を受け取り、東京からもって来た鏡台や三つ抽斗《ひきだし》、下駄《げた》や傘《かさ》なども一つに纏《まと》めて、行李《こうり》と一緒に父がすばしこく荷造りをすますと、物の四十分もたたないうちに銀子たち三人は車で駅に駈《か》けつけ、送って来た本家と分寿々廼家のお神と愛子に名残《なごり》を惜しむ間もなく、汽車はI―町を離れ、銀子も何となし目が潤《うる》んで来た。
「今ここへ来ている。事情は新聞で知ったことと思う。時機を待つことにする。」
こご田近くへ来た時、例の森のなかの白壁が遙かに汽車の中から見え、銀子はふと二日ほど前に新婚旅行先の飯坂《いいざか》温泉から来た、倉持の絵葉書が想《おも》い出され、胸先の痛くなるのを感じたが、あの物哀《ものがな》しい狭い土地から足をぬいたことは、何といっても気持がよかった。
錦糸堀の家《うち》へついたのは、夜の十一時であったが、一年ぶりで帰って来る姉の着くのが待遠しく、妹たちは二階で寝てしまったのもあり、店先へ出て車がつくかと目を見張っているのもあり、銀子が父のあとから土間へ入って行くと、東京を立つ時にはまだ這《は》い出しもしなかった末の妹が、黒い顔に例のどんよりした目をして、飾り棚《だな》の後ろからよちよち歩き出し、不思議そうに銀子を眺めていた。
「お前何か急にあしこがいやになった訳でもあるのかい。」
お神が窓から投《ほう》りこんでくれたお菓子を妹たちに頒《わ》け、自分は卯《う》の花《はな》漬《づけ》の気仙沼の烏賊《いか》をさいて、父と茶漬を食ベている銀子に、母が訊くのであった。
「ううん、何ということなしいやになったの。」
「結婚してくれるという人はどうしたい。」
「あれはあれぎりさ。あの家の十倍もお金のある家から嫁さんが来たという話だけれど。」
「そうだろう。こちとらと身分が違うもの。本人が結婚しようと思っても、傍《はた》が煩《うるさ》かろうよ。それよりかあの温順《おとなし》やかな写真屋さんな――あの人も一度東京へ用があって来たとか言って、寄って行ったけれど、罐詰屋《かんづめや》さんと違って、なかなか人品もいいし、何かによく気もつくし、何だかお前をほしいような口吻《くちぶり》だったが、あの人はどうしたろう。」
そんなことは、銀子も当の写真屋から聞いたようでもあり、今が初耳のようでもあった。
「いるわよ。」
「あの人なら申し分なしだが、何か話があったろう。」
「何だかそんなこといっていたけれど、私《あたい》あんな男|大嫌《だいきら》いさ。」
「どうしてさ。ああいう大金持よりも、あんな人の方がよほどいいと思うがな。」
「お銀が嫌いなものを、お前《めえ》がいくら気に入ったって仕様があるもんか。」
父は煩《うる》さがり、言葉荒くやりこめた。
裏木戸
一
翌日の晩方、銀子は芳町《よしちょう》の春よしというその芸者屋へ行ってみた。
春よしは人形町通りを梅園《うめぞの》横丁へ入ったところで、ちょうど大門《おおもん》通りへぬける路地のなかにあった。幕府の末期までこの辺に伝馬町《てんまちょう》の大牢《おおろう》とともに芳原《よしわら》があったので、芳町といい大門通りというのも、それに因《ちな》んだものだと言われていたが、春芳は三百に近い土地の置家のなかでは微々たる存在であり、家も豚小屋のように手狭なものであった。下は大門通りに店をもっている母屋《おもや》の下駄屋《げたや》と共通の台所が、板壁一枚で仕切られ、四畳半の上がり口と台所の間にある廊下に狭い段梯子《だんばしご》がその四畳半のうしろで曲がっており、それを上がったところに、六畳と三畳があり、下は親子三人に小僧一人の下駄屋の住居《すまい》という、切り詰め方で、許可地以外に喰《は》み出ることを許されない盛り場としてはそこへ割り込むのも容易ではなかった。
春よしというこの小さい置家も、元は土地の顔役の経営に係るある大看板の分れで、最近まで分け看板の名で営業していたのだったが、方々|流浪《るろう》した果てに、やっとここに落ち着くことになったお神の芳村民子の山勘なやり口が、何か本家との間に事件を起こし、機嫌《きげん》を害《そこ》ねたところから、看板を取りあげられ、今の春よしを新規に名乗ることになったので、土地では新看板であり、お神専用の二階と下の廊下と別々に、二本の電話がひいてあり、家は小さくても、表を花やかに虚栄《みえ》を張っていた。
一軒の主《あるじ》となった今、銀子は時々このお神のことが想《おも》い出され、大阪へ落ちて行ったとばかりで、消息も知れない彼女のそのころの、放漫なやり口の機関《からくり》がやっと解《わか》るような気がするのだったが、分けや丸、半玉と十余人の抱えの稼《かせ》ぎからあがる一万もの月々の収入も身につかず、辣腕《らつわん》を揮《ふる》いつくした果てに、負債で首がまわらず、夜逃げ同様に土地を売ることになった彼女の生涯もひどく数寄なものだと思われるのだった。
民子は浦和の小地主の娘として生まれ、少女時代を東京で堅い屋敷奉公に過ごし、その屋敷が時代の英傑後藤新平の家であり、目端《めはし》の利くところから、主人に可愛《かわい》がられ、十八までそこの奥向きの小間使として働き、やがて馬喰町《ばくろちょう》のある仕舞《しも》うた家に片着いたのだった。馬喰町といっても彼女の片着いたのは士《さむらい》階級で、土地や家作で裕福に暮らしており、民子の良人《おっと》も学校出であったところから予備少尉として軍籍にあった。そこでは本妻に子がなく、その時分にはまだそんな習慣もあって、彼は子種を取るためのお腹様の腹から産まれたのであり、本妻の子として育てられたものだったが、結婚生活の二年目に日露の戦争が起こり、彼も出征して戦死してしまった。その時民子は妊娠九カ月であり、戦死と聞くと瞬間激しい衝動にうたれてにわかに逆上し、心神を喪失して脳病院に担《かつ》ぎこまれ、そこで流産したきり、三年たらずもの歳月を送り、やっと正常に還《かえ》った時には、内輪であった彼女の性格も一変していた。
彼女の矜《ほこ》りは後藤の屋敷に愛せられていたことであり、抱えたちにもよく主人の日常を語って聞かせるのだったが、無軌道な彼女の虚栄《みえ》の種子を植えつけたのもおそらく数年間の奉公に染《し》みこんだその家庭の雰囲気《ふんいき》であり、それが良人の戦歿後《せんぼつご》、しばらく中断状態にあった心神の恢復《かいふく》とともに芽出しはじめ、凄《すご》い相手をでも見つけるつもりで、彼女は新橋から芸者としての第一歩を踏み出したものであった。
政治によらず実業によらず、明治時代のいわゆる成功には新柳二橋の花柳界が必ず付き纏《まと》っており、政党花やかなりし過去はもちろん、今この時代になっても、上層の社交に欠くべからざるものは花柳界であり、新柳二橋の大宴会は絶えない現状であるが、下層階級の娘たちの虚栄《みえ》も、大抵あの辺を根拠として発展したものらしかった。上層階級の空気を吸って来た民子が、良人に死に訣《わか》れ、胎児をも流した果てに、死から蘇《よみがえ》って新橋へ身を投じたのも、あながち訳のわからぬ筋道でもないのであった。
しかし新橋や柳橋に左褄《ひだりづま》を取るものが、皆が皆まで玉の輿《こし》に乗るものとは限らず、今は世のなかの秩序も調《ととの》って来たので、二号として顕要の人に囲われるか、料亭《りょうてい》や待合の、主婦として、悪くすると逆様《さかさま》に金権者流から高利を搾《しぼ》られるくらいが落ちで、ずっと下積みになると、行き詰まれば借金の多いところから、保護法のない海外へ出るよりほかなく、肉を刻まれ骨を舐《しゃ》ぶられても訴えるところがなく、生きて還《かえ》るのは珍らしい方とされた。
今この民子も玉の輿に乗り損《そこ》ねた一人で、彼女の放浪生活もそれから始まったわけだった。
二
彼女は華車《きゃしゃ》づくりで上背《うわぜい》もあり、後ろ姿のすっきりした女だったが、目が細く鼻も小さい割に口の大きい、あまり均齊《きんせい》の取れない長面《ながおもて》で、感じの好い方ではなく、芸もいくらか下地はあったが、もちろん俄仕込《にわかじこ》みで、粒揃《つぶぞろ》いの新橋では座敷の栄《は》えるはずもなく、借金が殖《ふ》える一方なので、河岸《かし》をかえて北海道へと飛び、函館《はこだて》から小樽《おたる》、室蘭《むろらん》とせいぜい一年か二年かで御輿《みこし》をあげ、そちこち転々した果てに樺太《からふと》まで乗《の》し、大泊《おおどまり》から汽車で一二時間の豊原で、有名な花屋に落ち着いたのだったが、東京へ舞い戻って芳町へ現われた時分は、もう三十の大年増《おおどしま》であり、そこで稼いでいるうちに、米屋町《こめやまち》で少しは名前の通った花村という年輩の男を物にし、花村がちょうど妻と死に訣《わか》れて、孤独の寂しさを身にしみて感じていた折なので、家へ入れる約束で、金を引き出し、とにかく自前となって一軒もつことになったのだった。
I―町へ銀子を見に来た時、一緒に来たのは、彼女が自前の披露目《ひろめ》の前後に抱えた分けの芸者の春次で、春次の来たてには、やっと七輪とお鉢《はち》が台所にあるくらいの創始期であったが、三四年するうちに金主も花村の上手を越した、同じ米屋町の大物がつき、これは色気ぬきの高い利子で資本《もと》を卸し、抱えも殖《ふ》えれば、世帯《しょたい》道具も揃《そろ》い、屋台は小さくても、派手ッ気な彼女の外の受けは悪くなく、世界戦後の好況の潮に乗って、めきめき売り出したものだった。
初めて行った晩、銀子は二階へあげられ、二枚|襲《がさね》の友禅|縮緬《ちりめん》の座蒲団《ざぶとん》に坐っているお神の前で、土地の風習や披露目の手順など聞かされたものだが、夜になると、お神は六畳の奥の簿記台を枕《まくら》に、錦紗《きんしゃ》ずくめの厚衾《あつぶすま》に深々と痩《や》せた体を沈め、それに並んで寝床が二つ延べられ、四人の抱えが手足を縮めて寝《やす》むのだったが、次ぎの三畳にも六人分の三つの寝床が敷かれ、下の玄関わきの小間では、奈良《なら》産まれの眇目《めっかち》の婆《ばあ》やと、夏子という養女が背中合せに、一つ蒲団の中に寝るのだった。
ここは出先の区域も広く、披露目も福井楼|界隈《かいわい》の米沢町《よねざわちょう》から浜町、中洲《なかず》が七分で、残り三分が源冶店《げんやだな》界隈の浪花町《なにわちょう》、花屋敷に新屋敷などで、大観音《おおかんのん》の裏通りの元大阪町では、百尺《ひゃくせき》のほかにやっと二三軒あるくらいだった。銀子は晴子《はるこ》で披露目をしたのだったが、丸抱えと言っても七三の契約が多く、彼女もそれで証書が作成されたので、三味線《しゃみせん》と、座敷の労働服である長襦袢《ながじゅばん》、それに着替えと不断着は全部自分もちで、分《ぶ》は悪く、その三分の取り分も、大抵の主人が計算を曖昧《あいまい》に附しがちなので、結局取り分がないのと同じであり、手元が苦しいので、三円五円と時々の小遣《こづかい》を借りなければならず、それが積もって百円になると、三円ずつの利息づきで、あらためて借用証書に判をつかされたりするのであった。この土地では、影は最初は五十円から百円くらいまであり、それが主人の手へ全部入るのであり、十人の抱えがあるとすれば、通しは大抵その三分の一の割だが、影は通しの場合とのみは限らず、一人あて百座敷のうち三十の座敷が影だとすれば、一座敷五十円としても、一人あて千五百円の金が主人の懐《ふところ》に落ちるわけだった。玉《ぎょく》がそのほかであるのは言うまでもなかった。
披露目の時、銀子について歩いたのは古顔の春次で、この女もその時分はすでに二十六七の中年増《ちゅうどしま》であり、東京は到《いた》る処《ところ》の花柳界を渉《わた》りあるき、信州へまで行ってみて、この世界はどこも同じだと解《わか》り、ある特志な養蚕家に救
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