「ううん。」
銀子の牡丹は苦笑しながら、照れ隠しに部屋をあちこち動いていたが、風に吹かれる一茎の葦《あし》のように、繊弱《かよわ》い心は微《かす》かに戦《そよ》いでいた。
「どうも少し変だよ、君、何か心配事でもあるんじゃないの。商売上のこととか、親のこととか。」
栗栖はワイシャツを着ながら尋ねた。
銀子は何か頭脳《あたま》に物が一杯詰まっているような感じで、返辞もできずに、猫《ねこ》が飼主に粘《へば》りついているように、栗栖の周囲《まわり》を去らなかった。
「君何かあるんだろう。今夜僕に何か訴えに来たんじゃないのか。それだったら遠慮なく言う方がいいぜ。」
銀子は目に涙をためていたが、栗栖もちょっとてこずるくらい童蒙《どうもう》な表情をしていた。彼女は何ということなし、ただ人気のない遠い処《ところ》へ行きたいような気が漠然《ばくぜん》としていた。蒼《あお》い無限の海原《うなばら》が自分を吸い込もうとして蜿蜒《うねり》をうっている、それがまず目に浮かぶのであった。彼女は稲毛《いなげ》の料亭《りょうてい》にある宴会に呼ばれ、夜がふけてから、朋輩《ほうばい》と車を連ねて、暗い野道を帰って来たこともあったが、波の音が夢心地《ゆめごこち》の耳に通ったりして、酒の酔いが少しずつ消えて行く頭脳に、言い知らぬ侘《わび》しさが襲いかかり、死の幻想に浸るのだったが、そうした寂しさはこのごろの彼女の心に時々|這《は》い寄って来るのだった。
「すぐ帰って来るけれど、君はどうする。よかったら待っていたまえ。」
栗栖は仕度《したく》を調《ととの》え、部屋を出ようとして、優しく言った。
「私も帰るわ。」
そう言って一緒に外へ出たが、銀子は一丁ばかり黙ってついて来て、寂しいところへ来た時別れてしまった。
栗栖から離れると、銀子の心はにわかに崩折《くずお》れ、とぼとぼと元の道を歩いたのが、栗栖の門の前まで来ると、薄暗いところに茶の角袖《かくそで》の外套《がいとう》に、鳥打をかぶった親爺の磯貝《いそがい》が立っているのに出逢《であ》い、はっとしたが、彼はつかつかと寄って来て、いきなり腕の痺《しび》れるほどしっかり掴《つか》み、物もいわずにぐいぐい引っ張って行くので、銀子も力一杯に振り釈《ほど》き、すたすたと駈《か》け出して裏通りづたいに家《うち》へ帰って来た。
銀子は少し我慢さえすれば、親爺は何でも言うことを聞いてくれ、小遣《こづか》いもつかえば映画も見て、わがままなその日が送れるので、うかうかと昼の時間を暮らすこともあり、あまり収入のよくない朋輩に、大束に小遣いをやってみたり、少し気分がわるいと見ると、座敷を勝手に断わらせもした。銀子は狡《ずる》いところもないので、親爺も大概のことは大目に見て、帳面をさせてみたり、金の出入りを任せたりしていたので、銀子も主婦気取りで、簿記台に坐りこみ、帳合いをしてみることもあった。東京の親へ金を送ることも忘れなかった。
銀子の父親はちょうどそのころ、田舎《いなか》に婚礼があり帰っていたが、またしても利根《とね》の河原《かわら》で馬を駆り、石に躓《つまず》いて馬が前※[#「※」は「足+「倍」のつくり」、第3水準1−92−37、385−上23]《まえのめ》りに倒れると同時に前方へ投げ出され、したたか頭を石塊《いしころ》に打ちつけ、そのまま気絶したきり、しばらく昏睡《こんすい》状患で横たわっていたが、見知りの村の衆に発見され、報告《しらせ》によって弟や甥《おい》が駈《か》けつけ、負《しょ》って弟の家まで運んで来たのだったが、顔も石にひどく擦《こす》られたと見え、※[#「※」は「骨+「權」のつくり」、385−下3]骨《けんこつ》から頬《ほお》へかけて、肉が爛《ただ》れ血塗《ちまみ》れになっていた。銀子もその出来事は妹のたどたどしい手紙で知っていたが、親爺に話して見舞の金は送ったけれど、かえって懲りていいくらいに思っていた。
銀子はわがままが利くようになったので、一つのことを拒みつづけながらも、時には不覚を取ることもあり、彼女の体も目立つほど大人《おとな》になって来た。
「お前のような教育のない者が、ああいう学者の奥さんになったところて、巧く行く道理がない。この商売の女は、とかく堅気を憧《あこ》がれるんだが、大抵は飽かれるか、つまらなくなって、元の古巣へ舞い戻って来るのが落ちだよ。悪いことは言わないから、家《うち》にじっとしていな。」
そんなことも始終親爺にいわれ、それもそうかとも思うのだった。
十一
三月のある日、藤本の庭では、十畳の廊下外の廂《ひさし》の下の、井戸の処《ところ》にある豊後梅《ぶんごうめ》も、黄色く煤《すす》けて散り、離れの袖垣《そでがき》の臘梅《ろうばい》の黄色い絹糸をくくったような花も、いつとはなし腐ってしまい、椎《しい》の木に銀鼠色《ぎんねずいろ》の嫩葉《わかば》が、一面に簇生《そうせい》して来た。人気《ひとけ》のない時は、藪鶯《やぶうぐいす》が木の間を飛んでいたりして今まで自然の移りかわりなどに関心を持とうともしなかった銀子も、栗栖の時々書いて見せる俳句とかいうものも、こういうところを詠《よ》むのかいなと、ぼんやり思ってみたりして、この家も自分のものか借家なのか、訊《き》いてみたこともなかったけれど、来たてに台所と風呂場《ふろば》の手入れをしたりしていたところから見ると、借家ではなさそうでもあった。それに金ぴかの仏壇、槻《けやき》の如輪目《じょりんもく》の大きな長火鉢《ながひばち》、二|棹《さお》の箪笥《たんす》など調度も調《ととの》っていた。磯貝は見番の役員で、北海道では株屋であったが、ここでは同業者へ金の融通もするらしかったが、酒とあの一つのことにこだわりさえしなければ、好意のもてなくもない普通の人間で、銀子も虚心に見直す瞬間もあるのだった。死んだマダムもこの親爺《おやじ》も両親は土佐の士族で、産まれは悪くもなかった。
「これが自分のものになるのかしら。」
銀子も淡い慾がないわけでもなかったが、それも棒が吭《のど》へ閊《つか》えたようで、気恥ずかしい感じだった。
ある日も親爺が見番で将棋を差している隙《すき》に、裏通りをまわって栗栖の家の門を開けた。栗栖はちょうど瓶《かめ》に生かったチュリップを、一生懸命描いているところだったが、
「お銀ちゃんか。どうしたい。しばらく来なかったね。」
栗栖はパレットを離さず、刷毛《はけ》でちょいちょい絵具を塗っていた。
銀子は休業届を出し、ずっと退《の》いていたので、栗栖は座敷では逢《あ》うこともできなかったが、銀子も少し気の引けるところもあって、前ほどちょいちょい来はしなかった。やがて彼はパレットを仕舞い、画架も縁側へ持ち出して、古い診察着で間に合わしている仕事着もぬいで、手を洗いに行って来ると、
「ちょうどいいところへ来た。田舎《いなか》から大きな蟹《かに》が届いたんだ。」
栗栖は福井の産まれで、父も郡部で開業しており、山や田地もあって、裕福な村医なのだが、その先代の昔は緒方洪庵《おがたこうあん》の塾《じゅく》に学んだこともある関係から、橋本左内の書翰《しょかん》などももっていた。
「そんな画《え》お金になるの。」
「そんな画とは失礼だね。これでも本格的な芸術品だよ。技術はとにかくとしてさ。」
洋楽のレコオドを二三枚かけ、このごろ栗栖が帝劇で見た、イタリイの歌劇の話などしているうちに、食事ができ、銀子が見たこともない茨蟹《いばらがに》の脚の切ったのや、甲羅《こうら》の中味の削《そ》いだのに、葡萄酒《ぶどうしゅ》なども出て、食べ方を教わったりした。銀子は栗栖の顔をちょいちょい見ながら、楽しそうにしていたが、栗栖がちらちら結婚の話に触れるので、蟹の味もわからなかった。
「来月になると、休暇を貰《もら》って田舎へ行って来るよ。親爺は田舎へ帰って来いと言うんだけれど、僕もそんな気はしないね。」
「遠いの? どのくらい?」
「遠いさ。君も一度はつれて行くよ。実はその話もあるしね。」
銀子は頷《うなず》いていたが、やっぱり自分も大胆な嘘吐《うそつ》きなのかしらと、空恐ろしくもあった。
「しかしいつかの晩ね、僕も三年がかりで、聞いてみようと思いながら、まだ訊かなかったけれど、あの晩は何だかよほど変だったね。」
「そうお。」
「まさか毒薬を捜していたわけじゃないだろうね。」
「そうじゃないの。」
銀子は打ち明けて相談したら、何とか好い解決の方法があるかも知れず、独りで苦しんでいるより、その方が腫物《はれもの》を切開して膿《うみ》を出したようで、さっぱりするかも知れないと、そう思わないこともなかったが、それを口へ出すのは辛《つら》かった。死んでも言うものかと、そんな反抗的な気持すら起こるのだった。人に謝罪《あやま》ったり、哀れみを乞《こ》うたりすることも、彼女の性格としては、とても我慢のならないことであった。痩《や》せ我慢とは思いつつも、彼女には上州ものの血が流れていた。不断は素直な彼女であったが、何か険しいものが潜んでいた。
栗栖も追窮しはしなかった。
十二
四月になってから、栗栖は郷里へ帰省し、妹が一人いると言うので、銀子は花模様の七珍《しっちん》の表のついた草履《ぞうり》を荷物の中に入れてやったが、駅まで送って、一緒に乗ってしまえば、否応《いやおう》なしに行けるのにと思ったりした。
しかし自分の取るべき方嚮《ほうこう》について、親たちに相談しようというはっきりした考えもなかったし、話してみてもお前の好いようにと言うに決まっているのだったが、何となし家《うち》を見たいような気がして、一と思いに乗ってしまった。
「私お父さん怪我《けが》しているのに、一遍も見舞に行かないから、急に行きたくなって。」
「そうか。君の家はどこだい。」
「錦糸堀なの。」
「商売でもしているの?」
「そう。靴屋。」
「靴屋か、ちっとも知らなかった。」
「私だって靴縫うのよ。年季入れたんですもの。」
「君が。女で? 異《かわ》ってるね。」
「東京に二人いるわ。」
「お父さんの怪我は?」
「馬から落ちたの。お父さんは馬マニヤなの。いい種馬にかけて、仔馬《こうま》から育てて競馬に出そうというんだけれど、一度も成功したことないわ。何しろ子供はどうなっても馬の方が可愛《かわい》いんだそうだから。」
「靴が本職で馬が道楽か。けどあまり親に注《つ》ぎこむのも考えものだね。」
そのうち綿糸堀へ来たので、銀子はおりてしばらく窓際《まどぎわ》に立っていた。このころ銀子の家族は柳原からここへ移り、店も手狭に寂しくなっていた。しかし製品は体裁よりも丈夫一方で、この界隈《かいわい》の工場から、小松川、市川あたりへかけての旦那衆《だんなしゅう》には、親爺《おやじ》の靴に限るという向きもあって、註文《ちゅうもん》は多いのであった。靴紐《くつひも》や靴墨、刷毛《はけ》が店頭の前通りに駢《なら》び、棚《たな》に製品がぱらりと飾ってあったが、父親はまだ繃帯《ほうたい》も取れず、土間の仕事場で靴の底をつけていた。
「もういいの。」
「ああお前か。まだよかないけれど、註文の間に合わそうと思って、今日初めてやりかけの仕事にかかってみたんだが、少し詰めてやるてえと、頭がずきんずきん痛むんでかなわねえ。」
内を覗《のぞ》いてみると、あいにく誰もいなかった。
「誰もいないの。」
「お母さんは巣鴨《すがも》の刺《とげ》ぬき地蔵へ行った。お御符《ごふ》でも貰《もら》って来るんだろう。」
父親はそう言って仕事場を離れ、火鉢《ひばち》の傍《そば》へ上がって来た。
「時ちゃんや光《みっ》ちゃんは?」
「時ちゃんたちは、小山の叔母《おば》さんとこへ通ってる。あすこも大きくしたでね。」
小山の叔母さんというのは、母親が十三までかかっていた本家の娘の市子のことであった。市子はその時分|日蔭者《ひかげもの》の母親が羨《うらや》ましがったほど幸福ではなく、縁づいた亭主《ていし
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