れたこともあった。
「そのまたアイス・クリームのうまさと来たら、持って来れるものなら、ここへもって来て、貴女方に食べさせたいくらいだね。僕今度東京へも寄って来たけれど、あんなアイス・クリームはどこにもないね。」
「そんなおいしいの、食べたいわね。」
「どうです、今度パラオへ行ってみませんか。横浜から二週間で行けますよ。」
「行ってみたいわね。」
 滝川は愛子の養父であり、従って寿々廼家の旦那《だんな》である廻船問屋《かいせんどんや》の主人の甥《おい》であり、この町から出た多くの海員の一人で、中学を出たころすでに南洋に憧《あこ》がれを抱《いだ》き、海軍兵学校の入学試験をしくじってから、そんな船員団の仲間に加わったものだったが、長くこの冒険事業に従事するつもりはなく、二十六歳の現在から、十年余りも働いて、一財産造り、陸へ上がって生涯の方嚮《ほうこう》を決める肚《はら》であった。
 話がはずんているところヘ、今日も罐詰屋《かんづめや》の野良息子《のらむすこ》が顔を出し、ちょっとふてぶてしくも見える青年が、壁ぎわの畳敷きに胡座《あぐら》を組んで葉巻をふかしているのを見て、戸口に躊躇《ちゅうちょ》した。彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廼家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋《かまめしや》へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいであった。
 彼は日本橋の国府《こくぶ》へ納める荷物の中に、幾割かのロオズ物があり、それを回収して、場末の二流三流の商店へ卸すために、時々東京へ出るので、このころにもそのついでに、罐詰を土産《みやげ》に、錦糸堀の銀子の家を訪ね、荷はいくらでも送るから、罐詰の店を出してはどうかと、親父《おやじ》に勧めたりしたものだった。

      十

 二週間ほどして、ある朝銀子は病床のうえに起きあがり、タオルを肩にかけて、痒《かゆ》みの出て来た頭の髪をほどき、梳櫛《すきぐし》を入れて雲脂《ふけ》を取ってもらっているところヘ、写真師の浦上が入って来た。八月も終りに近く、驟雨《しゅうう》が時々襲って来て、朝晩はそよそよと、肌触りも冷やかに海風か吹き通り、銀子は何となし東京の空を思い出していた。
 浦上は手足ののんびりした、華車造《きゃしゃづく》りの青年であったが、口元に締りがなく、笑うと上の歯齦《はぐき》が剥《む》き出しになり、汚《きたな》らしい感じで、何となく虫が好かず、親切すぎるのも煩《うるさ》かった。銀子は入院当時、自尊心を傷つけるのがいやさに、わざと肋膜《ろくまく》だといって脅《おど》かし、家《うち》の都合でここで安静にしているのだと話したのだったが、しばらく姿を現わさないところを見ると、それを真に受け、怖《おそ》れて近づかないのかしらなぞと思っていた。それが今ごろどうして来たのか、珍らしい人が来たものだと、わざと恍《とぼ》けていた。
「もう起きていいのかね。」
 看《み》ると浦上は、左の頬《ほお》から頭へかけ、大袈裟《おおげさ》に繃帯《ほうたい》していたが、左の手首から甲へも同じく繃帯がしてあった。
「わんさんどうしたの?」
「酷《ひど》い目に逢《あ》いましたよ、高野山《こうやさん》で……。」
「高野山へ行ってたの。」
「そうですよ。高野山で崖《がけ》から落っこちて怪我《けが》したですよ。ほらね、足も膝皿《ひざさら》を挫《くじ》いて一週間も揉《も》んでもらって、やっと歩けるようになったですよ。」
「まあどうして……。」
「高野山に肺病なら必ず癒《なお》るという薬草があるのです。これは誰にも秘密だがね、僕の祖父時代までは家伝として製法して人に頒《わ》けてやっていたもんです。僕も十四五の時分に見たことがありますが、今は大概採りつくして、よほど奥の方へ行かないと見つからないということは聞いていたです。僕は寿々《すう》さんのためにそいつを捜しに出かけたんだがね、なるほど確かにそれに違いないと思う薬草はあるにはあるんだが、容易なことじゃ採れっこないですよ。何しろ深い谿間《たにあい》のじめじめした処《ところ》だから、ずるずる止め度もなく、辷《すべ》って、到頭深い洞穴《あな》のなかへ陥《お》ちてしまったもんですよ。」
「まあ。私また兄《わん》さんがしばらく見えないから、どうしたのかと思って……。」
「お山の坊さんに聞いてみたら、やはりそうだというから、二日がかりで採集したのはいいけれど、二日目に崖から足を踏みはずして、酷い目に逢ってしまいましたよ。しかし成功だったね。」
 浦上はそう言って、三共で製剤してもらったという小さい罐《かん》を二個、紙包みから取り出し、銀子の病床におき、その用法をも説明した。
「そんなにまでしていただかなくてもよかったのに。お気の毒したわ。」
「なに、僕も一度は捜しに行こうと思っていたからね。寿々《すう》さんがそれで癒ってくれれば、僕の思いが通るというもんです。」
 銀子は梳《す》いた髪をいぼじり捲《ま》きにしてもらい、少しはせいせいして、何か胸がむず痒《がゆ》いような感じで膝《ひざ》のうえで雑誌をめくったりしていたが、小谷さんは新聞にたまった雲脂《ふけ》と落ち毛を寄せて、外へ棄《す》てに行った。
「しかし僕が案じたより、何だか快《よ》さそうじゃないんだかね。」
「ええ、大分いいのよ。」
「そんならいいですが、これは僕を信じて、ぜひ呑《の》んでもらいますよ。わざわざ東京へ寄って、製剤して来たもんだからね。」
「あとで戴《いただ》くわ。それにそんな良い薬なら、東京の妹にも頒《わ》けてやりたいんです。このごろ何だかぶらぶらしているようだから。」
 浦上はそれには返辞もしず、部屋をあちこち動いていた。
「しかし貴女《あんた》も、この商売はいい加減に足を洗ったらどうです。商売している間は、夜更《よふ》かしはする、酒は呑む、体を壊す一方だからね。」
「…………。」
「僕も写真をやるくらいなら、いっそ東京へ出て、少し資本をかけて場所のいいところで開業してみたいと思っておるんだが、そうすれば親父《おやじ》に相談して、貴女の借金も払うから、ぜひ結婚してもらいたいもんだね。貴女はどう思うかね。」
「そうね。そんなこと考えたこともないけれど……。」
「やっぱり倉持がいるから駄目かね。」
 浦上は溜息《ためいき》を吐《つ》き、
「しかしあそこには渡さんという、喧《やかま》しい後見人がいるがね。」
 と呟《つぶや》き、首を傾《かし》げていた。
「いいわよ、そんなこと。」
 銀子は虫酸《むしず》が走るようで、そんな顔をしていた。

      十一

 十月の末、控訴院から大審院まで持って行った猪野の詐欺《さぎ》、横領に関する事件がいよいよ第二審通り決定した旨の電報が入り、渡弁護士の斡旋《あっせん》によって、弁護士の権威五人もの弁論を煩わしたこの係争も、猪野の犯した悪事の割には、事実刑も軽くて済むのにかかわらず、寿々廼家夫婦は今更のように力を落とした。猪野は今一年有余の体刑を被《き》ても、襤褸《ぼろ》を出さないだけの綿密な仕組の下に、生涯裕福に暮らせるだけの用意をしたのであり、体刑は覚悟の前であったはずだが、金を隠匿《いんとく》しない反証にもと、退《ひ》かして芸者屋を出させ、抱えも二人までおいてやった女を、たとい二年たらずの刑期の間でも、置いて行くのは心残りであった。
 猪野はこの町の閑静な住宅地に三年ほど前に新築した本宅があり、仙台の遊廓《ゆうかく》で内所の裕《ゆた》かなある妓楼《ぎろう》の娘と正式に結婚してから、すでに久しい年月を経ていたが、猪野が寿々廼家の分けの芸者であった竹寿々の面倒を見ることになり、ほどなく詐欺事件で未決へ入っている間に、妻は有り金を浚《さら》って猪野の下番頭であった情夫と家出してしまい、今は老母と傭人《やといにん》と二人で、寂しく暮らしていた。猪野はこの事件のあいだ弁護士と重要な協議でもする場合に、お竹をも呼び寄せ、本宅を使うだけで、不断は二人で松島とか、金華山とかへ遊びに出かけるか、土地の料亭《りょうてい》で呑《の》むか、家で呑むかして、苦悶《くもん》を酒に紛らせているのだったが、お竹の芸者時代の馴染客《なじみきゃく》のことでは、銀子たちも途方に暮れるほどの喧嘩《けんか》がはじまり、宥《なだ》め役にしばしば本家のお神が駈《か》けつけたのだった。
 不思議なことに、猪野が横領した二十万近くもの金を吐き出しもせず、体刑で済ましたやり方の巧妙さが、とにかく土地の人の賞讃を博し、鈴弁とは比較にならぬ智慧者《ちえしゃ》として、犯罪と差引き勘定をすることで、半面詐欺に罹《かか》ったものの迂濶《うかつ》さに対する皮肉の意味も含まれており、勝利者と敗北者への微妙な人間の心理作用でもあった。
 どっちにしても寒さに向かってのことであり、猪野も神経衰弱で不眠症に陥っていたので、金と弁護士の力で、入獄は春まで延期され、彼は当分家にじっとしていたが、時も時、土地の郵便局長の公金費消の裁判事件が、新聞の社会面を賑《にぎ》わし、町も多事であった。
 それらの事件をよそに、倉持はある時、どこか旅行でも思い立ったように、何かぎっちり詰まった鞄《かばん》を提《さ》げて、船で河《かわ》を下り、町に入って来た。
 いつもの出先から、女中が走って来て家を覗《のぞ》き、
「寿々龍さんいるけ。」
 鏡台の前で鬢《びん》をいじっていた彼女が、振り向くと、
「倉持さん来たから、早く来な。」
 銀子が顔を直し、仕度《したく》をして行ってみると、薄色の間《あい》の背広を着た倉持は、大振りな赭《あか》い一閑張《いっかんばり》の卓に倚《よ》って、緊張した顔をしていたが、看《み》ると鞄が一つ床の間においてあった。縁側から畳のうえに薄い秋の西日が差し、裏町に飴屋《あめや》の太鼓の音がしていた。
「どうしたの、旅行?」
 銀子がきくと、倉持はにっこりして、
「いや、そういうわけじゃないが、何だか家《うち》の形勢が変だから、僕の名義の株券を全部持ち出して来たんだ。」
「そう、どうして?」
「どうも母が感づいて、用心しだして来たらしいんだ。この間山を少しばかり売ろうと思ってちょっと分家に当たってみたところ、買わないというから、誰か買い手がないか聞いてみてくれないかと頼んでみたけれど、おいそれとすぐ買手がつくものでないから、止した方がいいだろうと言うんだ。分家の口吻《くちぶり》じゃ、渡の叔父《おじ》が先手をうって警戒網を張っているものらしいんだ。」
「それで株券を持ち出したというわけなのね。」
「叔父は肚《はら》が黒いから、おためごかしに母を手懐《てなず》けて、何をするか知れん。これを当分君に預けておくから、持って帰ってどこかへ仕舞っておいてくれ。」
「そんなもの置くとこないわ。第一家の人たちと叔父さんとなあなあかも知れないから、このごろ少し使いすぎるくらいのことを言っているかも知れないわ。」
「そんなはずはないと思うけどな。君んとこも半季々々に僕から取るものはちゃんと取っているからね。」
「何だか解《わか》んないけど、そんなもの持ち出しても仕様がないでしょう。」

      十二

 倉持が株券の詰まった鞄をひっさげて、そのまま帰ってから三四日も間をおいて、銀子はまた同じ家《うち》から早い口がかかり、行ってみると、女中が段梯子《だんばしご》の上がり口へ来て、そっと拇指《おやゆび》を出して見せ、倉持の母が逢《あ》って話をしてみたいと言って、待っていると言うのだった。倉持もせっかく株券を持ち出して来ても、それが売れない山と同じに先を越されて罐詰《かんづめ》になっており、下手をすれば親類合議で準禁治産という手もあり、妄動《もうどう》して叔父たちの係蹄《わな》にかからないとも限らないのであった。事情を知っている待合のお神にも、それとなく忠告され、彼もようやく考え直し、株券を元の金庫へ納めたのだったが、そのことがあってから、母もにわかにあわて出し、解決に乗り出したものだった。
 ちょうどこの花柳界に、煙草屋《たばこや》
前へ 次へ
全31ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング