろうと思っていたら、いつの間にかあすこを引き払ってアパートへ移ったというから、つまらないことをしたものだと思っていたよ。」
 その役員がいうと、また一人が、
「それもいいが、子供のある処へ入って行くなんて手はないよ。第一三村さんは屋敷まで担保に入っているていうじゃないか。」
 銀子は好い気持もしなかったが、息詰まるような一年を振りかえると、悪い夢に襲われていたとしか思えず、二三年前に崩壊した四年間の無駄な結婚生活の失敗にも懲りず、とかく結婚が常住不断の夢であったために、同じことを繰り返した自分が、よほど莫迦《ばか》なのかしら、と思った。
「子供さんならいいと思っていたんだけれど、やはりむずかしいものなのね。」
 別にそう商売人じみたところもないので、銀子は加世子には懐《なつ》かれもしたが、それがかえって傍《はた》の目に若い娘を冒涜《ぼうとく》するように見えるらしかった。均平の亡くなった妻の姉が、誰よりも銀子に苦手であり、それが様子見に来ると、女中の態度まてががらり変わるのもやりきれないことであった。
 しかし均平との関係はそれきりにはならず、商売を始めてから、その報告の気持もあって、ある日忘れて来た袱紗《ふくさ》だとか、晴雨兼用の傘《かさ》などを取りに行くと、均平はちょうど、風邪《かぜ》の気味で臥《ふ》せっていたが、身辺が何だか寂しそうで、顎髭《あごひげ》がのび目も落ち窪《くぼ》んで、哀れに見えた。均平から見ると、宿酔《ふつかよ》いでもあるか、銀子の顔色もよくなかった。
「それはよかった。何かいい相手が見つかるだろう。」
 厭味《いやみ》のつもりでもなく均平は言っていた。

      六

 この辺は厳《きび》しいこのごろの統制で、普通の商店街よりも暗く、箱下げの十時過ぎともなると、たまには聞こえる三味線《しゃみせん》や歌もばったりやんで、前に出ている薄暗い春日燈籠《かすがどうろう》や門燈もスウィッチを切られ、町は防空演習の晩さながらの暗さとなり、十一時になるとその間際《まぎわ》の一ト時のあわただしさに引き換え、アスファルトの上にぱったり人足も絶えて、たまに酔っぱらいの紳士があっちへよろよろこっちへよろよろ歩いて行くくらいのもので、艶《なまめ》かしい花柳|情緒《じょうしょ》などは薬にしたくもない。
 広い道路の前は、二千坪ばかりの空地《あきち》で、見番がそれを買い取るまでは、この花柳界が許可されるずっと前からの、かなり大規模の印刷工場があり、教科書が刷られていた。がったんがったんと単調で鈍重な機械の音が、朝から晩まで続き、夜の稼業《かぎょう》に疲れて少時間の眠りを取ろうとする女たちを困らせていたのはもちろん、起きているものの神経をも苛立《いらだ》たせ、頭脳《あたま》を痺《しび》らせてしまうのであった。しかし工場の在《あ》る処《ところ》へ、ほとんど埋立地に等しい少しばかりの土地を、数年かかってそこを地盤としている有名な代議士の尽力で許可してもらい、かさかさした間に合わせの普請《ふしん》で、とにかく三業地の草分が出来たのであった。まだ形態が整わず、組織も出来ずに、日露戦争で飛躍した経済界の発展や、都市の膨脹につれて、浮き揚がって来たものだが、自身で箱をもって出先をまわったような元老もまだ残存しているくらいで、下宿住いの均平がぶらぶら散歩の往《ゆ》き返りなどに、そこを通り抜けたこともあり、田舎《いなか》育ちの青年の心に、御待合というのが何のことか腑《ふ》におちないながらに、何か苦々しい感じであった。その以前はそこは馬場で、菖蒲《しょうぶ》など咲いていたほど水づいていた。この付近に銘酒屋や矢場のあったことは、均平もそのころ薄々思い出せたのだが、彼も読んだことのある一葉という小説家が晩年をそこに過ごし、銘酒屋を題材にして『濁り江』という抒情的《じょじょうてき》な傑作を書いたのも、それから十年も前の日清《にっしん》戦争の少し後のことであった。そんな銘酒屋のなかには、この創始時代の三業に加
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