床脇の壁に立てかけてあった。
女中が座布団《ざぶとん》を床の間の方におき、あらためて挨拶《あいさつ》してから部屋を出て行ったが、入れ替わりに加世子が入って来て、これもあらためて挨拶をした。
「大きくなったね、外であってもちょっと解《わか》らないくらいだ。」
均平は欅《けやき》の食卓の端の方に坐り、煙草《たばこ》をふかしていた。
「そうですか。」加世子はにやりとして、
「お父さまも頭髪《おつむ》が大分白くなりましたわ。」
「己《おれ》もめっきり年を取ったよ。皆さんお変りもないか。老人はどうだ。」
「お祖父《じい》さまですか。このごろ少し気が弱くなったようだけれど、でも大丈夫よ。」
「貴女《あなた》も丈夫らしいが、結婚前の体だ、用心した方がいいね。」
「ええ。私は大丈夫ですけれど、かかったっていいわ。」
「今どんなふうに暮らしているのかしら。」
「どんなふうって別に……北沢の叔母《おば》さまの近くに、小さい家《うち》を借りているんですわ。」
「借家に?」
「そうです。おばさまの監督の下に。なるべく均一お兄様の月給でやって行くようにというんでしょう。」
「均一の月給でね。それじゃ均一もなかなかだね。」
「ええ。今度の入院費なんかは別ですけど。」
「あんたはずっといるつもりか。」
「さあどうしようかと思ってますよ。看護婦もついていますし、療養所は若い人ばかりで賑《にぎ》やかだから、ちっとも寂しいと思わないと言うし、一週間もしたら帰ろうかと思っていますよ。だってこんなつまらない処ってありませんわ。」
久しぶりで親子水入らずで、お茶を呑《の》みバナナを食べながら、そんな話をしているうちに風呂《ふろ》の支度《したく》が出来、均平は裏梯子《うらばしご》をおりて風呂場へ行った。風呂に浸《つか》っていると、ちょうど窓から雨にぬれた山の翠《みどり》が眉《まゆ》に迫って来て、父子《おやこ》の人情でちょっと滅入《めい》り気味になっていた頭脳《あたま》が軽くなった。
北の国で育った均平は、自分の賦質に何か一脈の冷めたいものが流れているような気がしてならなかった。老年期の父の血を受けたせいか、とかく感激性に乏しく、情熱にも欠けており、骨肉の愛なぞにも疎《うと》いのだと思われてならなかった。加世子たちに対する気持も、ほんの凡夫の女々《めめ》しい愛情で、自分で考えているほど痛切な悩みがあるとも思えなかった。しかし加世子や均一の前途がやッぱり不安で、加世子のためには均一の生命が、均一のためには加世子の存在が必要であった。
「そう心配したものでもないのよ。結婚してしまえば、旦那《だんな》さまや奥さまに愛せられて、自分々々の生活に立て籠《こ》もるのよ。」
銀子に言われると、それもそうかと思うのであった。
玄関の喫煙場で、隆と友人とが山の話をしていたが、ここにも病人があるらしく、若い女が流しの方で、しきりに氷をかいていた。二人の青年をも加えて、ビールをぬき晩餐《ばんさん》の食卓についたのは、もう夜で、食事がすんでから間もなく隆たちは東京へ立っていった。
五
加世子が隆たちを駅へ送って帰って来ると、もう八時半で、階下《した》からラジオ・ドラマの放送があり、都会で型にはめて作った例の田舎《いなか》言葉でお喋《しゃべ》りをしているのが、こんな山の中で聞いていると、一層|故意《わざ》とらしく、いつも同じような型の会話だけの芝居が、かつての動作だけの無声映画と同じく、ひどく厭味《いやみ》なものに聞こえた。
加世子も毎晩このラジオには悩まされるらしく、
「今夜はまた声が高いわね。氷で冷やしている病人があるのに、もっと低くしないかな。」
均平は加世子と女中が寝床を延べている間、階下《した》へおりて、玄関の突当りにある電話室へ入って、上諏訪のホテルへ電話をかけ、銀子を呼び出した。
「何だか雨がふって退屈で仕様がないから、今下へおりてラジオを聞いているところなの。」
銀子の声が環境が環境だけに一層晴れやかに聞こえた。
「均一さんどんなでした。」
均平は今夜はここに一泊して、明日病院へ行くつもりだということだけ知らせ、受話機をおいた。そして廊下の壁に貼《は》り出してある、汽車の時間表など見てから、二階へあがった。まだ寝るには少し早く、読むものも持って来たけれど、読む気にもなれず、加世子と何か話そうとしても、久しぶりで逢《あ》っただけに話の種もなく、三村家一族のことに触れるのも何となしいやであった。三村は千万長者といわれ、三十七八年の戦争の時、ぼろ船を買い占めて儲《もう》けたのは異数で、大抵各方面への投資と土地で築きあげた身上《しんしょう》であり、自身に経営している産業会社というようなものはなく、起業家というより金貸しと言った方が適当であった。論語くらいは読み、お茶の道楽もあり、明治から大正へかけての成功者として、黄金万能の処世哲学には均平もしばしば中《あ》てられたものだが、それはそれとして俗物としては偉大な俗物だと感心しないわけにいかなかった。こんな時勢を彼はどんなふうに考えているであろうか。多分戦争でもすめば、日本の財界はすばらしい景気になり、自分のもっている不動産も桁《けた》はずれに値があがり、世界戦以上の黄金時代が来るものと楽観しているであろうか。
均平は加世子と枕《まくら》を並べて寝ながら、そんなことを考えていたが、加世子は少し離れて入口の方に寝ている女中と、お付きの女が氷をかいている患者のことや、療養所の看護婦や、均一と同室のいつもヴァイオリンをひいている患者の噂《うわさ》などで、しばらくぼそぼそと話をしていた。
均平はもしかしたら、銀子を一足先へ帰して、二三日この山荘に逗留《とうりゅう》し、山登りでもしてみたいような気もしたが、どうせ同棲《どうせい》というわけにもいかない運命だと思うと、愛着を深くしない方が、かえって双方の幸福だという気もして口へは出さなかった。
ラジオは戦争のニュースであった。
「まだやってるわ。寝られないわ。」
加世子が寝返りした。
「それに雨がふるんですもの。」
女中が答えた。
「明日晴れるかしら。ここはお天気のいい日はとてもいいんですわ。お父さんしばらくいらしてもいいんでしょう。」
「さあ、それでもいいんだが、誰か東京から来やしないか。それに己《おれ》もここは一日のつもりで来たんだから。」
加世子は黙って天井を見詰め、むっちりした白い手を出して、指先で頭をかいていたが、またごそごそ身動きをしたと思うと、今度は後ろ向きになって眠った。均平はふと妻の死の前後のことが憶《おも》い出され、小学校へ上がったばかりの加世子が、帰って来ると時々それとなし母を捜して歩き、来る女ごとに手を伸ばし、抱きつきたがる可憐《いじら》しい姿が浮かんで来て、思わず目が熱くなって来た。
六
翌朝は晴天であった。
均平はラジオ体操で目がさめ、階下《した》へおりて指先の凍るような井戸の水で顔を洗い、上半身をも拭《ふ》いて崖《がけ》はずれの処《ところ》に開けた畑の小逕《こみち》や建物のまわりを歩いていた。軽い朝風の膚《はだ》ざわりは爽快《そうかい》だったが、太陽の光熱は強く、高原の夏らしい感じだった。そうしているうちに加世子も女中と一緒に、タオルや石鹸《シャボン》をもって降りて来た。
二階へ上がると部屋もざっと掃除がすんでおり、均平は縁側のぼろ椅子《いす》に腰かけて、目睫《もくしょう》の間に迫る雨後の山の翠微《すいび》を眺めていた。寝しなに胸を圧していたあの感傷も迹《あと》なく消えた。
不思議なことに今朝《けさ》になってみると、田舎《いなか》の兄のやっている陶器会社が破産状態に陥った時、相談を持ちかけられ、郁子を説得したうえ、万に近い金をようやく融通して急場を救ったことがあり、後に紛紜《いざこざ》が起きて困ったことがあったが、結局解決がつかずじまいであったことが、今朝の清澄な心にふと思い出された。それで三村が均平を警戒しはじめ、郁子も間へ挾《はさ》まって困っていた事情や径路が、古い滓《おり》が水面へ浮かんで来たように思い出されて来た。しかし思い出してみても今更どうにもならないし、どうかする必要もなかった。
「俺《おれ》もよほど弱気になった。」
均平は嘆息した。ひところ金を浪費して、荒れまわった時のことを考えると、とにかく勇気があった。
内へ入って茶をいれているところへ、加世子が帰って来た。
「今この人と決めたんですけれど、今日は午前中病院へ行って、お昼から上諏訪へ遊びに行こうと思いますの。幾日もこんなところにいて鬱々《くさくさ》して来たから。それに少し買いたいものもありますの。」
加世子は鏡の前で顔にクリームを塗りながら、言っていた。
「上諏訪! ああそう。」
均平も頷《うなず》いた。
「お父さまもいらっしゃるでしょう。私たちお接待のつもりで……。」
加世子はふ、ふと笑っていた。
「それあありがとう。俺も光栄だよ。」
「光栄だなんて……。上諏訪へいらしたことがおありになって?」
「いや、こっち方面はどこも知らない。旅行はあまり好きじゃなかったし、隙《ひま》もなかった。しかし、上諏訪へ行くんだったら、ちょっと訪ねたい処《ところ》もある。」
均平は匂わした。
「どこですの。」
「ホテルだ。」
「ホテルに誰方《どなた》か……。」
加世子は小声で言ったが、気がついたらしく口をとじた。
「何なら紹介しよう。」
「ええ。」
食事がすんで療養所へ行ったのはもう九時であった。療養所はこの狭い高原地の、もっとも高燥な場所を占めていたが、考えていたよりも建築も儼《げん》としており、明るい環境も荒い感じのうちに、厳粛の気を湛《たた》えており、気分のよさに、均平もしばらく立ち止まって四辺《あたり》を見廻していた。
均一は鈴蘭病棟《すずらんびょうとう》の一室にいたが、熱も大して無いと見えて、仰臥《ぎょうが》したまま文庫本を見ていた。木造だけに部屋の感じもよく、今一人の同じ年頃の患者とベッドを並べているので、寂しそうにもなかった。
「お父さま来て下さったの。」
加世子が傍《そば》へ寄って胸を圧《お》されるように言うと、均一は少し狼狽《ろうばい》したように、本を枕頭《まくらもと》におき、入口にいる均平を見た。
「どうだね、こちらへ来て。」
均平は目を潤《うる》ませたが、均一も目に涙をためていた。
「今のところ別に……。」
七
「何しろこの病院は素晴らしいね。ここにいれば大抵の患者は健康になるに決まっているよ。」
「ここまで持って来れる患者でしたら、大抵|肥《ふと》って帰るそうです。」
「とにかくじっと辛抱していることです。一年と思ったら二年もいる気でね。……戦争はどうだった?」
「戦争ですか。何しろ行くと間もなく後送ですから、あまり口幅ったいことは言えませんが、何か気残りがしてなりません。病気でもかまわず戦線へ立つ勇気があるかといえば、それはできないけれど……。死の問題なぞ考えるようになったのは、かえってここへ来てからです。」
均平は今いる世界の周囲にも、事変当初から、あの空地《あきち》で歓送されて行った青年の幾人かを知っていた。役員や待合の若い子息《むすこ》に、耳鼻|咽喉《いんこう》の医師、煙草屋《たばこや》の二男に酒屋の主人など、予備の中年者も多かった。地廻りの不良も召集され、運転士も幾人か出て行った。その中で骨になったり、不具者になって帰って来たのはせいぜい一人か二人で、大抵は無事で帰って来た。ある待合の子息は、出征直前に愛人の芸者が関西へ住替えしたのを、飛行機で追いかけ、綺麗《きれい》に借金を払って足を洗わせておいてから、出征したものだったが、杭州湾《こうしゅうわん》の敵前上陸後、クリークのなかで待機しているうち、窮屈な地下生活に我慢ができず、いきなり飛び出した途端に砲丸にやられ、五体は粉微塵《こなみじん》に飛び、やっと軍帽だけが送り還《かえ》された。またこの町内のある地主の子息は
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