うともした。
 銀子も気が迷い、はっきり断わりもしなかったが、註文《ちゅうもん》を出したこともなかった。それというのも、わざと向島へつれて行ったりして、暗に幾人かの女を世話していることを衒《ひけら》かし、自身の金力と親切を誇示するかのような態度に、好い気持のするわけもなく、それに目を瞑《つぶ》るとしても、今まで世話になった若林を裏切るだけの価値があるかどうかの計算もなかなかつかないのであった。
「七人あるというから、私は八号目じゃないか。」
 銀子は思ったが、しかし五つか六つしか年の違わない若林の何かにつけて淡泊で頼りないのに比べると、女で苦労し、世間も広いだけに、愛着も思いやりも深く、話も永瀬の方が面白かった。いずれも結婚の相手でないとすれば、永瀬の世話になった方が、足を洗うのに都合が好いようであった。
「どう思う、姐《ねえ》さん。」
 あまり人に相談したことのない銀子もついに春次にきいてみるのだった。
「まあ当分双方うまく操《あやつ》っておくのよ。何もお嬢さんが結婚するんじゃありゃしまいし、はっきり決める手はないじゃないか。」
 春次は言うのだったが、銀子もそうかと思いながら、永瀬の熱があがり、座敷が頻繁《ひんぱん》になって来るにつれ、ぐっと引っ張って行かれそうな気がしてならなかった。

      八

 藤川の奥二階では、よく花の遊びが初まった。名古屋もののお神も、飯よりもそれが好きだったが、類をもって集まるものに、常磐津《ときわず》の師匠に、その女房の師匠より一つ年上の自前の年増、按摩《あんま》のお神などがあり、藤川のお神は、名古屋で子供まで出来た堅気の嫁入り先を失敗《しくじ》ったのも、多分その道楽が嵩《こう》じてのことかと思われるほどの耽《こ》り性《しょう》で、風邪《かぜ》の気味でふうふう言っている時でも、いざ開帳となると、熱のあるのも忘れて、起き出して来るのであった。
「私が死んだらな、お通夜《つや》にみんなで賭場《とば》を開帳してな、石塔は花札の模様入りにしてもらいまっさかい。」
 お神はそんなことを言っていたものだったが、若林も始終仲間に入れられ、好い鴨《かも》にされていた。銀子はというと、彼女は若林の財布を預かり、三十円五十円と金の出し入れを委《まか》せられ、天丼《てんどん》や鰻丼《うなどん》が来れば、お茶を入れるくらいで、じっと傍《そば》で見物しているのだったが、時には後口がかかって来たりした。
 銀子は今夜あたり製菓会社が来る時分だと思い、どうしたものかと思っていると、
「どうせここに用事はないんだから、せいぜい稼《かせ》いで来た方がいいよ。」
若林は言うのだが、お神はまた、
「そう商売気出さんかていいがな。」
 と言うので、銀子も去就に迷い、生咬《なまが》みの叭《あくび》を手で抑えるのだった。
 そうした近頃の銀子の素振りに気づいたのは、芸者の心理を読むのに敏感な髪結いのお梅さんであった。彼女は年も六十に近く、すでに四十年の余もこの社会の女の髪を手がけ、気質や性格まで呑《の》み込み、顔色で裡《うち》にあるものを嗅《か》ぎつけるのであった。年は取っても腕は狂わず、五人の梳手《すきて》を使って、立ち詰めに髷《まげ》の根締めに働いていた。客は遠くの花柳界からも来、歌舞伎《かぶき》役者や新派の女房などもここで顔が合い、堀留《ほりどめ》あたりの大問屋のお神などの常連もあるのだった。家は裕福な仕舞うた家のようで、意気な格子戸《こうしど》の門に黒板塀《くろいたべい》という構えであった。
「晴子さん、あんたこのごろ何考えてるんです?」
 彼女は鏡に映る銀子の顔をちらと覗《のぞ》きながら、そっと訊《き》くのだった。
「どうしてです。」
 銀子は反問した。
「何だか変ですよ。私この間から気になって、聞こう聞こうと思っていたんだけれど、貴女《あんた》の年頃にはとかく気が迷うもんですからね。ひょっとしたら、今の家《うち》に居辛《いづら》くて、住替えでもしたいんじゃないんですか。」
「別にそういうこともないんですけれど。」
「それなら結構ですがね。住替えもいいけれど、借金が殖《ふ》えるばかりだから、まあなるべくなら辛抱した方がよござんすよ。」
「そうだわね。」
「それとも何か岡惚《おかぼ》れでも出来たというわけですかね。」
「あらお師匠さん、飛んでもない。」
「それにしても何だか変ですよ、もしかして人にも言えない心配事でもあるんだったら、私いいこと教えてあげますよ。」
「どんなことですの。」
「日比谷《ひびや》に桜田|赤龍子《せきりゅうし》という、人相の名人があるんですがね、実によく中《あた》りますよ。何しろぴたりと前へ坐ったばかりで、その人の運勢がすっかりわかるんですからね。その代り見料は少し高《たこ》ござんすよ。」
「そう。」
「瞞《だま》されたと思って行ってごらんなさい。」
 お梅さんはそう言って、道順を丁寧に教えるのだった。
 銀子も心が動き、帰って春次に話してみた。
「人相なんて中るもの?」
「中るね。他のへっぽこ占ないは駄目よ。見てもらうのなら、桜田さんとこへ行ってごらんなさい。私が保証するから。」
 そういう春次も信者の一人であり、その人相見の予言のとおりに、過去はもちろん現在の彼女の運命が在《あ》るのであった。
 翌朝銀子は朝の十時ごろに家を出て、築地《つきじ》まわりの電車で行ってみた。ちょうど数寄屋橋《すきやばし》を渡って、最近出来たばかりの省線のガードの手前を左へ入った処《ところ》に、その骨相家の看板が出ていた。
「貴女は住替えした方がいいのう。」
 半白の顎鬚《あごひげ》を胸まで垂らした老骨相家は言うのだった。
「住替えは赤坂に限る。赤坂へ住み替えれば運は必ず嚮《む》いて来るのう。ほかはいかん。」
 まるで見当はずれなので、銀子は可笑《おか》しくもあり、赤坂の芸者屋と聯絡《れんらく》でも取っているのかとも思い、見料をおいて匆々《そうそう》にそこを出た。

      九

 永瀬はその後も三四度現われたが、銀子に若林のついていることが、薄々耳に入ったものらしく、次第に足が遠退《とおの》き、ふっつり音信が絶えてしまったが、藤川のお神が間に立って、月々の小遣《こづかい》や、移り替え時の面倒を見てくれている、ペトロンはペトロンとして、銀子も明ければもう二十歳で、花柳気分もようやく身に染《し》み、旦那《だんな》格の若林では何か充《み》たされないものを感じ、自由な遊び友達のほしい時もあった。そしてそういう相手が、ちょうど身近にあるのであった。
 時々帳場の調べに来てくれて、抱えたちを相手にトランプを遊んだり、芝居や芸道の話をしてくれたり、真面目《まじめ》な株式の事務員としてどこか頼もしそうな風格の伊沢がそれで、その兄は被服廠《ひふくしょう》に近いところに、貴金属品の店をもっており、三十に近い彼はその二階で、気楽な独身生活をつづけ、たまには株も買ったりして、懐《ふところ》の温かい時は、春よしの子供を呼んで、歌沢や常磐津《ときわず》の咽喉《のど》を聞かせたりもした。坊主の娘だという一番|年嵩《としかさ》の、顔は恐《こわ》いが新内は名取で、歌沢と常磐津も自慢の福太郎が、そういう時きっと呼ばれて、三味線《しゃみせん》を弾《ひ》くのだった。
 この男が来ていると、銀子は口がかかっても座敷へ行くのがひどく億劫《おっくう》であったり、座敷にいても今夜あたり来ていそうな気がして、落ち着かなかったりするのだったが、三四人輪を作ってトランプ遊びをしている時でも、伊沢と膝《ひざ》を並べて坐りでもすると、何となしぽっとした逆上気味《のぼせぎみ》になり、自分の気持を婉曲《えんきょく》に表現することもできず、品よく凭《もた》れかかる術《すべ》も知らないだけに、一層|牴牾《もどか》しさを感ずるのだった。
「晴《はア》さん、貴女《あんた》伊ーさんに岡惚《おかぼ》れしてるんだろう。」
 春次は銀子と風呂《ふろ》からの帰り路《みち》、蜜豆《みつまめ》をおごりながら言うのだった。
「あら姐《ねえ》さん……。」
 銀子は思わずぽっとなった。
「判ってますよ。――だっていいじゃないか。若《わ》ーさんはあんなお人よしで独りでよがっているんだし、たまに逢《あ》うくらい何でもありゃしない。」
 春次は唆《そそ》のかした。
「待っといで、私がそのうち巧く首尾してあげるから。傍《そば》で見ていても、じれったくって仕様がない。」
 春次は独りで呑《の》み込み、もう暮気分のある日の午後のことだったが、銀子は中洲《なかず》の待合から口がかかり、車で行ってみると、大川の見える二階座敷で、春次と伊沢がほんの摘《つま》み物くらいで呑んでいた。水のうえには荷物船やぽっぽ蒸汽が忙しそうに往来し、そこにも暮らしい感じがあった。伊井や河合《かわい》の根城だった真砂座《まさござ》は、もう無くなっていた。
 銀子は来たこともない家《うち》であり、こんな処《ところ》でも伊沢は隠れて遊ぶのかと思い、ちょっと妙な気もしたが、春次と二人きりでいるのも可笑《おか》しいと思い、この間の梅園での話が、そう急に実現するものとは想像もしていなかった。
「いらっしゃい。」
 伊沢はあらたまった口を利き、寒いから一つと言って猪口《ちょく》を差すので、銀子も素直に受け、一つ干して返した。
「今、何かあったかいものが来るから、晴さんゆっくりしていらっしゃいね。」
 春次は、わざわざ一つ二つ春よしの抱えの噂《うわさ》などをしてから、そんなことを言って、席をはずしたので、銀子は伊沢と二人きりになり、座敷にぎごちなさを感じたが、伊沢も同様であった。
「どうしたの一体。」
 銀子が銚子《ちょうし》をもつと、
「さあ、どうしたというんだか、己《おれ》の方からも訊きたいくらいだよ。」
 そう言って笑いながら注《つ》いで呑んだ。
「だけどね晴さん、率直に言っておくけれど、気を悪くしないでくれたまえ。」
 銀子は勝手がわからず、
「何さ。」
 と相手を見た。
「君も若ーさんという人があるんだろう。」
「そうよ。」
「だからせっかくだけれど、己はそういうことは大嫌《だいきら》いさ。ただ友達として清く附き合う分にはかまわないと思う。」
「どうでもいいのよ、私だって。」

      十

 春の七草に、若林は銀子のペトロンとして春よしの芸者全部に昼間の三時から約束をつけ、藤川へ呼んだ。年増《としま》の福太郎と春次は銀子と連れ立ち、出の着附けで相撲《すもう》の娘の小福を初め三人のお酌《しゃく》と、相前後して座敷に現われ、よそ座敷に約束のある芸者も、やがて屠蘇機嫌《とそきげん》で次ぎ次ぎに揃《そろ》い、揃ったかと思うと、屠蘇を祝い御祝儀《ごしゅうぎ》をもらって後口へ廻るものもあった。姐《ねえ》さん株の福太郎と春次が長唄《ながうた》の地方《じかた》でお酌が老松《おいまつ》を踊ると、今度は小稲が同じ地方で清元の春景色を踊るのだったが、酒がまわり席のやや紊《みだ》れた時分になって、自称女子大出の染福が、ヘベれけになって現われ、初めから計画的に酒を呷《あお》って来たものらしく、いきなり若林の傍に坐っている銀子の晴子に絡《から》んで来るのだった。
「やい晴子、お前このごろよほど生意気におなりだね。」
 銀子は訳がわからず、不断から仲のわるい染福のことなので、いい加減に遇《あしら》っていたが、高飛車に出られむっとした。
「何が生意気なのさ。」
「若ーさんの前ですがね、晴子という奴《やつ》はね、家のお帳場さんの伊ーさんに熱くなって、世間の噂《うわさ》ではちょいちょい、どこかで逢曳《あいびき》しているんだとさ。」
「何ですて? 私が伊ーさんと逢曳してるって? 春早々人聞きの悪いことを言うもんじゃないわよ。」
「大きにすまなかったね、みんなの前で素破《すっぱ》ぬいたり何かして。」
「貴女《あんた》は素破ぬいたつもりかも知らないけれど、私は平気だわ。貴女は一体ここを誰の座敷だと思っているの。仮にも人の座敷へ呼ばれて来て、気の利いたふうな真似
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