っと見詰められ、銀子は少し狼狽《うろた》えた。
「まあ一杯呑みたまえ。」
 栗栖はコップを差して、ビール壜《びん》を取りあげた。
「呑むわ。どうしたの?」
「どうもせんよ。」
「だって……田舎はどうだったの。」
「ああ田舎か。田舎は別に何でもないんだ。ああ、そう、妹がよろしくて。着物の胴裏にでもしてくれって、羽二重を一反くれたよ。ここには持って来なかったけれど。しかし君は相変わらずかい。」
「そうよ。」
「何か変わったことがあるんだろう。」
「何もないわ。どうして。」
「朗らかそうな顔しているところを見ると、別に何でもなさそうでもあるね。君がそんな猫冠《ねこかぶ》りだとは思えんしね。」
 銀子も何か歯痒《はがゆ》くなり、打ち明けて相談してみたらとも思うのだったが、それがやはり細々《こまごま》と話のできない性分なのだった。
「僕も君を信用したいんだ。無論信用してもいるんだが、変なことを言って僕に忠告するものがいるんだ。」
「世間はいろいろなこと言いますわ。私が養女格で別扱いだもんだから、変な目で見る人もあるのよ。」
 銀子はそう言いながら、この場合にも、いつか何かの花柳小説でも読み、何かの話のおりに土地の姐《ねえ》さんも言っていた、肉体と精神との貞操について考えていた。商売している以上、体はどうも仕方がない、汚《よご》れた体にも純潔な精神的貞操が宿り、金の力でもそれを褫《うば》うことはできないのだと。それも自分でそう信じていればいいので、口へ出すべきことではないと、そうも思っていた。誰が何と言わなくとも、自身が一番|涜《けが》された自身の汚さを感じているのだった。
「でもいいわ、クーさんがそう思うなら。」
「いや、そんなわけじゃないんだ。だから君に訊《き》こうと思って。」
 銀子は空《から》になった壜《びん》を覗《のぞ》き、
「お代り取って来るわ、お呑《の》みなさいよ。」
「いや、今夜はそうしていられないんだ。明朝早く大手術があるんだ。」
 栗栖は言っていたが、やっぱり呑み足りなくて、今一本取り、さっぱりしたようなしないような気持で、結婚の話を持ち出す汐《しお》を失い、銀子に爪弾《つめび》きで弾《ひ》かせて、歌を一つ二つ謳《うた》っているうちに時がたって行った。

      十六

 ある日も銀子は、お座敷の帰りにしばらく来てくれない栗栖を訪ねようと思って、門の前まで行ってみると、磯貝がちゃんとそこに立っていた。
「また嗅《か》ぎつけられちゃった。」
 銀子は思ったが、引き返すのもどうかと思案して、かまわず近よって行った。銀子は自分持ちの箱丁《はこや》に、時々金を握らせていたので、栗栖の座敷だとわかると、箱丁も気を利かして、裏の家へ直接かけに来ることにしていたが親爺《おやじ》は見番の役員なので、何時にどこへ入ったかということも、あけ透《す》けに判るのであった。しかしお座敷にいる以上、明くまでは出先の権利で、お客がどこの誰であろうと、どうもならないのであった。ある時も銀子が栗栖の座敷にいると、彼は気が揉《も》めてならず、別の座敷へ上がってよその芸者をかけ、わざと陽気に騒いだりして、苛々《いらいら》する気分を紛らせていた。栗栖もそれが磯貝とわかり、六感にぴんと来るものがあり、酔いもさめた形であった。栗栖の足はそれから少し遠退《とおの》き、しばらく顔を見せないのであった。彼は銀子との結婚について父の諒解《りょうかい》を得たいと思い、遊びすぎて金にも窮《つま》っていたので、手術料などで相当の収入《みいり》がありそうに見えても、いざ結婚となると少し纏《まと》まった金も必要なのだったが、父も最近めっきり白髪《しらが》が殖《ふ》え酒量も減って、自転車で遠方の病家まわりをしている姿が気の毒になり、何も言い出さずに帰って来たのだった。帰って来ると、いやな噂《うわさ》が耳に入り、気を悪くしていたので、医専が県立であるところから、県内の方々から依頼して来る手術も人に譲り怠りがちであった。彼は銀子を追究して真相をはっきりさせることも怖《こわ》く、それかと言って商売人の銀子の言葉を言葉通りに受け容《い》れることもできず、病院の仕事もろくろく手に着かないのだった。
「お前一体ここへ何しに来るんだ。」
 親爺は栗栖の家の少し手前の処《ところ》で、銀子を遮《さえぎ》った。
「用があるのよ。」
「何の用だかそれを言いなさい。己《おれ》に言えない用があるわけはない。」
 磯貝は悪く気を廻していたが、銀子も立ちながら諍《あらそ》ってもいられず、一緒に還《かえ》ることにした。
 そのころになると父の店もやや調《ととの》い、棚の前通りにズックの学生靴や捲《まき》ゲートル、水筒にランドセルなど学生向きのものも並べてぼつぼつ商いもあり、滝に打たれたせいか父の頭も軽くなり、仕事に坐ることもできた。上の妹は小山で当分寝泊りすることになり、小さい方の妹たちは磯貝の勧めで、学校から帰ると踊りの稽古《けいこ》に通わせ、銀子が地をひいて浚《さら》ったりしていた。
 ある日の午後も、銀子は椿姫《つばきひめ》の映画を見て、強い感動を受け、目も眩《くら》むような豪華なフランスの歌姫の生活にも驚いたが、不幸な恋愛と哀れな末路の悲劇にも泣かされた。彼女は「クレオパトラとアントニイ」や「サロメ」など、新しい洋画を欠かさず見ていたが、弁士にもお座敷での顔馴染《かおなじみ》があり、案内女にも顔を知られて、お座敷がかかれば、そっと座席へ知らせに来てもくれた。
 そのころ銀子は二度ばかり呼ばれた東京の紳士があり、これが昔しなら顔も拝めない家柄だったが、夫人が胸の病気で海岸へ来ているので、時々洋楽の新譜のレコオドなど買い入れて持って来るのだったが、銀子の初々《ういうい》しさに心を惹《ひ》かれ、身のうえなど聞いたりするのだった。
「事によったら僕が面倒見てあげてもいいんだがね、この土地としては君の着附けは大変いいようじゃないか、何かいいパトロンがついているんだろう。」
 彼は思わせぶりに、そんなことを言いながら、大抵|家《うち》の妓《こ》も二三人呼んで酒も余計は呑まず、飯の給仕などさせて、あっさり帰るのだったが、身分を隠してのお忍びなので、銀子はそれが何様であるかも判らず、狭い胸に映画かぶれの空想を描いたりしてみるのだったが、男の要求しているものが、大抵判るので、この人もかとすぐ思うのであった。同じ土地の芸者が、間もなく落籍《ひか》され、銀子もその身分を知ったのだったが、ずっと後になって、彼はその女に二人の子供をおいて行方《ゆくえ》知れずになり、自身の手で子供を教育するため、彼女は新橋で左褄《ひだりづま》を取り、世間のセンセションを起こしたのだった。

      十七

 銀子が稽古に通っている、千葉神社の裏手に大弓場などもって、十くらいの女の貰《もら》い子と二人で暮らしている、四十三四にもなったであろう、商売人あがりの清元の師匠を、親父《おやじ》の後妻にしたらと、ふと思いつき、ある日磯貝に話してみた。
「父さんお神さん貰《もら》うといいわ。いい人があるから貰いなさいね。」
「うむ、貰ってもいいね。いい人って誰だい。」
 親父は銀子が世間へ自分の立場をカムフラジュするための智慧《ちえ》だと考え、気が動いた。
「清元のお師匠さんよ。」
 この師匠が東京から流れて来て、土地に居ついた事情も親父は知っていた。
「うむ、あの師匠か。子供があるじゃないか。」
「女の子だからいいでしょう。」
「お前話してみたのか。」
「ううん、お父さんよかったら、今日にでも話してみるつもりだわ。いい?」
「ああいい。お前のいいようにしろ。」
 親父も頷《うなず》いた。
 ちょうど山姥《やまうば》がもう少しで上がるところで、銀子はざっと稽古《けいこ》をしてもらい、三味線《しゃみせん》を傍《そば》へおくかおかぬに、いきなり切り出してみた。かつて深川で左褄《ひだりづま》を取っていた師匠は、万事ゆったりしたこの町の生活気分が気に入り、大弓場の片手間に、昔し覚えこんだ清元の稽古をして約《つま》しく暮らしているのだったが、深川女らしく色が黒く小締まりだったが、あの辺の芸者らしい暢気《のんき》さもあった。
「今日はお師匠さんにお話があるんですけれど……。」
 銀子は切り出した。
「そう。私に? 何でしょうね。」
「お師匠さん。家《うち》のお嫁さんに来てくれません?」
「私が? お宅の後妻に?」
「お父さんも承知の上なのよ。」
「愛ちゃんがいるからね。」
「いたっていいわよ。」
「それはね、私も商売人あがりだから、この商売はまんざら素人《しろうと》でもないんですよ。だから旦那《だんな》が御承知なら行ってもよござんすがね。でもそんなことしてもいいんですか。」
「どうしてです。」
「真実《ほんとう》か嘘《うそ》か、世間の噂《うわさ》だから当てにはならないけれど、お銀ちゃんとの噂が立っていますからね。」
「そんなこと嘘よ。全然嘘だわ。」銀子はあっさり否定した。
「そうお。そんなら私の方は願ったり叶《かな》ったりだけれど、旦那がよろしくやっているところへ、私がうっかり入って行ったら、変なものが出来あがってしまいますからね。」
「そんなことないわ。父さんにお神さんがないから、そんな噂も立つんでしょう。お師匠さんに来ていただければ、私も助かるわ。」
 師匠も銀子の口車に乗り、やがて大弓場を処分して、藤本へ入って来たのだったが、入れてみると、ちぐはぐの親父と、銀子の所思《おもわく》どおりに行かず、師匠の立場も香《かんば》しいものではなかった。親父と銀子は、時々師匠の前でもやり合い、声がはずんで露骨になり、人の好い師匠が驚いて、傍へ来て聴耳《ききみみ》を立てたりすると、親父は煩《うるさ》そうに、
「そこに何してるんだ。お前に用はない。あっちへ行っててくれ。」
 と慳貪《けんどん》に逐《お》っぱらわれ、彼女も度を失い、すごすご台所へ立って行くのであった。
 ちょうどそれと前後して、抱えの栄子が弁士の谷村天浪と深くなり、離れがあいていたところから、そこを二人の愛の巣に借りていたのて、藤本も人の出入りがしげくなり、若い弟子たちやファンの少女たちが頻繁《ひんぱん》に庭を往来し、そこに花やかな一つの雰囲気《ふんいき》が醸《かも》されていた。
「あんなの幸福な恋愛とでもいうのかしら。」
 銀子は思った。彼女は映画は飯より好きだったし、大学を中途で罷《や》めただけに、歴史の知識があり、説明に一調子かわったところのあるこの弁士にも好感はもてたが、その雰囲気に入るには、性格が孤独に過ぎ、冷やかな傍観者であった。
 何よりもせっかく入れた師匠に意地がなく、銀子の顔色をさえ見るというふうなので、世間への障壁にはなっても、銀子自身の守りにはならなかった。

      十八

 銀子はある暑い日の晩方、今そこの翫具屋《おもちゃや》で買ったばかりのセルロイドの風車を赤ん坊に見せながら、活動館の前に立って、絵看板を見ていると、栗栖の家の婆《ばあ》やがやって来て、銀子を探していたものと見え、今お宅へ行ったらお留守で、赤ちゃんを抱いているから、どこか近所にいるだろうというから見に来たが、
「あれ貴女《あなた》のお母さんですか。」
 と訊《き》くのだった。
「そうよ。」
「この赤ちゃんは。」
「私の赤ん坊よ。」
 銀子は笑談《じょうだん》を言ったが、正直な婆やはちょっと真《ま》に受け、「まさか」と顔を見比べて笑っていた。
 映画の絵看板は「裁《さば》かるるジャンヌ」であった。ドムレミイの村で母の傍で糸を紡《つむ》いでいたジャンヌ・ダークが、一旦天の啓示を受けると、信仰ぶかい彼女は自らを神から択《えら》ばれた救国の使徒と信じきり、男装して馬をオルレアンの敵陣に駆り入れるところや、教会の立場から彼女の意志を翻させようとするピエール・コオションの厳《きび》しい訊問《じんもん》を受けながら、素直にしかし敢然と屈しなかったこの神がかりの少女が、ついに火刑の煙に捲《ま》かれながら、「私の言葉
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