」に「日吉丸《ひよしまる》」など数段をあげており、銀子も「白木屋」から始めた。銀子の声量はたっぷりしていた。調子も四本出るのだったが、年を取ってからも、子供々々した愛らしい甘味が失《う》せず、節廻しの技巧に捻《ひね》ったところや、込み入ったところがなく、今一と息と思うところであっさり滑って行くので、どっちり腹で語る義太夫にも力瘤《ちからこぶ》は入らず、太《ふと》の声にはなりきらないので、師匠を苛々《いらいら》させ、ざっと一段あげるのにたっぷり四日かかったのだったが、その間に「日吉丸」とか「朝顔」とか「堀川」、「壺坂」など、お座敷の間に合うようにサワリを幾段か教わった。
しかしこの土地へ来て、一番銀子の身についたのは読書で、それを教えてくれたのは、出入りの八百屋《やおや》であった。八百屋はこの花街から四五町離れた、ちょうど主人の猪野の本家のある屋敷町のなかに、ささやかな店を持ち、野菜を車に積んで得意まわりをするのだったが、土地で一番豊富なのは豆のもやしと赤蕪《あかかぶ》であり、銀子は自分も好きな赤蕪を、この八百屋に頼んで、東京へ送ったりしたことから懇意になり、風呂《ふろ》の帰りなどに、棒立ちに凍った手拭《てぬぐい》をぶらさげながら、林檎《りんご》や蜜柑《みかん》を買いに店へ寄ったりした。彼はもとからの八百屋ではないらしく、土地の中学を出てから、東京で苦学し、病気になって故郷へ帰り、母と二人の小体《こてい》な暮しであったが、帳場の後ろの本箱に、文学書類をどっさり持っていた。独歩だとか漱石《そうせき》とかいうものもあったが、トルストイ、ドストエフスキー、モオパサンなどの翻訳が大部を占め、中央公論に婦人公論なども取っていた。
「こういう処《ところ》にいると、本でも読まんことには馬鹿になってしまうからね。僕は八百屋だけれど、読書のお蔭《かげ》で生効《いきがい》を感じている。貴女《あなた》も寂しい時は本を読みなさい。救われますよ。」
顔の蒼《あお》い青年八百屋は、そう言って、翻訳ものをそっと措《お》いて行った。
五
最初おいて行ったのは、涙香《るいこう》の訳にかかるユーゴーの「噫《ああ》無情」で、「こういうところから始めたらいいがすぺい。」
とそう言って、手垢《てあか》のついたその翻訳書を感慨ふかそうに頁《ページ》を繰っていた。
寿々龍の銀子は座敷も暇を喰《く》うようなことはなかったにしても、倉持に封鎖されてからは、出先でも遠慮がち――というよりも融通の利く当てがなくなったところから、野心ある客にはたびたびは出せず、自然色気ぬきの平場《ひらば》ということになり、いくらかのんびりしていられるので、読もうと思えば本も読めないことはなかった。大抵の主人は抱えの読書を嫌《きら》い、厳《きび》しく封ずるのが普通で、東京でも今におき映画すら断然禁じている家《うち》も、少なくなかった。芸者の昼の時間もそう閑《ひま》ではなく、主人の居間から自分たちの寝る処の拭き掃除に、洗濯《せんたく》もしなければならず、お稽古も時には長唄《ながうた》に常磐津《ときわず》、小唄といったふうに、二軒くらいは行き、立て込んでいる髪結いで待たされたり、風呂に行ったりすると、化粧がお座敷の間に合わないこともあり、小説に耽《ふけ》れば自然日課が疎《おろそ》かになるという理由もだが、元来が主人が無智で、そのまた旦那《だんな》も浪花節《なにわぶし》のほかには、洋楽洋画はもちろん歌舞伎《かぶき》や日本の音曲にすら全然|鉄聾《かなつんぼ》の低級なのが多く、抱えが生半可《なまはんか》に本なぞ読むのは、この道場の禁物であり、ひところ流行《はや》った救世軍の、あの私刑にも似た暴挙が、業者に恐慌を来たしていた時代には、うっかり新聞も抱えの目先へ抛《ほう》り出しておけないのであった。法律で保護されていていないような状態におかれていた時代は永く続き、悪桂庵《あくけいあん》にかかり、芸者に喰われても、泣き寝入りが落ちとなりがちな弱い稼業《かぎょう》でもあった。人々は一見仲よく暮らしているように見えながら、親子は親子で、夫婦は夫婦で相喰《あいは》み、不潔物に発生する黴菌《ばいきん》や寄生虫のように、女の血を吸ってあるく人種もあって、はかない人情で緩和され、繊弱《かよわ》い情緒《じょうしょ》で粉飾《ふんしょく》された平和の裡《うち》にも、生存の闘争はいつ止《や》むべしとも見えないのであった。
銀子も貧乏ゆえに、あっちで喰われこっちで喰われ、身を削《そ》いで親や妹たちのために糧《かて》を稼《かせ》ぐ女の一人なので、青年八百屋が彼女のために、何となしにジャン・バルジャンを読ませようとしたのも、意識したとしないにかかわらず、どこか理窟《りくつ》に合わないこともなさそうであった。
銀子は主人や婆《ばあ》やの目を偸《ぬす》みながら、急速度で読んで行った。
「一片のパンから、こんなことになるものかな。」
彼女はテイマの意味もよく解《わか》らないながらに、筋だけでも興味は尽きず、ある時は寝床のなかに縮こまりながら、障子が白々するのも気づかずに読み耽《ふけ》り、四五日で読んでしまった。
「これすっかり読んでしまったわ。とても面白かったわ。」
「解った?」
「解った。」
「じゃ明日また何かもって来てやろう。」
今度は「巌窟王《がんくつおう》」であったが、婦人公論もおいて行った。
ある晩方銀子は婦人公論を、膝《ひざ》に載せたまま、餉台《ちゃぶだい》に突っ伏して、ぐっすり眠っていた。主人夫婦は電話で呼ばれ、訴訟上の要談で、弁護士の家《うち》へ行っており、婆《ばあ》やは在方《ざいがた》の親類に預けてある子供が病気なので、昼ごろから暇をもらって出て行き、小寿々はお座敷へ行っていた。そのころ猪野の詐欺横領事件は、大審院まで持ち込まれ、審理中であるらしく、猪野はいつも憂鬱《ゆううつ》そうに、奥の八畳に閉じ籠《こ》もり、酒ばかり呑《の》んでいた。どうもそれが却下されそうな形勢にあるということも、銀子は倉持から聞いていた。渡弁護士は倉持には父方の叔父《おじ》であり、後見人でもあった。倉持は幼い時に父に訣《わか》れ、倉持家にふさわしい出の母の手一つに育てられて来たものだったが、法律家の渡弁護士が自然、主人|歿後《ぼつご》の倉持家に重要な地位を占めることとなり、年の若い倉持にほ、ちょっと目の上の瘤《こぶ》という感じで、母が信用しすぎていはしないかと思えてならなかった。倉持家のために親切だとも思えるし、そうでもないように思えたりして、法律家であるだけに、頼もしくもあり不安でもあった。それも年を取るにつれて、金銭上のことは一切自分が見ることになり、手がけてみると、この倉持の動産不動産の大きな財産にも見通しがつき、曖昧《あいまい》な点はなさそうであったが、今までに何かされてはいなかったかという気もするのだった。
六
「おい、おい。」
玄関わきの廊下から、声をかけるものがあるので、寿々龍の銀子は目をさまし、振り返って見ると、それが倉持であった。
彼は駱駝《らくだ》の将校マントにステッソンの帽を冠《かぶ》り、いつもの通り袴《はかま》を穿《は》いていた。
「あらどうしたの、遅がけだわね。」
「むむ、ちょっと銀行に用事があって、少し手間取ったものだから、途中自転車屋へ寄ったり何かして……。」
河《かわ》の上流にある倉持の家は、写真で見ても下手なお寺より大きい構えで、棟《むね》の瓦《かわら》に定紋の九曜星が浮き出しており、長々しい系図が語っているように、平家の落武者だというのはとにかくとしても、古い豪族の末裔《まつえい》であることは疑えない。
「倉持さんの家へ行ってごらん、とても大したもんだから。」
寿々廼家のお神も言っていたが、銀子にはちょっと見当もつきかねた。
彼は町へ出て来るのに、船で河を下るか、車で陸《おか》を来るかして、駅まで出て汽車に乗るのだったが、船も汽車に間に合わなくなると、通し車で飛ばすのだった。初め一二箇月のうちは、母が心配するというので、少しくらいおそくなっても大抵かえることにして、場所も駅に近い家に決めていたが、いずれも年が若いだけに人前を憚《はばか》り、今にも立ちあがりそうに腕時計を見い見い、思い切って帰りもしないで、結局腰を据《す》えそうになり、銀子もおどおどしながら、無言の表情で引き留め、また飲み直すのだったが、そういう時倉持はきまって仙台にいる、学校友達をだし[#「だし」に傍点]に使い、母の前を繕うのであった。二タ月三月たつと次第にそれが頻繁《ひんぱん》になり、寿々龍の銀子も寂しくなると、文章を上手に書く本家の抱えに頼んで、手紙を書いてもらったりするので、自然足が繁《しげ》くなるのだったが、倉持の家には、朝から晩まで家の雑用を達《た》してくれている忠実な男がいて、郵便物に注意し、女からのだと見ると、母に気取られぬように、そっと若主人に手渡しすることになっていた。
倉持も町から帰って行くと、別れたばかりの銀子にすぐ手紙をかき、母が自分を信用しきっているので、告白する機会がなくて困るとか、逢《あ》っている時は口へも出せなかったその時の感想とか、一日の家庭の出来事、自身の処理した事件の報告など純情を披瀝《ひれき》して来るので、銀子も顔が熱くなり、ひた向きな異性の熱情を真向《まとも》に感ずるのだった。
「僕いつもの処《ところ》へ行っているから君もすぐ来たまえ。そのままでいいよ。」
倉持はそう言って出て行ったが、銀子はちょっと顔を直し、子供に留守を頼んで家を出たが、そこは河に近い日和山《ひよりやま》の裾《すそ》にある料亭《りょうてい》で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。そのころになると、この北の海にも春らしい紫色の濛靄《もや》が沖に立ちこめ、日和山の桜の梢《こずえ》にも蕾《つぼみ》らしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅《くさもち》を売る茶店もあって、銀子も朋輩《ほうばい》と連れ立ち残雪の下から草の萌《も》え出るその山へ登ることもあった。夜は沖に明滅する白魚舟の漁火《いさりび》も見えるのであった。
銀子が少しおくれて二階へ上がって行くと、女中がちょうど通し物と酒を運んで来たところで、どこかの部屋では箱も入っていた。いくらか日が永くなったらしく、海はまだ暮れきっていなかった。
倉持は何か緊張した表情をしていた。四五日前に来た時、彼は結婚の話を持ち出し、二晩も銀子と部屋に閉じ籠《こ》もっていたが、それは酒のうえのことであり、銀子もふわっと話に乗りながら、夢のような気持がしているのだったが、彼は今夜もその話を持ち出し、機会を作って一度母に逢わせるから、そのつもりでいてくれと言うので、昔亡父が母に贈ったというマリエージ・リングを袂《たもと》から出し、銀子の指にはめた。指環《ゆびわ》の台は純金であったが、環状《わなり》に並べた九つの小粒の真珠の真ん中に、一つの大きな真珠があり、倉持家の定紋に造られたもので、贈り主の父の母に対する愛情のいかに深かったかを示すものであり、それを偸《ぬす》み出して女に贈る坊っちゃんらしい彼の熱情に、銀子も少し驚きの目を見張っていた。
「そんなことしていいんですの。」
「僕は君を商売人だとは思っていないからそれを贈るんだ。受けてくれるだろう。」
「え、有難いと思うわ。」
七
桜の咲く五月ともなると、梅も桃も一時に咲き、嫩葉《わかば》の萌《も》え出る木々の梢《こずえ》や、草の蘇《よみが》える黒土から、咽《むせ》ぶような瘟気《いきれ》を発散し、寒さに怯《おび》えがちの銀子も、何となし脊丈《せたけ》が伸びるような歓《よろこ》びを感ずるのであった。暗澹《あんたん》たる水のうえを、幻のごとく飛んで行く鴎《かもめ》も寂しいものだったが、寝ざめに耳にする川蒸汽や汽車の汽笛の音も、旅の空では何となく物悲しく、倉持を駅まで送って行って、上りの汽車を見るのも好い気持ではなかった。東京育ちの、貧乏に痛めつけられて来たので、田舎《い
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