入したものもあり、空地のほとりにあった荷馬車屋の娘が俄作《にわかづく》りの芸者になったりした。
 この空地にあった工場が、印刷術と機械の進歩につれて、新たに外国から買い入れた機械を据《す》えつけるのに、この町中では、すでに工場法が許さなくなったので、新たに新市街に模範的な設備を用意して移転を開始し、土地を開放したところで、永い間の悩みも解消され、半分は分譲し、半分は遊園地の設計をすることにして、あまり安くない値で買い取ったのであった。日々に地が均《なら》され、瓦礫《がれき》が掘り出され、隅《すみ》の方に国旗の棹《さお》が建てられ、樹木の蔭《かげ》も深くなって来た。ここで幾度か出征兵士の壮行会が催され、英魂が迎えられ、焼夷弾《しょういだん》の処置が練習され、防火の訓練が行なわれた。
 夜そこに入って、樹立《こだち》の間から前面の屋並みを見ると、電燈の明るい二階座敷や、障子の陰に見える客や芸者の影、箱をかついで通る箱丁《はこや》、小刻みに歩いて行く女たちの姿などが、芝居の舞台や書割のようでもあれば、花道のようでもあった。
 狭苦しい銀子の家《うち》も、二階の見晴らしがよくなり、雨のふる春の日などは緑の髪に似た柳が煙《けぶ》り、残りの浅黄桜が、行く春の哀愁を唆《そそ》るのであった。この家も土地建ち初まりからのもので、坪数にしたら十三四坪のもので、古くなるにつれていろいろの荷物が殖《ふ》え、押入れも天井の棚《たな》も、ぎっしり詰まっていた。均平の机も箪笥《たんす》とけんどん[#「けんどん」に傍点]の間へ押しこまれ、本箱も縁側で着物の入っている幾つかの茶箱や、行李《こうり》のなかに押しこまれ、鼓や太鼓がその上に置かれたりした。もちろん彼は大分前から机の必要がなくなっていた。古い友人に頼まれて、一ト夏漢文の校正をした時以来、ペンを手にすることもまれであった。
 銀子は家の前へ来ると、ちょっと立ち停《ど》まってしばらく内の様子を窺《うかが》っていた。留守に子供たちが騒ぎ、喧嘩《けんか》もするので、わざとそうしてみるのであった。

      七

 ちょうど最近|披露目《ひろめ》をした小躯《こがら》の子が一人、それよりも真実《ほんとう》の年は二つも上だが、戸籍がずっと後《おく》れているので、台所を働いている大躯《おおがら》の子に、お座敷の仕度《したく》をしてもらっているところだったが、それが切火に送られて出て行く段になって、子供たちはやっとお母さんが帰って来たことに気がついた。養女格の晴弥《はるや》と、出てからもう五年にもなる君丸というのが二人出ているだけで、後はみんな残っており、狭い六畳に白い首を揃《そろ》えていた。さっそく銀子たちの下駄《げた》を仕舞ったり、今送り出した子の不断着を畳んだりするのは、今年十三になった仕込みで、子柄が好い方なので銀子も末を楽しみにしていた。
 銀子はこの商売に取り着きたての四五年というもの、いつもけい[#「けい」に傍点]庵《あん》に箝《は》め玉《ぎょく》ばかりされていた。少し柄がいいので、手元の苦しいところを思い切って契約してみると、二月三月も稼《かせ》いでいるうちに、風邪《かぜ》が因《もと》で怪しい咳《せき》をするようになり、寝汗をかいたりした。逞《たくま》しい体格で、肉も豊かであり、皮層は白い乳色をしていた。髪の毛が赭《あか》く瞳《ひとみ》は白皙人《はくせきじん》のように鳶色《とびいろ》で、鼻も口元も彫刻のようにくっきりした深い線に刻まれていたが、大分浸潤があるので、医者の勧めで親元へ還《かえ》したこともあり、銀子自身があまり商売に馴《な》れてもいないので、子供の見張りや、芸事を仕込んでもらうつもりで、烏森《からすもり》を初め二三カ所渡りあるいたという、二つ年上の女を、田村町から出稽古《でげいこ》に来る、常磐津《ときわず》の師匠の口利きで抱えてみると、見てくれのよさとは反対に、頭がひどい左巻きであったりした。一年間も方々の病院をつれ歩いてみても、睫毛《まつげ》や眉毛《まゆげ》を蝕《むしば》んで行く皮膚病に悩まされたこともあり、子柄がわるい代りに病気がないのが取柄だと思うと、親がバタヤで質《たち》が悪く、絶えず金の無心で坐りこまれたりした。銀子もいろいろの世間を見て来て、時には暴力団や与太ものの座敷へも呼ばれ、娘や女を喰《く》いものにしている吸血児をも知っていたが、女ではやっぱり甘く見られがちで、つい二階にいる均平に降りてもらうことになるのだったが、均平も先の出方では、ややもするとしてやられがちであった。
「いやな商売だな。」
 均平がいうと銀子も、
「そうね、止《よ》しましょうか。」
「いやいや、君はやっぱりこの商売に取りついて行くんだ。泥沼《どろぬま》のなかに育って来た人間は、泥沼のなかで生きて行くよりほかないんだ。現に商売が成り立ってる人もあるじゃないか。」
「それはそうなのよ。世話のやける抱えなんかおくより自分の体で働いた方がよほど気楽だというんで、いい姐《ねえ》さんが抱えをおかないでやってる人もあるし、桂庵《けいあん》に喰われて一二年で見切りをつけてしまう人もあるわ。かと思うと抱えに当たって、のっけ[#「のっけ」に傍点]からとんとん拍子で行く人もたまにはあるわ。」
 つまり好いパトロンがついていない限り、商売は小体《こてい》に基礎工事から始めるよりほかなかった。何の商売もそうであるように、金のあるものは金を摺《す》ってしまってからやっと商売が身につくのであった。
 とにかく銀子は、いろいろの人のやり口と、自身の苦い経験から割り出して抱えはすべて仕込みから仕上げることに方針を決めてしまい、それが一人二人順潮に行ったところから、親父《おやじ》の顔のひろい下町の場末へ手をまわして、見つかり次第、健康さえ取れれば、顔はそんなによくなくても取ることにした。
「あんなのどうするんだい。」
 粒をそろえたいと思っている均平が言うと、銀子は、
「あれでも結構物になりますよ。」
 と言って、こんな子がと思うようなのが、すばらしく当たった例を二つ三つ挙げてみせた。
「だからこれだけは水ものなのよ。一年も出してみて、よんど駄目なら台所働きにつかってもいいし、芸者がなくなれば、あんなのでも結構時間過ぎくらいには出るのよ。」
 もちろん見てくれがいいから出るとも限っていなかった。いくら色や愛嬌《あいきょう》を売る稼業《かぎょう》でも、頭脳《あたま》と意地のないのは、何年たっても浮かぶ瀬がなかった。

      八

 銀子は誰が何時に出て、誰がどこへ行っているかを、黒板を見たり子供に聞いたりしていたが、するうちお酌《しゃく》がまた一人かかって来て、ちょっと顔や頭髪《あたま》を直してから、支度《したく》に取りかかった。そしてそれが出て行くとそこらを片着け多勢の手で夕飯の餉台《ちゃぶだい》とともにお櫃《はち》や皿小鉢《さらこばち》がこてこて並べられ、ベちゃくちゃ囀《さえず》りながら食事が始まった。
 この食事も、彼女たちのある者にとっては贅沢《ぜいたく》な饗宴《きょうえん》であった。それというのも、銀子自身が人の家に奉公して、餒《ひも》じい思いをさせられたことが身にしみているので、たとい貧しいものでも、腹一杯食べさせることにしていたからで、出先の料亭《りょうてい》から上の抱えが、姐《ねえ》さんへといって届けさせてくれる料理まで子供たちの口には、少しどうかと思われるようなものでも、彼女は惜しげもなく「これみんなで頒《わ》けておあがり」と、真中へ押しやるくらいにしているので、来たての一ト月くらいは、顔が蒼《あお》くなるくらい、餓鬼のように貪《むさぼ》り食べる子も、そうがつがつしなくなるのであった。子供によっては親元にいた時は、欠食児童であり、それが小松川とか四ツ木、砂村あたりの場末だと、弁当のない子には、学校で麺麦《パン》にバタもつけて当てがってくれるのであったが、この界隈《かいわい》の町中の学校ではそういう配慮もなされていないとみえて、最近出たばかりのお酌の一人なぞは、お昼になると家へ食べに行くふりをして、空腹《すきばら》をかかえてその辺をぶらついていたこともたびたびであり、また一人は幾日目かに温かい飯に有りついて、その匂いをかいだ時、さながら天国へ昇ったような思いをするのであった。この子は二人の小さい仕込みと同じ市川に家があるので、大抵兵営の残飯で間に合わすことにしていたが、多勢の兄弟があり、お櫃の底を叩《たた》いて幼い妹に食べさせ、自身はほんの軽く一杯くらいで我慢しなければならないことも、いつもの例で、みんなで彼女たちは彼女たちなりの身のうえ話をしているとき、ふとそれを言い出して互いに共鳴し、目に涙をためながら、笑い崩れるのであった。もちろん銀子にだって、それに類した経験がないことはなかった。彼女は食いしん棒の均平と、大抵一つ食卓で、食事をするのだったが、時には子供たちと一緒に、塗りの剥《は》げた食卓の端に坐って、茄子《なす》の与市漬《よいちづけ》などで、軽くお茶漬ですますことも多かった。そしてその食べ方は、人の家の飯を食べていた時のように、黙祷《もくとう》や合掌こそしないが、どうみても抱えであった時分からの気習が失《う》せず、子供たちの騒々しさや晴れやかさの中で、どこかちんまりした物静かさで、おしゃべりをしたり傍見《わきみ》をしたりするようなこともなかった。
 非常時も、このごろのように諸般の社会相が、統制の厳《きび》しさ細かさを生活の末梢《まっしょう》にまで反映して、芸者屋も今までの暢気《のんき》さではいられなかった。人員の統制が、頭脳《あたま》のぼやけたものにはちょっと理解ができないくらいだが、簿記台のなかには帳面の数も殖《ふ》えていた。銀子の今までの、抱え一人々々の毎日々々の出先や玉数《ぎょくかず》を記した幾冊かの帳面のほかに、時々警察の調査があり、抱えの分をよくするような建前から、規定の稼《かせ》ぎ高の一割五分か二割を渡すほかは、あまり親の要求に応じて、子供の負担になるような借金をさせないことなどの配慮もあって、子供自身と抱え主とで、おのおのの欄に毎日の稼《かせ》ぎ高を記入するなどの、係官の前へ出して見せるための、めいめいの帳簿も幾冊かあって、銀子はそれを煩《うる》さがる均平に一々頼むわけにも行かず、抱え主の分を自身で明細に書き入れるのであった。勘定のだらしのないのは、大抵のこの稼業《かぎょう》の女の金銭問題にふれたり、手紙を書いたりするのを、ひどく億劫《おっくうう》がる習性から来ているのであったが、わざと恍《とぼ》けてずる[#「ずる」に傍点]をきめこんでいるのも多かった。
 食事中、子供は留守中に起こったことを、一つ一つ思い出しては銀子に告げていたが、
「それからお母さん、砂糖|壺《つぼ》を壊しました。すみません。」
 台所働きの子が好い機会《きっかけ》を見つけて言った。
「それから三村さんところへお手紙が……。」
 均平はここでの習慣になっている「お父さん」をいやがるので、皆は苗字《みょうじ》を呼ぶことにしていた。

    山 荘

      一

 簿記台のなかから、手紙を取り出してみると、それは加世子から均平に宛《あ》てたもので、富士見の青嵐荘《せいらんそう》にてとしてあった。涼しそうな文字で、しばらく山など見たことのない均平の頭脳《あたま》にすぐあの辺の山の姿が浮かんで来た。しかし開かない前にすぐ胸が重苦しくなって、いやな顔をしてちょっとそのまま茶盆の隅《すみ》においてみたりした。いつも加世子のことが気になっているだけに、どうしてあの高原地へなぞ行っているのかと、不安な衝動を感じた。
 しばらくすると彼は袂《たもと》から眼鏡を出して、披《ひら》いてみた。そして読んでみると、帰還以来陸軍病院にずっといた長男の均一が、大分落ち着いて来たところからついこのごろ家《うち》に還《かえ》され、最近さらにここの療養所に来ているということが解《わか》ったが、父親に逢《あ》いたがっているから、来ら
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