われてようやく東京へ帰り、春よしの開業とともに、一人の母親と弟を見るために、そこから出ることになったものだったが、銀子はすでにI―町で顔が合っており、商売上のことについて、何かと言い聞かされもした。
 お神は披露目に出るに先だち、銀子に茄子《なす》を刻んだ翡翠《ひすい》の時計の下げ物を貸してくれたのだったが、銀子はそっちこっち車を降りたり乗ったりして、出先を廻っているうちに、どこで落としたか亡くしてしまい、多分それが相当高価の代物《しろもの》であったらしく、お神はいつもそれを言い出しては銀子の粗匆《そそう》を咎《とが》めるのだった。しかし春次に言わせると、お神の勘定高いにはほとほと呆《あき》れることばかりで、銀子を見に行った時も、春次はお神に誘われ、松島見物でもするつもりで出かけたのだったが、帰って来ると、往復の汽車賃や弁当代までを割勘にし、毛抜きで抜くように取り立てられたのであった。
「それもいいけれどさ、一人じゃ汽車の長旅は退屈だから、ぜひ一緒に行ってくれと言っておきながら、一日分の遠出の玉まで取ったのには、私もつくづく感心してしまったよ。」

      三

 しかしこの芸者屋の経済も、収入の面ばかり見ていると、芳村民子も、一代にして数十万の資産を作るはずだが、事実はそう簡単には行かず、金主に搾《しぼ》られる高い金利は、商売の常として仕方がなく、何かと理窟《りくつ》に合わぬ散り銭の嵩《かさ》むのも、こうした水商売に付きものの見栄《みえ》やお義理の代償として、それをあらかじめ勘定に入れるとしても、芸者に寝込まれたり、前借を踏み倒されたりすることは、何といっても大きな損害であり、頭脳《あたま》の利くある一人が率先して足をぬき、女給に転身してカフエに潜《もぐ》るか、サラリ―マン向きの二号でアパ―トに納まりでもすると、態形の一角はすでに崩れて全体が動揺し、資本の薄いものはたちどころに息づまってしまうのだった。
 春よしでは、神田《かんだ》で腕の好い左官屋の娘である春次より年嵩《としかさ》の、上野の坊さんの娘だという福太郎を頭として、十人余りの抱えがおり、房州|船形《ふなかた》の団扇《うちわ》製造元の娘だという、美形の小稲に、近頃|烏森《からすもり》から住み替えて来た、仇《あだ》っぽいところでよく売れる癲癇《てんかん》もちの稲次、お神が北海道時代に貰《もら》って芸者屋に預けておいた養女の梅福、相撲《すもう》の娘で小粒できりりとしたお酌《しゃく》の小福、中ごろ樺太から逃げだして来た、これもお神が豊原で貰って花屋に預けておいた養女の五十奴《いそやっこ》、新橋から移って来た、品が好いので座敷の光る梅千代など、お神が弁天さまの砂糖漬《さとうづけ》がお好きといわれるほどの面喰《めんく》いであったところから、金に糸目をつけず、綺麗首《きれいくび》を揃《そろ》えたのだったが、その中で契約の年期一杯に勤めたものといっては、売れ残りの年増ばかりで、少し目星《めぼ》しい妓《こ》は、あるいは引かされ、あるいは住替えはいいとして、癲癇もちはお神も後難を恐れて、うんと負けて信州へ住替えさせ、その代りに仕入れた樺太産まれの染福は、自称女子大出の、少し思想かぶれがしていたところから、ある夜|自暴酒《やけざけ》に酔って、銀子の晴子と客のことで大喧嘩《おおげんか》となり、浜町の出先の三階から落ちて打撲傷で気絶してしまい、病院へ担《かつ》ぎこまれて唸《うな》っていたと思うと、千七八百円の前借を踏み倒して、そこから姿を消してしまい、相撲の娘は売れないので居辛《いづら》くなり、いつとなし足をぬいて、前借は据置《すえおき》のままに大増《だいます》の女中に住みこむなど、激しい気象のお神にも、拒《ふせ》ぐに手のない破綻《はたん》は仕方がなかった。
 銀子に兜町《かぶとちょう》の若い旦那《だんな》の客がついたのは、土の見えないこの辺にも、咽喉《のど》自慢の苗売りの呼び声が聞こえる時分で、かねがねお神の民子から話があったと見え、贔屓《ひいき》に呼んでくれる藤川《ふじかわ》という出先のお神の見立てで、つけてくれたのであった。やっと二十五になったばかりの、桑名の出であるこの株屋が、亡くなった父の商売を受け継いでから、まだ間もないころで、銀子は三度ばかり呼ばれ、そのころの彼女の好みとしては、ちょぼ髯《ひげ》を生やして眼鏡をかけ、洋服姿のスマートな、あの栗栖の幻影が基本的なものだったので、歯切れのわるい上方弁の、色の生白い商人型のこの男は、どっちかというとしっくりしない感じであり、趣味に合ったとは言えないのだったが、ぽちゃりとした顔や躯《からだ》の皮膚も美しく、子供々々した目鼻立ちも感じが悪くなく、何か若草のような柔らかい心の持主で、いつ険しい顔をして怒るということもなかった。
 藤川の女将《おかみ》は、年のころ五十ばかりで、名古屋の料亭《りょうてい》の娘といわれ、お茶の嗜《たしな》みもあるだけに、挙動は嫻《しと》やかで、思いやりも深そうな人柄な女であった。彼女の指には大粒の黒ダイヤが凄《すご》く光っていて、若い妓《こ》が値段を聞きたがると、
「これかい。安いのさ。五千円で買ったんだよ。」
 と彼女は事もなげに言うのだった。
 この若い株屋を銀子につける時、
「お前《ま》はんも何かないと、お困りだろうからね、若《わー》さんなら、堅くてさっぱりしていて、世話の焼けない方だから、よかろうと思ってね。」
 とお神は言うのだったが、若造の若林もお前はんお前はんで子供扱いであり、いつもあまり興味のなさそうな顔で、酒も酔うほどに呑《の》まず、話がはずむということもなく、店を仕舞ったころに、ふらりとやって来たかと思うと、株の話などをして、お神に言われておひけになったかならぬに、もう風呂《ふろ》へ飛びこみ、部屋へ帰って出花でも呑むと、すぐ帰るのであった。もちろん家には最近迎えたばかりの新妻《にいづま》はあり、夫婦生活の味もまだ身に染《し》む間もないころのことだったが、銀子にも嫉妬《しっと》に似た感情の芽出しはありながら、それを引きとめる手もなく、双方物足りぬ感じで別れるのだった。
「お前はんもあまり情がなさすぎるやないか。それじゃこの子も愛情が出にくかろうから、少しゆっくりしていたらどうだろうね。」
 お神は気を揉《も》み、取持ち顔に言うのであった。

      四

 藤川の女将の斡旋《あっせん》で若林の話がきまった晩、彼は別れぎわに小遣を三十円ばかり銀子に渡し、あまり無駄使いしないようにと言って帰ったのだったが、その晩は銀子も家《うち》の侘《わび》しいお膳《ぜん》で、お茶漬《ちゃづけ》で夜食をすまし、翌朝割引電車で、錦糸堀《きんしぼり》の家へ帰ると、昨夜もらった手付かずの三十円をそっくり母親に渡した。
 父も母も宵寝《よいね》の早起きだったのて、台所ではもう焚《た》きたての飯の匂いがしており、七輪にかかった鍋《なべ》の蓋《ふた》の隙間《すきま》から、懐かしい味噌汁《みそしる》の甘い煙も噴《ふ》き出していた。
 どこでもそうだが、今の主人も、表の派手な人に引き換え、内に詰めるだけ詰める方で、夜座敷から帰って来ても、夜食に大抵|古沢庵《ふるたくあん》の二|片《きれ》か三片で、昼も、たまに小猫《こねこ》の食べるほどの鮭《さけ》の切身の半分もつけば奢《おご》った方で、朝の味噌汁の冷え残りか、生揚げの一ひらで済ますという切り詰め方であった。飯も赤ん坊の茶碗《ちゃわん》ほどなのに、手甲盛《てこも》りやおかわりの二杯以上は許されず、それから喰《は》み出せば、お神の横目が冷たく睨《にら》み、
「芸者は腹一杯食べるものじゃありませんよ。」
 と、それがこの道の行儀作法ででもあるように、戒めるのだった。貧しいながらに、田舎《いなか》育ちの父母によって、腹一杯食べるように慣らされて来た銀子にとって、三度の口を詰められるほど辛《つら》いことはなく、芸者も労働である以上、座敷では意地汚く食べ物に手を出すのが禁物である限り、餒《ひも》じいのが当然であり、彼女は日に二度も梅園の暖簾《のれん》をくぐり、蜜豆《みつまめ》やぜんざい、いそべ焼などをたらふく食べ、わずかに飢えを充《み》たすのであった。
 先輩芸者の春次を初め、少し蟇口《がまぐち》のふくれている芸者は、お膳のうえが寂しいと見ると、子供を近くの煮物屋へ走らせ、酒で爛《ただ》れた胃袋にふさわしい、塩昆布《しおこぶ》や赤生薑《あかしょうが》のようなものを買わせ、朋輩《ほうばい》芸者の前に出すのだが、きゃら蕗《ぶき》や葉蕃椒《はとんがらし》のようなものも、けんどん[#「けんどん」に傍点]の隅《すみ》に仕舞っておき、お茶漬のお菜《かず》にするのだった。
 昨夜お客がくれたからと、銀子は帯の間から出して金を火鉢《ひばち》の傍《そば》におくのだったが、起きそろった妹たちと一緒に、懐かしい家の飯を食べると、急いで芳町へ還《かえ》って来るのだったが、その時に限らず、彼女は朝座敷からの帰りがけに、着物を着替えているところから、その足で割引電車に乗り、温かい朝飯を食べに、わざわざ錦糸堀まで来ることも珍らしくなかった。
 金を家へおいて来てから二日ほどすると、藤川から電話がかかり、行ってみると、若林はお神や女中と、鴈治郎《がんじろう》一座の新富座《しんとみざ》の噂《うわさ》をしており、人気が立っているので、三人で観《み》に行くことになった。
「お前、明後日《あさって》の切符を三枚取っておいておくれ。」
 若林は銀子の晴子に命じたが、銀子にはその金がなかったので、引き受けることもできず、もじもじしていた。
「金あるだろう。」
 株屋とはいっても、彼はまだ年が若く、世間知らずであった。
「お金ないのよ。」
「この間やった金、もう無いのか。」
「買いものして、みんな使っちゃいましたわ。」
「何を買ったんだ。」
「……………。」
「お前は金使いが荒いね。」
 若林は不機嫌《ふきげん》そうに言ったが、お神はあの翌朝晴子が親の家《うち》へ行ったことを、春よしのお神から聞いていたので、じきに察しがつき、若林の顔に暗示的な目を注いだ。若林も晴子が孝行芸者だという触れ込みで、最初呼んでみる気になったので、お神の意味がわかり、なるほどそうかと言った顔で頷《うなず》いていた。
「だからね。やっぱりそうなんですよ。」
 若林も一般俗衆のように、親孝行には頭の上がらない好人物の一人で、世間の親というものについても皆目無知であり、善悪の観念もはっきりしなかった。それに比べると、銀子には親を見る目もようやく開けかけており、感傷のゆえに親に尽くすのとは違って、かかる醜悪な職業に従事する女の恥辱の、心のやり場をそこに求めているのであった。
「お前、毎月家へやるのかい。」
 若林が訊《き》くので銀子も、
「ううん、そうでもないの。このごろ妹が病気しているもんですから。」
 とお茶を濁した。

      五

 夏の移り替えになると、春よしのお神は、丸抱えの座敷着に帯、長襦袢《ながじゅばん》といった冬物を、篏《は》め込みになっている三|棹《さお》ばかりの箪笥《たんす》のけんどん[#「けんどん」に傍点]から取りだし、電話で質屋の番頭を呼び寄せ、「みんな下へおりておいで」といって子供たちを遠ざけ、番頭はぱちぱち算盤《そろばん》を弾《はじ》いて、何か取引を開始し、押問答の末、冬物全部が手押車に積まれ、二人の小僧によって搬《はこ》ばれ、夏物と入れ替わりになるのだった。お神は置き場がないので、倉敷料を払って質屋の倉へ預けるのだとか、番頭に頼んで手入れをしてもらうのだとか言っていたが、実は手元の苦しい時の融通であることもだんだん銀子に解《わか》って来た。その時代には、一般世間の経済観念もきわめてルーズであり、貧しいものには貧しいなりの生活の余裕と悦楽があり、行き詰まってもどこかに抜け道があって、宵越《よいご》しの金は腐ってでもいるように言われ、貧乏人の痩《や》せ我慢が市井の美徳としてまだ残っていた。使用人の芸者にも金の観
前へ 次へ
全31ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング