があり、文房具なども商うかたわら、見番の真似事《まねごと》のような事務を執っている老人夫婦があり、それが倉持家の乾分《こぶん》であったところから、母はその夫婦に就《つ》いて、子息《むすこ》の相手の芸者の名や人柄を調べ、行きつけの家も分かったのであったが、銀子はどんな話かと思って逢ってみると、生家も倉持とほぼ同格程度の門地で、仙台の女学校出だと聞いていた通り、ひどく人触りの柔らかな、思いやりのふかいうちに門閥とか家とかいう観念の強さが見え、芸者|風情《ふぜい》には歯も立たないのだった。
 彼女は持って来た袱紗包《ふくさづつみ》を釈《ほど》いて、桐《きり》の箱に入った、四五尺もあろうかと思う系譜の一巻を卓上に繰りひろげ、平家の残党として、数百年前にこの土地に居つき、爾来《じらい》宮城野《みやぎの》の豪族として、連綿数十代の血統の絶えなかったことから、夙《はや》く良人《おっと》に別れて、一粒種の幼児を守《も》り立て、門地を傷つけまいとして、内と外との軽侮や迫害と闘《たたか》って来た今日までの彼女自身の並々ならぬ苦労を、諄々《じゅんじゅん》と物語るのだった。
 銀子もこの老婦人が、初めから芸者風情と見くびっているようには見えず、わが子の愛人としての情愛も一応は受け取れるので、少し話の長いのに痺《しび》れを切らしながら、じっと聴いていた。
「それでは随分御苦労なさったのですね。」
「大変長話で貴女《あなた》も御迷惑でしょうけれど、そういう訳で、私もあの子には世間から後ろ指を差されるようなことはさせたくありません。女親は甘いからあんな子息《むすこ》が出来たといわれても、御先祖へ相済まんことです。決して真吾《しんご》と貴女のしていることが、悪いというのではありません。真吾もいろいろ家の都合で高等の教育を受けておりませんが、人間はあの通りまんざら馬鹿でもないようです。貴女もお逢いしてみると、あまり商売人らしくもないようにお見受けしますし、評判も悪くないようで、そこらの商売屋か何かでしたら、芸者を家へ入れるということも、無いことではありませんから、そうしてやりたいとは思いますけれど、そこが今お話しした門閥の辛《つら》さで、側《はた》の目が多いし、世間の口も煩《うるさ》いというわけで、入ってからがなかなか辛抱できるものじゃございません。私の経験から申しても、貴女の不幸になればとて、決して幸福になる気遣《きづか》いはありません、若い同志で好き合ったから、家へ入れよう入りましょうと、気軽に約束しても、結果は必ずまずいに決まっておりますから、家へ入ることだけは思い止まっていただきましょう。その代り、私も生木《なまき》を割《さ》くようなことはしません。貴女さえ承知なら、借金を払って、どこか一軒小さい家でも借りて、たんとのこともできませんが、月々の仕送りをしてあげましょう。」
 やっぱりそうだ! と銀子は思ったが、きっぱり断わるでもないと思って、黙って俛《うつむ》いていた。
「真吾も詳しいことは話しませんが、貴女も迹取《あとと》り娘のようなお話ですね。」
「そうですの。」
「それじゃなおさらのことです。どっちも相続人ということであれば、貴女が結婚しようと思っても、親御さんが不承知でしょう。」
 銀子もそこまで、はっきり考えていたわけではなかったが、千葉で栗栖との結婚|談《ばなし》のあった時、妹の一人に養子を取りさえすれば、自分の籍はぬけるように聞いており、相続者の責任は早く脱《の》がれたいとは考えていたのだったが、そんな世間的のことは、この際考えたくはなく、古い階級観念を超越して、あれほど約束した倉持の情熱が、どうやらぐらついて来たように思えそれが悲しかった。
「お母さんのおっしゃることは、よく解《わか》りました。お世話になるかならぬか、それはよく考えてみます。」
 銀子はきっぱり答えて、やっと母を送り出した。

      十三

 母を送り出し、銀子は帳場でちょっと挨拶《あいさつ》して帰ろうとすると、お神も女中も彼女の顔を見てへらへらと笑っているので、自分の莫迦《ばか》を笑っているのかしらと、思わず顔が赤くなった。
 ふと看《み》ると帳場つづきの薄暗いお神の居間に、今まで寝転《ねころ》んでいたらしい倉持が起きあがって咳《せき》をした。
「何だそこにいたの。いつ来たんです。」
 銀子はそう言って帳場へ坐ったが、さも退屈していたらしく、
「随分長たらしいお談義だったじゃないか。何を話してたんだい。」
「ううん別に……後で話すわ。」
 銀子は気軽に言ったが、母の柔らかい言葉のうちにひしひし胸に突き当たるものが感じられ、その場ではうかうか聴《き》き流していたが、正味をつまみあげてみると、子息《むすこ》とお前とは身分が違うとはっきり宣告されたも同様だと思われてならなかった。しかしまた籍のことなども言っていたし、初めて逢《あ》った自分に愛情を感じたように取れば取れないこともなく、悪く取るのは僻《ひが》みだとも思えるのであった。
 倉持は空腹を感じていたので、料理と酒を註文《ちゅうもん》し、今母のいた部屋で、気仙沼《けせんぬま》の烏賊《いか》の刺身で呑《の》みはじめ、銀子も怏々《くさくさ》するので呑んだ。倉持の話では、めったに町へ出たことのない母親が、倉持がちょっと役場へ行っている間に、出かけたというので、第六感が働き、来てみると果してそうであった。多分|煙草屋《たばこや》かどこかで聞いて来たものであろうことも、倉持は想像していた。
「何といっていた?」
「そうね。詰まるところ門閥も高いし、血統も正しいから、私たちのような身分のないものは、家へ入れられないというようなことじゃないの。」
「そうはっきり言ったかい。」
「家へ入るのは駄目だけれど、どこか一軒外に家をもつなら、そうしてあげてもいいといったような話もあったわ。」
「君は何と言ったの?」
「そう言われて、私もそれでもいいから、お願いしますとも言えないでしょう。だから考えさしていただきますと、返辞しておいたわ。」
「しかし大丈夫だと思うよ。母も株券持ち出し一件でほ、大分驚いたようだからね、今すぐ家へ入れるということはできなくとも、外において世話すると言うんだから結局僕がちょいちょい家をあけることになって、母も困るんだ。つまり時機の問題だよ。――君のことは何とか言わなかった。印象はどうだった。」
「そんなことわからないわ。」
「母の印象は?」
「そうね、一度ぐらいじゃ解らないけれど、何だか悪くなかったわ。入って来ても、周囲が煩いから、かえって不幸になるというようなことも言ったわ。そう言われると、何だかそんな気もするけれど、御大家というものは、一体そんなむずかしいものなの。」
「そんなこと気にすれば、どこの家だって同じだよ。僕の家なんか母と僕と二人きりで、小姑《こじゅうと》一人いるわけじゃないんだから、僕さえしっかりしていれば、誰も何とも言やしないよ。君は花でも作って、好きな本でも読んでいればいいさ。少しは母の機嫌《きげん》も取って、だんだん家事向きの勉強もしてもらわなきゃなるまいと思うがね。それに君は田舎《いなか》が好きだと言っていたね。」
「え、好きよ、お父さんもお母さんも、田舎でお百姓をしたり、養蚕したりしていたんですもの。」
「僕の家じゃ、畑仕事はしてもらう必要はないけれど、養蚕や機織《はた》くらいは覚えておいてもいいね。」
 飯を喰《た》べながら、そんな話をしているうちに、銀子は気分が釈《ほぐ》れ、それほど悲観したことでもないと、希望を取り返すのだった。
 夜になって、銀子は風呂《ふろ》に入り、土地の習慣なりに、家へ着替えに行くと、主人夫婦もちょうど奥で晩酌《ばんしゃく》を始めたところで、顔を直している銀子に声をかけた。
「寿々ちゃん、あんた今日倉持さんのお母《っか》さんに逢《あ》っただろう。」
「逢ったわ。」
「お母さん帰りに、見番へ寄って行ったそうだよ。」
「そう。」
「貴女《あなた》のことをね、顔にぺたぺた白粉《おしろい》も塗らず、身装《なり》も堅気のようで、あんな物堅い芸者もあるのかと、飛んだところで、お讃《ほ》めにあずかったそうよ。」
 冷やかし半分にお神は言うのだった。

      十四

 何かといっているうちに、その年も暮れてしまい、銀子は娘盛りの十九の春を迎えたわけだったが、一年の契約が切れただけでも、いくらか気が楽になり、二度目の冬だけに、陰鬱《いんうつ》な海や灰色の空にも駭《おどろ》かず、真気山《まきやま》のがんちょ参りにも多勢の人に交じって寒気の強い夜中の雪の山を転《ころ》がりながら攀《よ》じ登り、言葉もアクセント違いの土地の言葉をつかって、嗤《わら》われたりしたが、不断親しく往来をしている、看護婦の小谷さんとか、内箱の婆《ばあ》やなどの土地言葉には、日常的な細かい点ではどうしても意味の取れないところもありがちで、解《わか》ったふりで応答しているよりほかなかった。
 看護婦の恋愛には別に進展もなく、現実の生活に追われがちなその日その日を送り、学生が帰ってしまえばしまったで、いつとはなし音信も途絶えてしまった。彼女は俸給《ほうきゅう》のほとんど全部を親に取りあげられ、半衿《はんえり》一つ白粉《おしろい》一|壜《びん》買うにも並々ならぬ苦心があり、いつも身綺麗《みぎれい》にしている芸者の身の上が羨《うらや》ましくなり、縹緻《きりょう》もまんざらでないところから、時々そんな気持になることもあった。
「傍《はた》で見るほど私たちも楽じゃないのよ。私だって親や妹たちのために、こんな遠い処《ところ》まで来て、借金で体を縛られ、いやなお客の機嫌《きげん》も取って、月々家へ仕送りもしているのよ。」
 銀子は倉持に言われ、退院後のこの夏二月ばかり仕送りを滞らせたところ、父親がさっそくやって来て、結局旅費や土産《みやげ》なぞに余分な金を使ったのが落ちであった。父は大洋の新鮮な鰹《かつお》や気仙沼の餅々《もちもち》した烏賊《いか》に舌鼓をうち、たらふく御馳走《ごちそう》になって帰って行ったのだったが、ここで食べた鰹の味はいつまでも忘れることができないであろう。
 医院が院長の隠居仕事なので、看護婦の体も閑《ひま》で、彼女の部屋はだだっぴろい家族の住居《すまい》から離れたところにあり、銀子が買って往《ゆ》くケーキなどを摘《つ》まんで本の話や身のうえ話をするのだったが、銀子の汚《よご》れものなぞも洗ってくれた。大河《おおかわ》まで持ち出して行って[#底本では「行つて」と誤植、423−下6]、バケツで水を汲《く》みあげるのが面倒くさく、じかに流れで濯《すす》いだりして、襦袢《じゅばん》や浴衣《ゆかた》を流したりしていた銀子も、それを重宝がりお礼に金を余分に包んだり、半衿や袖口《そでぐち》などを買ってやったりしていた。吝々《けちけち》するのは芸者の禁物であり、辛気《しんき》くさい洗濯や針仕事は忙しい妓《こ》には無理でもあり、小さい時から家庭を離れている銀子は、見ず知らずのこの土地へ来てからは、一度汚したものは大抵古新聞に包んで河へ流すことにしているのだった。
 田舎《いなか》の芸者屋では、抱えの客筋であると否とにかかわらず、最寄りの若い男の出入りすることを、都会のようにはいやがりもしないので、分寿々廼家でも、写真屋や罐詰屋《かんづめや》、銀子たちが顔を剃《そ》りに行く床屋の若い衆や、小間物屋に三味線屋《しゃみせんや》がよく集まった。土地の人の気風は銀子にもよく判らなかったが、表面《うわべ》の愛らしい言葉つきの感じなどと違って、性質は鈍重であり、しんねりした押しの強さが、東京育ちの銀子にずうずうしくさえ思えるのだった。写真屋も銀子をわが物顔にふるまい、罐詰屋も懲りずにやって来た。
「あの青ん造は一体お前の何だい。」
 夏父親がやって来た時、彼は東京へ出るたびに、罐詰を土産《みやげ》に親類か何ぞのように錦糸堀の家《うち》へ上がりこみ、朝からお昼過ぎまで居座る罐詰屋のことを、そんなふうに怒っていた
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