念はなかったが、主人にも算盤を弾くことをいやがるのがあり、春よしのお神の、勘定をきちきちしないのも、あながち狡猾《ずる》いとばかりも言えなかった。
 彼女は簿記台に坐って毎朝玉帳につけていても、芸者への勘定はついしたことがなく、計算の頭脳《あたま》をもたない一般の慾張りと同じく、取るものは取っても、払うものは払い汚くなりがちであった。彼女は帳面がこぐらがって来て、手におえなくなると、そのころ株式に勤めていた伊沢《いざわ》という男に来てもらい、会計検査をしてもらうことにしていたが、それも単に数字のうえのきまりだけで、実際生活上の経済はやっぱりこぐらがっているのだった。
 ひどく派手っ気な彼女は、どうかすると全く辻褄《つじつま》の合わないことをやり、女一人でいると、時には何か自分の閉じ籠《こ》もっている牢獄《ろうごく》の窓を蹴破《けやぶ》って飛び出し、思う存分手足を伸ばし胸を張り呼吸をしてみたくもなるものと見え、独りで盛装して出て行き、月に二三度くらいは行くことにしていた料亭《りょうてい》に上がり、家に居残っている抱え全部に、よその芸者も一流どころの年増《としま》連をずらりと並べ、看板の宣伝かたがた札びらを切って歓を交し、多勢の女中にも余分の祝儀《しゅうぎ》をばら撤《ま》き、お母さんお母さんと煽《あお》りたてられて、気をよくしているのであったが、一面ではまた月末の勘定をしてやらないので、それによって母と弟と二人が生計を立てている春次の母親が、せっせと足を運び、坐りこんで催促したりするのが煩《うるさ》く、用ありげにふいと席をはずすような、矛盾と気紛《きまぐ》れを多分に持っているのだった。
 お神は抱えの着物を作るたびに、自分のも作り、外出する時はお梅さんという玄冶店《げんやだな》の髪結いに番を入れさせ、水々した大丸髷《おおまるまげ》を結い、金具に真珠を鏤《ちりば》めた、ちょろけんの蟇口型《がまぐちがた》の丸いオペラバックを提《さ》げ、どこともいわず昼間出て行くのだったが、帰りは大抵夜の九時か十時で、時には十二時になっても帰らぬことがあり、外の行動は抱えには想像もつかなかったが、時には玉捜しの桂庵《けいあん》廻りであったり、時には富士見町に大きな邸宅を構えている、金主の大場への御機嫌《ごきげん》伺いかとも思われた。大場も株屋で、金融会社をも経営していたが、富士見町は本宅で、鉄の門扉《もんぴ》に鉄柵《てっさく》がめぐらしてあり、どんな身分かと思うような構えだったが、大場その人はでっぷり肥《ふと》った、切れの長めな目つきの感じの悪い、あまりお品のよくない五十年輩の男で、これも花村からの※[#「※」は「「夕」の下に「寅」」、第4水準2−5−29、437−下15]縁《いんねん》で、取引することになり、抱え妓《こ》の公正証書を担保に、金を融通するので、勘定日には欠かさず背広姿で、春よしの二階へ現われるのだった。
 帳場に坐るはずであった花村は、その時分には用がなくなり、開業当初の関係を断ち切るために、訪ねて来ても、気分が悪いといって、二階へ上げないこともあり、留守を使って逐《お》っ攘《ぱら》うこともあった。
「今日もお留守か。いや別に用事はないがね。どうしたかと思ってね。」
 花村はそう言って上へあがり、お婆《ばあ》さんや抱えを相手にお茶を呑《の》みながら世間話をして帰るのだったが、お八つをおごって行くこともあった。
「この節私もあまり景気はよくないがね、まだお神に小遣《こづかい》をせびるほど零落《おちぶ》れはしないよ。みんなに蜜豆《みつまめ》をおごるくらいの金はあるよ。」
 彼は笑いながら蟇口《がまぐち》をさぐり、一円二円と摘《つ》まみ出して子供を梅園へ走らせるのだったが、たまにお神と顔が合っても、彼女の方が強気であり、「何か用?」といわれると、同じようなことを繰りかえしていたが、後にお神が自身結婚媒介所で、いくらか金のある未亡人を一人捜し出し、後妻に迎えさせたので、いつも物欲しそうにしていた花村も、にわかに朗らかになった。

      六

 秋から冬にかけてのことだったが、銀子は女房持ちの若林に、何かしら飽き足りないものを感じ、折にふれてそれを言い出しでもすると、若林は一言のもとに排《しりぞ》け、金で面倒を見てやっていれば、それで文句はないはずだというふうだった。
「芸者は芸者でいるか、二号で気楽に暮らしている方が一番いいんだよ。女房で亭主《ていしゅ》に浮気をされることを考えてごらん、株屋のように体が閑《ひま》で金にもそう困らない割に絶えず頭脳《あたま》をつかっているものは、どうせ遊ぶに決まっているよ。そういう人間の本妻の立場になって考えてごらん。」
 若林は言うのであった。
「だから私たちは気晴らしの翫具《おもちゃ》だわ。」
「そう思うからいけないんだ。いつ僕がお前を翫具にしたと言うんだ。このくらい愛していれば沢山じゃないか。」
 そのころ銀子は、箱崎町《はこざきちょう》の本宅へ還《かえ》る若林を送って、土州橋の交番の辺《あたり》まで歩き、大抵そこで別れることにしていたが、交番の巡査も若林を見ると、お互いににっこりして挨拶《あいさつ》するくらい、それは頻繁《ひんぱん》であった。
「お前《ま》はんそれじゃ情が薄いというもんやないか。あすこから一停留所も行けば、そこがわーさんのお宅や。送りましょうか送られましょうか、せめて貴方《あなた》のお門《かど》までというどどいつ[#「どどいつ」に傍点]の文句を、お前はんしりへんのか。」
 とお神にいわれ、宅まで送ることにしたが、若林の女房が母の病気見舞でちょうど田舎《いなか》へ帰っていたので、誰もいないから、ちょっと寄ってみないかと、若林が言うので、銀子も彼の家庭生活の雰囲気《ふんいき》に触れたくはなかったが、ついて行ってみた。ここも通りに向いた方は、事務机や椅子《いす》がおいてあり、奥は六畳の茶の間と八畳の居間で、特に銀子の羨《うらや》ましく思えたのは、文化的に出来ている台所と浴室であったが、二階にも父母の肖像のかかっている八畳の客間に、箪笥《たんす》の並んでいる次ぎの間があり、物干もゆっくり取ってあった。あたかも銀子が不断|頭脳《あたま》に描いていたような家で、若林は客間の方で銀子に写真帖などを見せ、紅茶を御馳走《ごちそう》したが、自分の家《うち》でいながら、人の家へでも来たようなふうなので、銀子も戸惑いした猫《ねこ》のように、こそこそ帰ってしまった。それに湯殿の傍《そば》にある便所で用を足すと、手洗のところに自分の紋と芸名を染め出した手拭《てぬぐい》が、手拭掛けにかけてあり、いやな気持だった。
「いやね、私の手拭便所に使ったりして。」
 銀子が面白くなさそうに言うと、
「うむ、女房も薄々感づいているんだよ。」
 と若林も苦笑していた。
 夏のころも二人は国技館のお化け大会を見に行った帰りに、両国橋のうえをぶつぶつ喧嘩《けんか》をしながら、後になり先になりして渡って来たが、米沢町の処《ところ》に箪笥屋があり、鏡台も並んでいるので、銀子は千葉以来の箪笥が貧弱なので、一つほしいと思っていたところなので、
「私鏡台が一つ欲しいわ。」
 と言うと、若林も、
「どうぞお買いなさいまし。」
「入って見てもいい?」
「ああいいよ。どれでもいいのを。」
「わーさん見てよ。」
「君の好きなの買えばいいじゃないか。ただし買うならいいのにおし。」
 若林が金をくれるので、銀子は店に入り、あっちこっち見てあるき、
「ねえ――」と振りかえると、彼の姿は見えず、表へ出て見ても影も形も見えなかった。
 彼はそういうことには趣味をもたず、何を買うにも金を吝々《けちけち》しないで、米沢町のどこの店に欲しい小紋の羽織が出ているとか、誰某《たれそれ》のしていたような帯が買いたいとか、または半襟《はんえり》、帯留のような、買ってもらいたいものがあり、一緒に行って見てほしいと思っても、女の買物は面倒くさいから御免だとばかりで、店頭《みせさき》で余計なものを買わせられるよりもと思って、ほどよく金はくれはするが、一度も見立ててくれたことはなかった。
「それが上方気質《かみがたかたぎ》というものなのかしら。」
 銀子は思うのであったが、時に一緒に歩いている時、コンパクトとか下駄《げた》とか、珍しく見立てて買ってくれるかと思うと、決まってそれとほぼ同値の、またはそれより少し優《ま》しの類似の品を一緒に買うのであった。もちろんそれは妻への贈り物であり、彼自身の心の償いであったが、そのたびに銀子はげっそりした。
「何だこいつ。やっぱり私は附けたりなんだ。」
 彼女は寂しくなり、買ったものを地面に叩《たた》きつけたくも思うのだった。
 そのころに、銀子は製菓会社の社長|永瀬《ながせ》に、別の出先で時々呼ばれ、若林よりずっと年輩の紳士だったので、何かしっくりしないものを感じ、どうかと思いながら、疎《おろそ》かにもしなかった。

      七

 この製菓会社も、明治時代から京浜間の工場地帯に洋風製菓の工場をもち、大量製産と広範囲の販路を開拓し、製菓界に重きを成していたもので、社長の永瀬は五十に近い人柄の紳士だったが、悪辣《あくらつ》な株屋のE―某《なにがし》とか、関東牛肉屋のK―某ほどではなくても、到《いた》る処《ところ》のこの世界に顔が利き、夫人が永らく肺患で、茅ヶ崎《ちがさき》の別荘にぶらぶらしているせいもあろうが、文字通り八方に妾宅《しょうたく》をおき、商売をもたせて自活の道をあけてやっていた。それも彼の放蕩癖《ほうとうへき》や打算のためとばかりは言えず、枕籍《ちんせき》の度が重なるにつれて、つい絆《ほだ》されやすい人情も出て来て、いつか持株の数が殖《ふ》えて行くのであった。景気の好い時、株屋の某はそれからそれへと棄《す》てがたい女が出来、そっちこっちに家をもたせておいたが、転落して裏長屋に逼塞《ひっそく》する身になっても、思い切って清算することができず、身の皮を剥《は》ぎ酷工面《ひどくめん》しても、月々のものは自身で軒別配って歩き、人を嬉《うれ》しがらせていたという、芝居じみた人情も、そのころにはあり得たのであった。
 永瀬の場合は、そうばかりとも言えず、ずっと後に近代的な享楽の世界が関西の資本によって、大規模の展開を見せ、銀座がネオンとジャズで湧《わ》き返るような熱鬧《ねっとう》と躁狂《そうきょう》の巷《ちまた》と化した時分には、彼の手も次第にカフエにまで延び、目星《めぼ》しい女給で、その爪牙《そうが》にかかったものも少なくなかったが、学生時代には、彼も父をてこずらせた青年の一人で、パンや菓子の研究にアメリカヘやられ、青年期をそこに過ごしたので、道楽仕事にも興味があり、大正の末期には、多摩川に大規模の享楽機関を造り、一号格の向島の女にそれをやらせていた。
 銀子もためになるお客だから、せいぜいお勤めなさいなぞと、福井楼が出していたある出先の女将《おかみ》に言い含められ、春よしのお神から聞いて、若林のあることも薄々承知の上で出され、すでに三四回も座敷を勤めていたが、そのたびに多分の小遣《こづか》いも貰《もら》い、そうそうは若林に強請《ねだ》りにくい場合の埋合せにしていた。永瀬の今まで手がけたのは、大抵養女か、分けのれっきとした芸者で、丸同然の七三などは銀子が初めなので、格別の面白味もない代りに座敷ぶりも神妙で、外国の話をして聞かせても、一応通じるような感じがあり、何か心を惹《ひ》かれた。彼は手触りが柔らかく、
「晴子さんは一体いくら前借があるのかね。」
 とか、
「貴女《あんた》の希望は何だか言ってごらん。」
 とか、探りを入れてみるのであった。
 永瀬はこの土地で呼ぶばかりでなく、時には神楽坂《かぐらざか》へもつれて行き、毘沙門《びしゃもん》横丁の行きつけの家《うち》で、山手の異《かわ》った雰囲気《ふんいき》のなかに、彼女を置いてみたり、ある時は向島の一号である年増《としま》の家へも連れて行き、彼女を馴染《なじ》ませてみよ
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