なか》娘のように自然に対する敏感な感傷癖も、格別なかったけれど、他国もの同士のなかに縛られている辛《つら》さが、隙洩《すきも》る風のように時々心に当たって来て、いっそどこかへすっ飛んでしまおうかと思うこともあったが、来たからにはここで一と芝居うとうという肚《はら》もあり、乗りかかった運命を保って行くつもりで、自分では腕に綯《よ》りをかけている気であった。倉持がくれた指環をとにかく預かることにして、紙にくるんでそっと鏡台の抽斗《ひきだし》に仕舞っておいたが、そのころからまた一層親しみが加わり、彼は帰ることを忘れたように、四日も五日も引っかかっていることがあり、寿々廼家のお神も少し薬が利きすぎたような感じで、いくらか銀子を牽制《けんせい》気味の態度を取るのであった。お神も猪野の事件で特別骨を折ってもらっている、渡弁護士への義理もあり、一年も稼《かせ》がさないうちに、たとい前借を払うにしても、銀子を倉持に浚《さら》って行かれるのも口惜《くや》しいので、とかくほかの座敷を投げやりにして、倉持に夢中になっている銀子に、水を差そうとするのであった。腕に綯りをかけるといっても、銀子は倉持を搾《しぼ》る気はなく、お神が決めたもの以上に強請《ねだ》るのでもなく、未婚の男でこれと思うようなものも、めったにないので、千葉で挫折《しくじ》った結婚生活への憧憬《しょうけい》が、倉持の純情を対象として、一本気な彼女の心に現実化されようとしているのだった。
「当分のあいだ、どこか一軒君に家をもたせて、僕が時々通って来る。それだったら母もきっと承認してくれようし、周囲の人もだんだん君を認めて来るだろうと思う。そうしておいて――それではやはり家《うち》の方が留守になりがちで困るから、いっそ家へ入れたらということに、僕がうまく親類や子分に運動するんだよ。」
 倉持は言うのであった。
 一粒きりの家の相続人であり、母の唯一の頼りである倉持のことだから、それも事によると巧く行かないとも限らないとは思いながらも、銀子はその気になれなかった。
「妾《めかけ》だわね。」
「いや、そういう意味じゃないよ。結婚の一つの道程だよ。」
「あたし貴方《あなた》の家の財産や門閥は、どうでもいいのよ。妾が嫌《きら》いなのよ。私をそうやっておいて、どこかのお嬢さんと結婚するに決まっているわ。きっとそうよ。貴方がそのつもりでなくても、そうなります。いやだわそんなの。」
「僕を信用しないのかな。」
 倉持は頭を掻《か》き、話はそれぎりになった。
 世間見ずの銀子もお神がそれとなく暗示する通り、身分の不釣合《ふつりあい》ということを考えないわけではなかったが、彼女たちの育って来た環境が、産まれながらに、複雑な階級の差別感を植えつける余裕も機縁もなく、大して僻《ひが》んだり羨《うらや》んだりもしない代りに、卑下もしないのだった。俄成金《にわかなりきん》は時に方図もない札びらを切り、千金のダイヤも硝子玉《ガラスだま》ほどにも光を放たないのであった。
 しかし銀子は千々《ちぢ》に思い惑い、ある時ぽつぽつした彼女一流の丸っこい字で、母へ手紙を書き、この結婚|談《ばなし》の成行きを占ってもらうことにした。もちろん銀子は小野の総領娘で、よそへ片附き籍を移すには、法律の手続を執らなければならず、父の同意も得なければならなかった。彼女はこの土地へ来てから、月々二三十円ずつ仕送りをしており、それを倉持に話すと、
「そうきちきち毎月送らん方がいいよ。お父さんまだ働けん年でもないんだろう。君を当てにしないように、たまにはすっぽかすのもいいじゃないか。ここへ来る時、前借金を全部資本にやったんだもの、君の義務は十分果たしているわけだ。」
 そう言われて、銀子もその気になり、組んだ為替《かわせ》をそのまま留保し、次ぎの月もずる[#「ずる」に傍点]をきめていたのだったが、母の返辞が来てみると、金の催促もあった。占いは、大変好い話で、当人は十分その気になっているけれど、この縁談には邪魔が入り、破れるというのであった。
 銀子は気持が暗くなり、高いところから突き落とされたような感じだったが、占いを全く信ずる気にもなれなかった。

      八

 八月の中旬《なかば》に倉持が神経痛が持病の母について、遠い青森の温泉へ行っている間に、銀子もちょっと小手術を受けるために、産婦人科へ入院した。
 銀子は二月ほど前に、千葉で結婚をし損《そこ》なった栗栖が、この土地の病院の産婦人科の主任となって赴任したことを知っていたが、わざと寿々廼家のかかりつけの、個人経営の医院で手術を受けることにした。
 彼女が栗栖に逢《あ》ったのは、山手にあるある料亭《りょうてい》の宴会にお約束を受けた時で、同じ料亭の別の座敷も受けていて、その方がお馴染《なじみ》の鰹《かつお》の罐詰屋《かんづめや》と銀行の貸出係との商談の席であり、骨も折れないので、二三人の芸者とお料理を運んだりお酌《しゃく》をしたりしていると、廊下を隔てた、見晴らしのいい広間の宴会席の方では、電気のつく時分に、ようやくぼつぼつ人が集まり、晴れやかな笑い声などが起こり、碁石の音もしていた。その話し声のなかに、廊下を通って行く時から、聴《き》いたような声だと思う声が一つあり、ふと栗栖の声を思い出し、よく似た声もあるものだと、聴耳《ききみみ》を立てていたのだったが、錯覚であろうかとも思っていた。まさか栗栖がこの土地へ来ようとは思えなかった。
 十五六人の集まりで、配膳《はいぜん》が始まり、席が定まった時分に、寿々龍の銀子も女中に声かけられ、三十畳ばかりの広間へ入って行き、女中の運んで来た銚子《ちょうし》をもつと、つかつかと正面床の間の方へ行き、土地では看板の古い家の姐《ねえ》さんの坐っている床柱から二三人下の方へ来て、うろ覚えの四十年輩の男から酌をしはじめ、ふと正座の客を見ると、それが思いもかけぬ栗栖であり、しばらくの間に額が少し禿《は》げかかり、色も黒く丸々|肥《ふと》っていた。目と目が合った瞬間おやと思って銀子は視線をそらしたが、栗栖もそっと俛《うつ》むいて猪口《ちょく》を手にした。
 銀子はこうした身の上の恋愛といったようなものを、ほんの刹那《せつな》々々のもので、別れてしまえばそれきり思い出しも出されもしないものと、簡単に片づけていたので、この土地へ来てからはあの葛藤《かっとう》も自然忘れているのだったが、その当座は自分の意地張りからわざと破《こわ》してしまったあの恋愛にいやな気持が残ってならなかった。次第にそれが郷愁のなかに熔《と》け込み、周囲との触れ合いで時々起こるしこり[#「しこり」に傍点]のような硬《かた》い気持が、何から来るのか自分にも解《わか》らなかった。
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おばアこなア、芸者子にもなりゃしゃんせ
人の座敷に巣を造らん鴎《かもめ》か 飛び止まらん鴎か コバイテコバイテ
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 土地の芸者はよくこんなおばア子節を唄《うた》い囃《はや》すのだったが、銀子にはなかなかその郷土調が出ず、旅芸者におちた悲哀を深くするように思えて、好きではなかった。
 銀子はしかし栗栖を避けるわけに行かず、お座附がすんで、酒がまわり席が乱れるころになって、栗栖が呼ぶので傍《そば》へ行くと、彼は盃《さかずき》を干し、
「しばらくだったね。」
 と言って銀子に差すのを、銀子は銚子《ちょうし》を取りあげて酌をした。
「君がこんなところへ来ていようとは思わなかったよ。」
「私もくウさんがこんな処《ところ》へ来ようとは思わなかったわ。」
「いつ来たんだい。」
「この正月よ。」
 窶《やつ》れていた千葉時代から見ると、銀子も肉がつき大人《おとな》になっていた。
 お安くないなかと知って、みんながわいわい囃すので、銀子も銀行家の座敷へ逃げて来たが、広間で呼ぶ声がしきりに聞こえ、女中も呼ぶので再び出て行き、陽気に三味線《しゃみせん》などひいてわざと躁《はしゃ》いだ。
 それから一度栗栖らしい口がかかって来たが、倉持の座敷へ出ていたので逢えず、病院へ入ってから、どこで聞きつけたか、見舞に来てくれたが、銀子も今はかえって世間が憚《はばか》られ、わざとよそよそしくしていた。
「ここへ入院するくらいなら、なぜ僕にそう言わなかったんだ。」
 栗栖は云《い》っていた。
 銀子の病室は、交《かわ》りばんこに罐詰の水菓子や、ケ―キの折などもって見舞がてら遊びに来る、家《うち》の抱えや本家の養女たちで賑《にぎ》わい、河《かわ》の洲《す》に工場をもっている罐詰屋の野良子息《のらむすこ》や、道楽半分に町に写場をもっている山手の地主の総領|子息《むすこ》も、三日にあげず訪ねて来た。顔の生白いこの写真屋は土地の言葉でいう兄《わん》さんで、来たてからの客であり、倉持とは比べものにもならないが、銀子のためには玉稼《ぎょくかせ》ぎに打ってつけの若い衆で、お神や仕込みの歓心を買うために、来るたびに土産物《みやげもの》を持ち込み、銀子の言いなり放題に、そこらの料亭を遊び歩いていた。

      九

 ある日の午後、銀子は看護婦の小谷さんと、彼女の恋愛問題について話し合っていた。小谷さんは今仙台の兵営にいる、同じ村の中学出の青年との間に、時々ラブレタアのやり取りがあり、別に、院長の甥《おい》でこの夏帰省した工科の学生と新たな恋愛が発生し、苦しんでいるのだった。彼女は仙台から来た手紙を一々銀子に見せるのだったが、工科の学生と逢った時の彼の言葉や行動をも一々報告した。
「学生さんの方が貴女《あなた》に魅力がありそうね。だけど兵隊さんの方が誠意がありそうね。」
 その時軽く戸をノックしたと思うと、本家の養女の寿々千代の愛子が顔を出し、続いて見知らぬ男が一人戸口に現われた。
「こないだお話しした私の彼氏紹介するわ。」
 彼女はそう言って、真珠船の船員である滝川という許婚《いいなずけ》を紹介した。
「こちら貴方《あなた》が大好きだといった銀子さんよ。」
「ああ、そうですか。初めまして、僕はこういう海賊みたいな乱暴ものです。」
 彼は分け目もわからぬ蓬々《ぼうぼう》した髪を被《かぶ》り、顔も手も赤銅色《しゃくどういろ》に南洋の日に焦《や》け、開襟《かいきん》シャツにざぐりとした麻織の上衣《うわぎ》をつけ、海の労働者にふさわしい逞《たくま》しい大きな体格の持主だが、しかし大きからぬ眼眸《まなざし》に熔《と》けるような愛嬌《あいきょう》があり、素朴《そぼく》ではあるが、冒険家の特徴とでも言うのか、用心深そうな神経がぴりぴりしていそうに見えた。
 銀子はちょっと勝手が違った感じだったが、最近しばらくパラオで遊んでいたこの男に、愛子の贈った写真の中に愛子姉妹と並んで銀子も真中ほどに立っており、不縹緻《ぶきりょう》な愛子によって一層引き立って見えるところから、その単純な彫刻的な白い顔が、はしなく異郷にいる滝川の情熱をかき立てたものらしかった。
「真珠を取るんですって?」
「そうです。鼈甲《べっこう》なんかも取りますがね。こんどは何にも持って来ませんでしたけれど……大概良いものは途中で英国人や米国人に売ってしまうんです。」
「どの辺まで出かけるんですの?」
「随分行きますね。委任統治のテニヤン、ヤップ、パラオ、サイパンはもちろん、時々は赤道直下のオーシャン付近からオーストラリヤ近くまでも延《の》しますが、もちろん冒険ですから、運が悪いとやられてしまいます。それに水を汲《く》みに、無人島へ上がることもありますが、下手まごつくと蛮人にやられますね。」
 彼らは往《ゆ》きには小笠原《おがさわら》の父島から、硫黄ケ島《いおうがしま》を通り、帰りにはフィリッピンから台湾方面を廻って九州へ帰航するのであり、滝川はすでに幾度もその船に乗り込み、南洋諸島の風土、物資、島民の生活についてかなりの知識をもっており、南洋庁の所在地パラオには往き帰りに寄港し、政庁筋の歓迎を受けたり、富有な島民の家庭にも招待され、土人独特の料理を饗応《きょうおう》さ
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