|挙《こぞ》って、蝙蝠傘《こうもりがさ》の袋や子供洋服や手袋などのミシンかけを内職にしていたが、手間賃が安いので口に追っつけず、大きい方の娘たちは空腹をかかえてしばしば夜明しで働かなければならなかった。
銀子が話すと、悲惨なことがそう悲惨にも聞こえず、それかと言って、均一たちの身分との対照のつもりでもなかったが、加世子が気をまわせば、自分のしていることが、少し大袈裟《おおげさ》だというふうに取れないこともなかった。
そのころ銀子は子柄が姉妹《きょうだい》たちよりよかったところから芸者屋の仕込みにやられ、野生的に育っただけに、その社会の空気に昵《なじ》まず、親元へ逃げて帰っていたり、内職の手伝いをしていたのだったが、抱え主も性急《せっかち》には催促もしず、気永に帰るのを待つことにしていた。ある夜銀子がふと目をさますと、父と母とが、ぼそぼそ話しているのが耳につき、聴《き》き耳を立てていると、世帯《しょたい》をたたんで父は大きい方を二人、母は小さい方を二人と、子供を二つに分けて、上州と越後《えちご》とめいめいの田舎《いなか》へ帰る相談をしていることがわかり、その心情が痛ましくなり、小僧を二人もつかっていた相当の靴屋を、競馬道楽や賭事《かけごと》で摺《す》った果てに、自転車を電車にぶっつけ、頭脳《あたま》に怪我《けが》をしたりして、当分仕事もできなくなってしまった、そうしたさんざんの失敗はとにかく、親子が散り散りになることは、子供心に堪えられない悲しみであった。彼女はもうのそのそしてはいられないと考え、またいくらかの前借で主人の処《ところ》へ帰ることに決心したのであった。
するうち話もつき、加世子も何か気づまりで、町へ買物に出ようと言い出した。
「おばさんもお出《い》でになりません。」
「そうね、行きましょうか。私も何かお土産《みやげ》を買いたいんですの。」
「罐詰《かんづめ》でしたらかりん[#「かりん」に傍点]に蜂《はち》の子、それに高野《こうや》豆腐だの氷餅《こおりもち》だの。」
「ああ、そうそう。何でもいいわ。小豆《あずき》なんかないかしら。」
「さあどうだか。」
見ると均平は、昨夜の寝不足で、風に吹かれながら気持よげに眠っていた。起こすのも悪いと思って、そっと部屋を出たが、均平もうつらうつらと夢心地《ゆめごこち》に女たちの声を耳にしていた。
二人はぶらぶら歩きながら、大通りへ出て行った。銀子は唐物屋《とうぶつや》や呉服屋、足袋屋《たびや》などが目につき、純綿物があるかと覗《のぞ》いてみたが、一昨年草津や熱海《あたみ》へ団体旅行をした時のようには、品が見つかりそうにもなかった。
「このごろはどこの有閑マダムでも、掘出しものをするのに夢中よ。有り余るほど買溜《かいだ》めしていてもそうなのよ。お父さんは買溜めするなと言うんですけれど、この稼業《かぎょう》をしていると、そうも行かないでしょう。足袋なんかもスフ入りは三日ともちませんもの。だから高くても何でもね。」
「そうよ。」
銀子は菓子屋や雑貨店なども、あちこち見て歩いた。そして氷豆腐や胡桃《くるみ》をうんと買いこんだ。加世子はキャンデイを見つけ、うんとあるパンやバタも買った。
十一
富士屋の前へ来た時、
「冷たいものでも飲みましょうか。」
と加世子が店先に立ち止まったので、「いいわ」と銀子も同意した。それから先へ行くと、宿屋の構えも広重《ひろしげ》の画《え》にでもありそうな、脚絆《きゃはん》甲掛けに両掛けの旅客でも草鞋《わらじ》をぬいでいそうな広い土間が上がり口に取ってあったりして、宿場の面影がいくらか残っており、近代式のこの喫茶店とは折り合わない感じであったが、チャチな新しい文化よりも、そうした黴《かび》くさいものの匂いを懐かしむ若い人たちもあるのであった。
銀子はそのどっちでもなかったが、どこがよくて若い娘たちが何かというと喫茶店へ入るのか、解《わか》りかねた。彼女もかつての結婚生活が巧く行かず、のらくらの良人《おっと》を励まし世帯を維持するために、銀座のカフエへ通ったこともあったが、女給たちの体が自由なだけに生活はびっくりするほど無軌道で、目を掩《おお》うようなことが多く、肌が合わなかった。喫茶店はそれとは違って、ずっと清潔であり、学生を相手にする営業だということは解っていても、喫茶ガアルもカフエの卵だくらいの観念しかもてず、隅《すみ》っこのボックスに納まって、ストロオを口にしている、乳くさい学生のアベックなどを見ると、歯の浮くような気がするのだったが、加世子にはそんな不良じみたところは少しもなかった。
二人は思い思いの飲みものを取って、少し汗ばんだ顔を直したりしてから、そこを出た。
駅前まで来た時、加世子はもう一度ホテルヘ帰り父に挨拶《あいさつ》したものか、それともこのまま富士見へ帰ったものかと、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。ホテルもよかったが、父子《おやこ》二人きりよりか寛《くつろ》ぎがつきそうで、やはり銀子がいたのでは物が歯に挾《はさ》まったようであり、銀子も父子|揃《そろ》っているのは、傍《はた》で見る目にも羨《うらや》ましそうであったが、何となし相手の気持をもって行かれそうな感じであった。嫉妬《しっと》を感ずる理由は少しもなかったが、たまに外出した均平の帰りが遅かったりすると、すぐ子供たちのことが頭脳《あたま》に浮かぶのであった。
銀子が初めて不断着のままで、均平の屋敷を訪れた時、彼女は看板をかりていた家《うち》の、若い女主《おんなあるじ》と一緒であった。女主は誕生を迎えて間もない乳呑《ちの》み児《ご》を抱いていた。
ちょうど郁子の姉が監視に来ていたところで、廻り縁を渡って行く二人の後ろ姿を見、てっきり均平の情人が、均平の子供を背負《しょ》いこんで来たものと推断し、わざとひそかに庭へおりて、植込みの隙間《すきま》から、二人の坐っている座敷の方を覗《のぞ》いて見たりした。
姉は均平に実否《じっぴ》を糾《ただ》そうともしず、その推定を良人《おっと》にも話せば、三村の老母にも宣伝し、後で大笑いになったこともあったが、その時銀子たちを送って出た女中の感じもよくなかったし、目にみえぬ家庭の雰囲気《ふんいき》も険悪であった。ちょうど帰りぎわに均平に送られて、玄関へ出て来た時、ちろちろと飛び出して来たのは、九つか十の加世子で、誰かが窘《たしな》めるように「加世子さんいけません」と緊張した小声で言っていたのが、銀子の耳に残った。
銀子はちらとそのことを思い出し、あながちにそのためとも言えなかったが、強《し》いて加世子を引き留める気にもなれなかった。
「風呂《ふろ》へでも入って、ゆっくりしていらしたらどう。」
「ええまた。黙って帰っても悪りんですけれど、あまり遅くなっても。」
「そうお。」
加世子は女中に切符を買わせ、もう一度銀子にお辞儀をして、改札口から入って行ったが、銀子はいつまでもそこに立っていた。還《かえ》して悪いような気もした。
やがて列車が入って来て、加世子たちの乗りこむのが見え、乗りこんでからも、窓から顔を出して軽く手を振った。思い做《な》しか、涙をふいたようにも見えた。銀子も手を振った。
ホテルへ帰ると、均平はちょうど一ト風呂《ふろ》浴びて来たところであった。
「どうした?」
「方々買いものして駅で別れてしまいましたわ。」
「そう。」
均平は椅子《いす》に腰かけ、煙草《たばこ》にマッチを擦《す》ったが、侘《わび》しい顔をしていた。
「帰るというものを、強いて引っ張って来ても悪いと思ったから。でも富士屋で曹達水《ソーダすい》呑《の》んだり何かして。」
「まあいいさ。一度|逢《あ》っておけば。」
そう言って均平も顔に絡《まつ》わる煙草の煙を払っていた。
時の流れ
一
均平がこの町中の一|区劃《くかく》にある遊び場所に足を踏み入れた時は、彼の会社における地位も危なくなり、懐《ふところ》も寂しくなっていた。銀子はちょっと逢ったところでは、ウェーブをかけた髪や顔の化粧が、芸者らしくなく、態度や言葉|遣《づか》いもお上品らしく、いくらか猫《ねこ》を被《かぶ》っていた。芸者がることは彼女も嫌《きら》いであり、ただ結婚の破綻《はたん》で、女にしては最も大切な時代の四年を棒に振ったことは、何と言っても心外であり、再び振り返ろうとも思わなかった。元の古巣へ逆戻りした以上、這《は》いあがるためには何か掴《つか》まなければならなかった。この世界では、二十二三ともなれば、それはもう年増《としま》の部類で、二十六七にもなれば、お婆《ばあ》さんの方で、若い妓《こ》の繋《つな》ぎに呼ばれるか、遊びに年期の入った年輩者の座持ちに呼ばれるくらいが落ちであり、男に苦い経験のある女が男を警戒するように女に失敗した男は用心して深入りしず、看板借りともなれば、どんな附き物があるか解《わか》らなかった。しかし銀子は世帯《しょたい》崩れのようには見えず、顔にもお酌《しゃく》時代の面影が残っており、健康な肉体の持主であった。
「君はこの土地の人のようには見えんね、それに芸者色にもなっていないじゃないか。」
「商売に出ていたのは、前後で六年くらいのものですから。それも半分は芳町《よしちょう》でしたの。」
その時分は銀子もまだ苦い汁《しる》の後味が舌に残りながら、四年間|同棲《どうせい》した、一つ年上の男のことが、綺麗《きれい》さっぱりとは清算しきれずにいた。均平の方が一時代も年が上なので、銀子は物解りのいい相手のように思われるせいか、ある時、
「二三日前に木元がふらりとやって来たのよ。」
と話した。
「私が風呂から帰って来ると、姐《ねえ》さんが木元さんが来たというのよ。ちょっと貴女《あなた》に話があるから、うき世で待っているとか言ってたわ、と言うのよ。私もどうしようかと思ったけれど、逃げを張るにも当たらないことだから、春芳《はるよし》さんを抱いて行ってみたの。ところがしばらくの間に汚い姿になっているのよ。ワイシャツも汚《よご》れているし、よく見ると靴足袋《くつたび》も踵《かかと》に穴があいてるの。」
彼は仲の町の引手茶屋の二男坊であり、ちょうど浅草に出ていた銀子と一緒になった時分には、東京はまだ震災後の復興時代で、彼も材木屋として木場に店をもち、小僧もつかい、友達付き合いも派手にやっていた。しかし遊びや花が好きで、金使いが荒く、初めての銀子の夫婦生活にすぐに幻滅が来た。
「それからどうした。」
均平はきいた。
「別にお金の無心でもないの。坊っちゃん育ちだから、金を貸してくれとも言えないのね。ただ今までは悪かったと言ってるの。」
「君は甘いから小遣《こづかい》でもやったんだろう。」
「まさか。さんざん無駄奉公させられたんですもの。その辺まで付き合ってくれないかと言うから、お金はいけないから、靴足袋の一足も買ってやりましょうと思って、上野の松坂屋まで行って、靴足袋とワイシャツを買って、坊やと三人で食堂で幕の内を食べて別れたけれど、男もああなると駄目ね。何だかいい儲《もう》け口があるから、北海道へ行くとか言ってたけれど、その旅費がほしかったのかも知れないわ。」
「未練もあるんだろう。」
「そんなこだわりはないの。それがあればいいけれど、ただ何となしふらふらしてんのね。」
それからまた大分月日がたってから、銀子はまた北海道から電報が来て、金の無心をして来たというのであった。
「北海道のどこさ。」
「どこだか忘れてしまったけれど、何でも、病気をして、お金もなくなるし、帰る旅費がないから、一時立てかえてくれというような文句だったわ。」
「いくらぐらい?」
「それがほんの零細金なの。よほど送ろうかと思ったけれど、癖になるから止した方がいいと父さん(抱えぬし)が言うから、仲の町のお母さんの処《ところ》へ電話で断わっておいたわ。」
その時分になると、銀子も座敷に馴《な》れ、心の痍《きず》もようやく癒《い》えていた。
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