ゅ》に死なれ、姑《しゅうとめ》との折合いがわるくて、実家へ帰ったが、実家もすでに兄夫婦親子の世界で居辛《いづら》く、東京へ出て銀子の柳原の家に落ち着き、渋皮のむけた色白の、柄が悪くなかったので、下町の料亭《りょうてい》などに働き、女中|頭《がしら》も勤めて貯金も出来たところで、銀子の家と近所付き合いの小山へ縁づいたのであった。小山は日本橋のデパアト納めの子供服を専門に引き受けた。
「珍しいな。お前が出て来るなんて。どうだ変わったこともないか。」
 父親はそう言ってお茶をいれ、茶箪笥《ちゃだんす》をあけて、小皿にあった飴《あめ》を出した。
「あの人たちも働いてるな。」
 銀子は思った。芸者も辛いが、だらしない日々を送り、体に楽をしているのはすまないような気持だった。
「こないだ用があって、三里塚《さんりづか》へ行ってみたが、今年は寒かったせいか、桜がまだいくらかあったよ。今年は三里塚へお花見に行くなんて、時ちゃんたち言っていたけれど、あの雨だろう。」
「もう菖蒲《あやめ》だわ。」
 銀子は家へ来てみて一層|侘《わび》しくなり、逝《ゆ》く春の淡い悩みに浸された。
「何か話でもあったかい。」
 父親は心配そうに訊《き》いた。
「ううん。」
 銀子は胸につかえるものを感じ、そういって起《た》ちあがると、そっと二階へあがってみた。

      十三

 二階は上がり口が三畳で、押入れに置床のある次ぎの六畳に古い箪笥があり、父は敬神家とみえて天照皇大神の幅がかかっていた。東郷大将の石版刷も壁にかかっていたが、工場通いと学校通いと、四人の妹がここで学課の復習もすれば寝床も延べるのだった。
 銀子は物干へ出られる窓の硝子窓《ガラスまど》を半分開けて、廂間《ひさしあい》から淀《よど》んだ空を仰ぎ溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、夜店もののアネモネーや、桜草の鉢《はち》などがおいてある干場の竿《さお》に、襁褓《おしめ》がひらひらしているのが目についた。
 銀子はまだ赤ん坊の顔も見ず、母の妊娠していたことすら知らずにいたのだったが、なるほどそう言えば正月に受け取った時ちゃんの年始状の端に、また妹が一人|殖《ふ》えました、どうして家《うち》には男の子が出来ないんでしょうなどと書いてあったが、余所事《よそごと》のような気持で、嬉《うれ》しくも悲しくもなかった。柳原時代の前後、次ぎ次ぎに産まれる妹たちを脊中《せなか》に縛りつけられ、遠遊びをしたこともあったが、負ぶったまま庭の柘榴《ざくろ》の木に登り、手をかけた枝が析れて、弾《はず》みで下の泉水へどさりと堕《お》っこちたこともあった。
「大変だわ。」
 銀子は襁褓《おしめ》を見て、少しうんざりするのだったが、この小さい人たちだけは、一人も芸者にしたくないと思った。しかし妹たちの成行きがどうなろうと、これ以上の重荷は背負いきれそうもなく、やはり母の言うような、どうにか手足さえ伸ばせば、それでいいとしておくよりほかなかった。それにしても久しぶりで家庭の雰囲気《ふんいき》に触れ、結婚どころではないという気もするのだった。
 巣鴨から煎餅《せんべい》なぞもって帰って来た母親が、二階へ上がってみると、銀子は机に突っ伏して眠っていた。
「何だお前寝ているのか。眠かったらゆっくり寝ていれ、床しいてやろうか。」
 銀子はうとうとしたところだったが、ふと目をさまし、顔に圧《お》されていた手を擦《こす》っていた。
「あんばいでも悪くて来たのじゃないかい。」
「ううん、ただちょっとふらりと来てみたのさ。」
「そうかい、それならいいけれど……。」
 母は負ぶい紐《ひも》を釈《と》き、腕を伸ばしてにこにこ絣《かすり》の負ぶい絆纏《ばんてん》の襟《えり》を披《はだ》けて、
「お前これちょっと卸しておくれ、巣鴨まで行って来て肩が凝ってしまった。」
 そう言って脊《せ》なかを出され、銀子は少し伸びあがるようにして、赤ん坊を抱き取った。
「色黒いわね。いつ産まれたの。」
「お前んところのお母さんが亡くなるちょっと前だよ。」
 赤ん坊は眠り足らず、銀子の膝《ひざ》で泣面《べそ》をかき、ぐずぐず鼻を鳴らし口を歪《ゆが》めているので、銀子も面白く、どの赤ん坊もこうだったと、思い出すのだった。
「よし、よし。」
 銀子は無器用に抱きかかえ、起《た》ちあがって揺すってやったが、いよいよ渋面作り泣き出した。
「何だ、お前姉さんに抱っこして……。さあ、おっぱいやろう。腹がすいてるだろう。」
 母はそう言って赤児《あかご》を抱き取り、黝《くろ》ずんだ乳首を含ませながら、お産の話をしはじめた。銀子の時は産み落とすまで母は働き、いざ陣痛が来たとなると、産婆を呼びに行く間もなく、泡《あわ》を喰《く》った父が湯を沸かすのも待たなかった。次ぎもその次ぎも……。
「この子お父さん似だわ。」
「誰に似たか知らないけれど、この子は目が変だよ。ほかの子は一人もこんな目じゃなかったよ、みんな赤ん坊の時から蒼々《あおあお》した大きい目だったよ。この子の目だけは何だか雲がかかったようではっきりしないよ。おら何だか人間でないような気がするよ。」
「そうかしら。こんなうちは判んないわよ。」
 外は少し風が出て、硝子戸ががたがたした。するうち小さい妹が前後して、学校から帰って来た。みんなで下で煎餅を食べながら、お茶を呑《の》んだ。
「お銀姉ちゃん泊まって行くの。泊まって行くといいな。」
 大きい方が言った。
「泊まってなんか行くもんかよ。風が出たから早く帰んなきゃ。」
 母は帰りを促し気味であった。

      十四

 銀子は蟇口《がまぐち》から銀貨を出して妹に渡し、
「これお小遣《こづか》い、お分けなさい。」
 そう言って帰りかけたが、父は額に濡手拭《ぬれてぬぐい》を当て臥《ね》そべっており、母はくどくどと近所の噂《うわさ》をしはじめ、またしばらく腰を卸していた。父は仕事ができないし、怪我《けが》をしなくても、元来春先になると、頭が摺鉢《すりばち》をかぶったように鬱陶《うっとう》しくなるのが病気で、碧《あお》い天井の下にいさえすれば、せいせいするので、田舎《いなか》へ帰りたくもあったが、本格的な百姓の仕事はできもしないのであった。
 母親も今更住み馴《な》れた東京を離れたくはなかった。彼女はこの界隈《かいわい》でも、娘によって楽に暮らしている家のあることを知っていた。銀子とは大分時代の違う按摩《あんま》の娘は、この二三年二人とも上野の料亭《りょうてい》山下に女中奉公をしているうちに、亀井戸に待合を買ってもらったとか、貧乏なブリキ屋の娘が、テケツ・ガールから請負師の二号になり、赤ん坊を大した乳母車《うばぐるま》に載せて、公園を歩いていたとか。彼女はそれを銀子に望んでいるわけでもなく、むしろいくらか軽蔑《けいべつ》の意味で話しているのだったが、浮かびあがった親の身の上は、羨《うらや》ましくなくもなかった。
 父はルムペンかと思うような身装《みなり》も平気だが、母は軟《やわ》らかい羽織でも引っかけ、印台の金の指環《ゆびわ》など指に箝《は》めて、お詣《まい》りでもして歩きたいふうで、家の暮しも小楽らしく何かと取り繕い、芸者をしている娘から仕送ってもらっていることなどは、叭《おくび》にも出さなかった。
 やがて妹たちもめいめいの立場から、姉の身のうえを恥じ、学校でも勤め先でも、秘し隠しに隠さなくてはならないであろう。
 銀子は胸に滞っている当面の問題については、何にも話ができず、責任がまた一つ殖《ふ》えでもしたような感じで、母のお喋《しゃ》べりにまかれて家を出た。
 藤本へ還《かえ》ったのは、もう日の暮方近くで、芸者衆はようやく玄関わきの六畳で、鏡の前に肌ぬぎになりお化粧《つくり》をしていた。彼女たちの気分も近頃目立ってだらけていた。銀子のことを、そっちこっち吹聴《ふいちょう》して歩いたり、こそこそ朋輩《ほうばい》を突ついたり、銀子の手に余るので、どうせ一度は抱えの入替えもしなければと、親爺《おやじ》も言っているのだった。
 親爺は十畳で酒を呑んでいた。
「お前どこへ行ってた。」
「家へ行ったんだわ。」
「行くなら行くと言って行けばいい。お前お父さんに何か話しだろ。」
「別に何にも。」
「もっとこっちへおいで。」
 銀子は廊下の処《ところ》に跪《しゃが》んでいたが、内へ入って坐った。
「それじゃ何しに行ったんだ。」
「お父さんがぶらぶらしてると言うから、ちょっと行ってみたの。」
「どうせ己《おれ》も一度話に行こうとは思っているんだが、どういうふうにしたらいいと、お前は思う。」
「そうね。私にも解《わか》んないわ。お父さん仕事ができないで困っているの。それに赤ん坊が産まれたでしょう。私も事によったら、しばらく家へ帰っていようかと思ったんだけれど……それよりも、いっそ新規に出てみようかと、汽車のなかで考えて来たの。」
 芸者に口がかかり、箱が動きだしたので、話はそれきりになり、銀子は台所へ出て、自分の食事の仕度《したく》をした。彼女はわざと抱えと一つの食卓に坐ることにしていたが、芸者たちの居ない時は、親爺の酌《しゃく》をしながら、一緒に食べることもあった。抱えに悪智慧《わるぢえ》をつける婆《ばあ》やも、もういなくなり、銀子は仕込みをつかって、台所をしているのだったが、大抵のことは親爺《おやじ》が自身でやり、シャツ一枚になって、風呂場《ふろば》の掃除もするのだった。
 翌日親爺の磯貝は、銀子をつれて本所へ出かけて行った。彼は肴屋《さかなや》に蠑螺《さざえ》を一籠《ひとかご》誂《あつら》え、銀子を促した。
「何しに行くのよ。私は昨日行って来たばかしよ。」
 彼は剽軽《ひょうきん》な目を丸くした。
「あれーお前の話に行くのよ。おれ一人でも何だから一緒に行こう。」
 銀子は渋くった。この裏通りに一軒手頃な貸屋があり、今は鉄道の運輸の方の人が入っているが、少し手入れをすれば店にもなる。それが立ち退《の》き次第銀子の親たちを入れ、今一|棟《むね》、横の路次から入れる奥にも、静かな庭つきの二階家が一軒あり、それも明けさせて銀子が入り、月々の仕送りもするから、それに決めようと、親爺は昨夜も言っていたのだった。

      十五

 裏の家があき、トラックで荷物が運ばれたのは五月の初めで、銀子が潰《つぶ》しの島田に姐《ねえ》さん冠《かぶ》りをして、自分の入る家の掃除をしていると、一緒に乗って来た父が、脚にゲートルなぞ捲《ま》きつけてやって来た。――あの時本所の家では銀子が二階で赤ん坊をあやしているうちに、下で親父《おやじ》が両親を丸めこみ、出来たことなら仕方がないから本人さえ承知ならと父は折れ、母も少しは有難がるのだった。千葉から少し山手へ入ったところに逆上《のぼせ》に利く不動滝があり、そこへ詰めて通ったら、きっと頭が軽くなるだろうと親爺はそんなことも言っていた。
 軟禁の形で休業していた銀子も、その前後からまた蓋《ふた》を開け、気晴らしに好きな座敷へだけ出ることにしていたが、田舎《いなか》から帰って来た栗栖にもたまに逢《あ》うこともできた。
「帰って来た途端に、妙なことを聞いたんだが……。」
 一昨日帰ったばかりだという栗栖に、梅の家の奥の小座敷で逢った時、彼はビールを呑《の》みながら言い出した。病院の帰りで時間はまだ早かった。
 銀子はもう帰る時分だと、いつも思いながら、病院へ電話をかけてみても、まだ帰っていないと後味がわるいし、家《うち》へ訪ねて行っても同様に寂しいので、帰って来ればどこかへ来るだろうと、心待ちに待ち、電話の鈴が鳴るたびに胸が跳《おど》り、お座敷がかかるたびに、お客が誰だか箱丁《はこや》に聞くのだったが、親爺が見番の役員なので、二人を堰《せ》き止めるために、どんな機関《からくり》をしていないとも限らず、気が揉《も》めているのだった。しかし逢ってみると、一昨日帰ったばかりだというので、ほっとしたが、「随分遅かったわ」とも口へ出せずにいるところヘ、栗栖にそう言って目をじ
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