らし、この種類の女は遠く新嘉坡《シンガポール》や濠洲《ごうしゅう》あたりまでも、風に飛ぶ草の実のように、生活を求めて気軽に進出するのだった。

      二

 この客車にI―町の弁護士が一人乗りあわせていた。彼は銀子たちより少しおくれて、乗り込んだものらしかったが、主人夫婦が外套《がいとう》をぬぎ、荷物を棚《たな》へ上げたりしているうちに気がつき、こっちからお辞儀した。
「やあ。」
 と弁護士の方も軽く会釈したが、彼は五十五六の年輩の、硬《こわ》い口髯《くちひげ》も頭髪も三分通り銀灰色で、骨格のがっちりした厳《いか》つい紳士であった。
「先生も春早々東京へお出掛けかね。」
 主人夫婦は座席を離れ、傍《そば》へ寄って行った。
「ちょっと訴訟用でね。貴方方《あなたがた》はまたどうして。」
「私かね。私らも商売の用事をかね、この五日ばかり東京見物して今帰るところでさ。」
 お神は挨拶《あいさつ》を済ますと、やがて銀子の傍へ帰って来たが、主人の猪野《いの》はややしばし弁護士と話しこんでいた。後で銀子も知ったことだが、猪野は大きな詐欺《さぎ》事件で、長く未決へ投げ込まれていたが、このごろようやく保釈で解放され、係争中をしばらく家に謹慎しているのだった。それはちょうどそのころ世の中を騒がしていた鈴弁事件と似たか寄ったかの米に関する詐欺事件だったが、隠匿《いんとく》の方法がそれよりも巧妙に出来ており、相手の弁護士をてこずらせていた。今猪野のお辞儀した渡《わたり》弁護士も、担任弁護士の一人であり、彼によって東京の名流が、土地の法廷へも出張して、被告猪野の弁護にも起《た》ったのであった。
 猪野は小さい時分から、米の大問屋へ奉公にやられ、機敏に立ち働き、主人の信用を得ていたが、主人が亡くなり妻の代になってから、店を一手に切りまわしていたところから、今までの信用を逆に利用し、盛んに空取引《からとりひき》の手を拡《ひろ》めて、幾年かの間に大きな穴をあけ、さしも大身代の主家を破産の悲運に陥《おとしい》れたものであった。
 やがて猪野は渡弁護士を食堂に案内し、お神の竹子も席を立ち、「お前もおいで」といわれて、銀子ものこのこついて行った。
「これが今ちょっとお話しした、新規の抱えでして。」
 猪野は銀子を渡に紹介した。上玉をつれて帰るというので、彼は今日上野を立つ前に家へ電報を打ったりしていたが、弁護士にも少し鼻を高くしているのだった。
 猪野は洋食に酒を取り、三人でちびちびやりながら、訴訟の話をしていたが、銀子には何のことか解《わか》らず、退屈して来たので、食べるものを食べてしまうと、
「私あっち行っててもいいでしょう。」
 とお神にそっとささやき、食堂を出て独りになった。何を考えるということもなかったが、独りでいたかった。
 福島あたりへ来ると、寒さがみりみり総身に迫り、窓硝子《まどガラス》に白く水蒸気が凍っていた。野山は一面に白く、村も町も深い静寂の底に眠り、訛《なまり》をおびた駅夫の呼び声も、遠く来たことを感じさせ、銀子はそぞろに心細くなり、自身をいじらしく思った。下駄《げた》をぬいで、クションの上に坐り、肱掛《ひじか》けに突っ伏しているうちに、疲れが出てうとうとと眠った。
 三人が座席へ帰って来たのは、もう二時ごろで、銀子もうつらうつら気がついたが、ちょっと身じろぎをしただけでまた眠った。
 仙台へついたのは、朝の六時ごろで、銀子も雪景色が珍しいので、夜のしらしら明けから目がさめ、洗面場へ出て口を掃除したり、顔を洗ったりした。少しは頭脳《あたま》がはっきりし、悲しみも剥《と》れて行ったが、請地《うけじ》ではもう早起きの父が起きている時分だなぞと考えてみたりした。
 見たこともない氷柱《つらら》の簾《すだれ》が檐《のき》に下がっており、銀の大蛇《おろち》のように朝の光線に輝いているのが、想像もしなかった偉観であった。
「大変だね。冬中こんなですの。」
「ああ、そうだよ。四月の声を聞かないと、解けやしないよ。私もここの寒の強いのには驚いたがね。慣れてしまえば平気さ。東京へ行ってみて雪のないのが、物足りないくらいのものさ。」
 仙台で弁護士は下車し、猪野は座席へ帰って来たが、I―町まではまだ間があり、K―駅で乗り替えるのだった。
 I―町では、みんなが大勢迎えに来ていた。

      三

 その後間もなく市政の布《し》かれたこの町は、太平洋に突き出た牡鹿《おじか》半島の咽喉《いんこう》を扼《やく》し、仙台湾に注ぐ北上河《きたかみがわ》の河口に臨んだ物資の集散地で、鉄道輸送の開ける前は、海と河との水運により、三十五|反《たん》帆が頻繁《ひんぱん》に出入りしたものだったが、今は河口も浅くなり、廻船問屋《かいせんどんや》の影も薄くなったとは言え、鰹《かつお》を主にした漁業は盛んで、住みよい裕《ゆた》かな町ではあった。
 迎えに来ていたのが、銀子の女主人が働いていた本家のお神やその養女たちで、体の小造りな色白|下腫《しもぶく》れのそのお神も、赤坂で芸者になった人であり、姪《めい》を二人まで養女に迎えて商売に就《つ》かしており、来てみるとほかにも東京ものが幾人かあって、銀子もいくらか安心したのだった。芸妓屋《げいしゃや》が六七軒に、旅館以外の料亭《りょうてい》と四五軒の待合がお出先で、在方《ざいかた》の旦那衆《だんなしゅう》に土地の銀行家、病院の医員、商人、官庁筋の人たちが客であった。
「この土地では出たての芸者は新妓《しんこ》といってね、わりかた東京ッ児《こ》の持てる処《ところ》なんだよ。だけどあまり東京風を吹かさずに、三四カ月もおとなしく働いていれば、きっと誰か面倒見てくれる人が見つかるのよ。お前が自分で話をきめなくても、お出先と私とでいいようにするから、そのつもりで一生懸命おやんなさい。」
 出る先へ立って、お神は銀子の寿々龍《すずりゅう》にそんなことを言って聞かせたが、そういうものが一人現われたのは、この土地にも春らしい気分が兆《きざ》しはじめ、人馬も通えるように堅く張り詰めた河の氷もようやく溶けはじめたころで、町は選挙騒ぎでざわめき立っていた。銀子の行く座敷も、とかく選挙関係の人が多く、それも土地に根を張っていた政友会系の人が七分を占め、あと三分が憲政会という色分けで、出て間もない銀子はある時これも政友系の代議士|八代《やしろ》と、土地の富豪倉持との座敷へ呼ばれたのが因縁で、倉持のものとなってしまったのだった。
 倉持はまだ年が若く、学生時代はスポーツの選手であり、色の浅黒い筋骨の逞《たくま》しい大男であったが、東北では指折りの豪農の総領で、そのころはまだ未婚の青年であり、遊びの味は身に染《し》みてもいなかった。分家も方々に散らばっており、息のかかった人たちも多いので、その附近の地盤を堅めるのに、その勢力はぜひとも必要であり、投票を一手に集めるのにその信望は利用されなければならなかった。
 八代代議士と倉持との会談も、無論投票に関することで、倉持は原敬の依頼状まで受け取り、感激していた。
 新聞社の前には刻々に情報の入って来る投票の予想が掲示され、呼ばれつけている芸者たちまで選挙熱に浮かされ、どこもその話で持ちきりというふうであった。
 銀子にも男性的なこの青年の印象は悪くなかった。文化人気分の多い栗栖とは違って、言葉数も少なく、お世辞もなかったが、どこかのんびりした地方の素封《ものもち》の坊っちゃんらしい気分が、気に入っていた。
 選挙騒ぎもやや鎮《しず》まった時分、倉持は二三人取巻きをつれて来たり、一人で飯を食いに来たりもしていたが、よって来ると三味線《しゃみせん》をひかせておばこ節など唄《うた》って騒ぐくらいで、手もかからず、気むずかしいところも見えなかった。
 銀子は来る時から、別にここで、根を卸す考えはなく、来た以上は真面目《まじめ》に働いて借金を切り、早く引き揚げましょうと思っていたので、千葉時代から見ると、気も引き締まっており、お座敷も殊勝に敏捷《びんしょう》にしていたので倉持にもそこいらの芸者から受ける印象とは一風ちがった純朴《じゅんぼく》なものがあった。
「どうして、この土地へ来たのかね。」
「どうしてでもないのよ。私は上州産だから、西の方は肌に合わないでしょう。東北の方ならいいと思ったまでだわ。来るまではI―なんて聞いたこともなかったわ。でも来てみると、暢気《のんき》でいいわ。」
 するとある時倉持の座敷へ呼ばれ、料亭のお神が、主人を呼んで来いというので、寿々龍の銀子はお神を迎えに行き、お神が座敷へ現われたところで、三人のあいだに話が纏《まと》まり、倉持が銀子のペトロンと決まり、芸妓屋《げいしゃや》へ金を支払うと同時に、月々の小遣《こづかい》や時のものの費用を銀子が支給されることになり、彼女も息がつけた。

      四

 文化の低いこの町では、銀子の好きなイタリイやドイツの写真もなく、国活がまだ日活になったかならない時分のことで、ちゃんばらで売り出した目玉の松ちゃんも登場せず、女形の衣笠《きぬがさ》や四郎五郎なぞという俳優の現代物が、雨漏《あまも》りのした壁画のような画面を展開していたにすぎなかった。しかし歌劇とか現代劇とか、浪花節《なにわぶし》芝居とかいった旅芸人は、入れ替わり立ち替わり間断なくやって来て、小屋の空《あ》く時はほとんどなかった。東京から来るのもあり、仙台あたりから来るのもあり、尖端的《せんたんてき》な歌劇の一座ともなれば、前触れに太鼓や喇叭《らっぱ》を吹き立て、冬|籠《ごも》りの町を車で練り歩くのであった。
 銀子も所在がないので、たまには客につれられ、汚い桝《ます》のなかで行火《あんか》に蒲団《ふとん》をかけ、煎餅《せんべい》や菓子を食べながら、冬の半夜を過ごすこともあったが、舞台の道化にげらげら笑い興ずる観衆の中にあって、銀子はふと他国ものの寂しさに襲われたりした。
 分寿々廼家《わけすずのや》というその芸者屋では、銀子より一足先に来た横浜ものの小寿々《こすず》という妓《こ》のほかに、仕込みが一人、ほかに内箱の婆《ばあ》やが一人いて、台所から抱えの取締り一切を委《ゆだ》ねられていたが、もと台湾の巡査に片附いて、長く台北で暮らし、良人《おっと》が死んでから二人の子供をつれて、郷里へ帰り、子供を育てるために寿々廼家で働いているのだったが、飯も炊《た》けば芸者の見張りもし、箱をもってお座敷へも上がって行き、そのたびに銀子が気を利かし二円、三円、時には五円も祝儀《しゅうぎ》をくれるのだったが、その当座はぺこぺこしていても鼻薬が利かなくなると、お世辞気のない新妓《しんこ》の銀子に辛《つら》く当たり、仮借《かしゃく》しなかった。銀子も体に隙《ひま》がないので、拭《ふ》き掃除に追い立てられてばかりもいず、夜床についてから読書に耽《ふけ》ったりして、寝坊をすることもあり、時には煩《うる》さがって、わざと髪結いさんの家で、雑誌を読みながら時間を潰《つぶ》したりした。すると内箱の婆やは容赦せず、銀子の顔を見ると、いきなり呶鳴《どな》るのだった。
「新妓《しんこ》さん、お前に便所を取っておいたよ。早く掃除してしまいな。」
 この辺は便所は大抵外にあり、板をわたって行くようになっていたが、氷でつるつるする庭石をわたり、井戸から汲《く》んで来た水を、ひびの切れた手を痺《しび》らせながら雑巾《ぞうきん》を搾《しぼ》り、婆やの気に入るように掃除するのは、千葉で楽をしていた銀子にとってかなり辛い日課であった。しかしそれも馴《な》れて来ると自分で雑巾がけをしない日はかえって気持がわるく、便所の役をわざわざ買って出たりした。
 お神が銀子に義太夫《ぎだゆう》の稽古《けいこ》をさせたのは、ちょうど倉持の話が決まり、この新妓に格がついたころのことだったが、お神も上方から流れて来た、五十年輩の三味線弾《しゃみせんひ》きを一週に何度か日を決めて家へ迎え「揚屋《あげや》」だの「壺坂《つぼさか》」だの「千代萩《せんだいはぎ》
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