二

 均平はこの辺の新開地時代そっくりの、待合の建物があまり瀟洒《しょうしゃ》でもなく、雰囲気《ふんいき》も清潔でないので、最初石畳の鋪《し》き詰まった横町などへ入ってみた時には、どこも鼻のつかえるようなせせっこましさで少し小綺麗《こぎれい》な家《うち》はまた、前の植込みや鉢前燈籠《はちまえどうろう》のような附立《ついた》てが、どことなく厭味《いやみ》に出来ているのが鼻についたものだが、たびたび足を入れているうちに、それも目に馴《な》れてしまい、女に目当てがあるだけに、結局その方が気楽であった。しかしだんだん様子がわかってみると、ここは建て初まり当初には、モンブランと言えば大学生の遊び場所になっていただけに、相当名の聞こえた官僚人や政治家、法曹界《ほうそうかい》の名士に大学関係の学者たちの、宴会や隠れ遊びもあって、襖《ふすま》一重を隔てた隣座敷に、どんな偉方《えらがた》がとぐろ捲《ま》いているか知れないのであった。友達同士の遊びや宴会は下町でしても、こっそり遊びにはここもまた肩が凝らなくてよかった。もちろん座敷|摺《ず》れのしないお酌《しゃく》のうちから仕切って面倒を見たり、一本になりたてを、派手な落籍祝いをして落籍したり、見栄《みえ》ばった札びらの切り方をするのは、大抵近郊の地主とか、株屋であり、最近では鉄成金であり、重工業関係の人たちであったが、それも時局情勢の進展につれてようやく下火になって来た。
 均平はこの世界以外の少し晴々した場所で遊んだ習慣があり、待合の狭苦しい部屋に気詰りを感じ、持前の放浪癖も手伝って、時々場所をかえては気分を紛らせるのであった。それには彼女も体の自由な看板借りであり、何かというと用事をつけて、出歩くのであった。銀子が今度出たときからお馴染《なじみ》になった、赤羽辺の大地主や、王子辺のある婦人科の病院長の噂《うわさ》をして聞かせるのは、大抵話の種のない均平とそんな処《ところ》で寛《くつろ》ぎながら飯を食っている時のことで、下町にいたころのこと、震災後避難民として、田舎《いなか》へ行っていて、東京から追いかけて来た男に売られた話も、断片的に面白|可笑《おか》しく語られた。抱え主の親爺《おやじ》の話もちょいちょい均平の耳へ入った。ある点は誇張であり、ある点はナイブな彼女の頭脳《あたま》で仕組まれた虚構であった。無論それも彼女のお座敷の戦法であり、映画で見たり物の本で読んだりしたことが、種になっているものらしかった。
 ある時、それはちょうどお盆少し前のことで、置き家では出先へのお配り物などで、忙しい最中に銀子の主人は扁桃腺《へんとうせん》で倒れ、二階に寝ていたが、かつては十四五人の抱えをおき、全盛をきわめていた松の家というその家も、今度銀子が看板借りで来た時分には、あまり売れのよくない妓《こ》が二人いるきりで、銀子の月々入れる少しばかりの看板料すら当てにするようになっていた。しかし主人は人使いが巧いようにやり繰りも上手で、銀子や家人の前には少しも襤褸《ぼろ》を出さず、看板を落とすようなことはなかった。
「扁桃腺でそんなに酷《ひど》くなるなんて可笑しいね。腎臓《じんぞう》じゃないのか。」
 均平は銀子の松次から、その容体をきいた時、そんな直感が動いた。その主人は五十七で、今の女房が銀子より五つ六つ年若の二十四だということも思い合わされた。
「少し手おくれなの。お医者のいうには、松島さんどうも膿《うみ》を呑《の》んだらしいというの。もう顔に水腫《むくみ》が来てるようだわ。」
 そしてその次ぎに逢《あ》った時には、もう葬式のすんだ後であり、銀子も二度も使われた主人であるだけに、何か侘《わび》しげにしていた。
「あれからすぐ病院へ担《かつ》ぎこんだのよ。けどその時はもう駄目だったのね。お小水が詰まって、三日目にお陀仏《だぶつ》になってしまったの。入院する時私も送って行ったけれど、姐さんのことを、あれも年がいかないし、商売のことはわからないから、留守を何分頼むと言っていましたっけが、三人も子供があるし、お祖母《ばあ》さんもあるし、後がどうなりますか。でも姐さん年が若いし、泣いてもいなかったわ。」
「父さん父さんて、君の口癖にいうその親爺さんどんな人なんだい。」
「何でもお父さんが佐倉の御典医だったというから、家柄はいいらしいんだけれど、あの父さんは確かに才子ではあるけれど、ひどい放蕩者《ほうとうもの》らしいのよ。」

      三

 この松島の死んだ時、銀子は家にいなかった。
「父さん悪いのに、私出ていていいのかしら。」
 彼女は松島の姑《しゅうとめ》に当たるお婆《ばあ》さんにきいてみた。
 松島も父が佐倉藩の御典医であり、彼自身も抱えたちの前では帝大の医科の学生崩れのように言っていたので、銀子たちもそのつもりでいたが、ずっと後に彼の前身は洋服屋だということを言って聞かせるものもあった。しかし家柄はれっきとしたもので、この老母も桑名あたりの藩士の家に産まれただけに、手蹟《しゅせき》は見事で気性もしっかりしていた。
「松次さんには働いてもらわなくちゃ。病院の方はみんながついているから。」
 銀子はそのつもりで、自動車のブロカアの連中と、暑さしのぎに銀座会館の裏から築地河岸《つきじがし》へと舟遊びに出ており、帰りの土産《みやげ》に大黒屋で佃煮《つくだに》を買い、路傍の花売娘から、パラピンにつつんだ花を三束買って、客と別れて帰って来た。そして大通りのガレイジの処《ところ》で、車をおりて仲通りへ入って来ると、以前の朋輩《ほうばい》であり、今は松の家の分け看板として、めきめき売り出して来た松栄とひょっこり出喰《でく》わし、松島の死を知った。
「あら。」
「今病院からお棺で帰って来るところよ。貴女《あなた》を方々捜したんだけど、どこへ行ったんだか、お出先でも知らないというんでしょう。」
「あら、私金扇(鳥料理)からお客と涼みに行ってたのよ。」
 そのころ日比谷や池ノ畔《はた》、隅田川《すみだがわ》にも納涼大会があり、映画や演芸の屋台などで人を集め、大川の舟遊びも盛っていた。松次は看板借りであり、鳥屋で昼間からの玉数《ぎょくかず》も記入された伝票をもらうと、舟遊びはサアビスに附き合ったのだったが、さっそく分《わけ》松の家で衣裳《いしょう》を着かえ、松の家の前にならんで棺の来るのを待っていたのだった。すべての情景があまりにもあわただしく彼女もぼんやりしてしまった。
「この土地では、お弔いは千円とか千五百円とか、お金があって、少し派手好きだと、もっと盛大にやるけど、一切見番|委《まか》せで、役員たちで世話をやくんですのに、お父さんのはそんな表立ったこともしず、集まったのは懇意な人だけで、あの虚栄《みえ》っ張りに似合わない質素なものよ。」
 銀子は言っていたが、死後彼女も松島の懇意筋から、後に残った若い姐《ねえ》さんと年寄を助けて、この家《うち》でもう少し働くようにとも言われ、ちょっと立場に困っていたが、近所に別居している松島の第一夫人や、中野に邸宅を構えて裕福に暮らしている故人の異腹の妹などの集まった席上で、松次の身の振り方について評議が行なわれ、とにかく三村にも安心させるように、それでも万一の場合を慮《おもんぱ》かって廃業とまでは行かず、一時休業届を出して一軒もつことになった。均平も重荷は背負《しょ》いたくはなかったが、彼女を失いたくもなかった。
「それはね、私もああいう世界に知った人もあって、少しは事情も解《わか》っているが、よしんば踏台にされないまでも、金が続かなくなると女も考え出すし、こっちは今まで入れ揚げた金に未練も出て来て、なかなか面倒なもので、大抵の人が手を焼くんですよ。」
 均平が懇意なダンス友達の医者に、それとなく意見をきいた時、友達は言っていた。均平も自信はなく、先が案じられたが、今更逃げを張る気にもなれず、銀子の一本気な性格にも信頼していた。
 家は松の家と裏の路次づたいに往来のできる、今まで置き家であった小体《こてい》な二階屋であった。初め均平は出入りに近所の目が恥ずかしく、方々縁台など持ち出している、宵《よい》のうちはことにも肩身が狭く、できるだけ二階にじっとしていることにした。そのころになると、主人が生前|見栄《みえ》を張っていた松の家も、貸金があると思っていた方に逆に借金のあることが解ったり、電話も担保に入っていたりして、皆で勧めた入院の手おくれた謎《なぞ》も釈《と》けて来た。

      四

 均平は場所もあろうのに、こんな不潔な絃歌《げんか》の巷《ちまた》で、女に家をもたせたりして納まっている自分を擽《くすぐ》ったく思い、ひそかに反省することもあり、そんな時に限って、気紛《きまぐ》れ半分宗教書を繙《ひもと》いたり、少年時代に感奮させられた聖賢の書を引っ張り出したりするのだったが、本来|稟質《ひんしつ》が薄く、深く沈潜することができないせいもあって、それらの書物も言葉や文章は面白いが、それを飯の種子《たね》として取り扱うのならとにかく、宇宙観や人生観を導き出すにはあまりに非科学的で、身につきそうはなかった。中学時代に読んだダアウィンやヘッケルのような古い科学書の方がまだしも身についている感じだった。
「君だって何かなくては困るよ。いつも若ければいいが、年を取れば取るほど生活の伴侶《はんりょ》は必要だよ。」
 これも中年で妻を失った均平の友人の言葉で、均平は近頃この友人の刊行物を、少し手伝っていた。
 例のお医者も、この辺を往診のついでに、時々様子を見に来たりして、「あの人は金取りではないね」と、銀子を気に入っていた。
 均平は邸宅を取られてから、子供と一緒に小さい借家にいたので、自然双方を往来することになり、銀子の癖で何となし気分が険悪になったり、均平自身も理由もなしに神経が苛立《いらだ》たしくなったりすると、いきなりステッキを手にして、ふらりと子供の方へ帰って行くのだったが、それも二人の生活の前途に不安の影が差していたからであった。
 銀子は退屈しのぎというだけでなく、まさかの時にはいつ何時|撥《ばち》をもつことにならないとも限らないので、もとから清元が地だったので、六十に近い女の師匠に出稽古《でげいこ》をしてもらい、土橋を稽古していた。師匠は日の少しかげった時分に浴衣《ゆかた》がけで現われ、たっぷりした声で、江戸ものらしい調子で謳《うた》っていたが、銀子の謡《うた》いぶりはいつも素朴《そぼく》で、甘味たっぷりの豊かな声ながら、気取りや巧者なところはなかった。それがすむと小唄《こうた》を四ツ五ツつけてもらうことにしていた。均平もそれらの稽古本を開いて見ることもあり、古い江戸の匂いをかぐような気がして、民衆の間から産まれた芸術だというのと、声調が長唄ほどうわずった騒々しさがないのとで、時には聴《き》く気にもなるのであった。
「少し勉強して名取になったら、どうなのか。」
 均平が言っても、銀子にはそれほどの熱意もなく、商売道具だから仕方なしやっているものの、名取になれば附き合いが張り、金がかかるばかりだと言うのであった。
 前には大黒屋という大きな芸者屋があり、主人は砲兵|工廠《こうしょう》の職工あがりだったが、芸者に出してあった娘に好い運がおとずれ、親たちもこの商売に取りつき、好況時代にめきめき羽を伸ばしたのだったが、ある大衆ものの大作家が、方々荒らしまわった揚句、一時ここで豪遊をきわめたのも、売れっ子のその娘が目に留まったからであった。
 裏には狭い庭と路次を隔てて、活動館の弁士の家庭が見透かされ、弁士の妹夫婦もそこに同棲《どうせい》していた。そのころは弁士もまだ場末の小屋には、ちらほら残炎を保っていて、彼はこの附近の二つの館を掛持ちし、無声映画のちゃんばらものなどに出演していた。妹は芸者では芽が吹かず、カフエ全盛の時代だったので、廃業して女給に転身し、そこで医専出の若い男と出来あい、二階で同棲生活を始めたところであった。
「あれみんな権太さんの兄弟よ。あの
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