たりするのだったが、その理由は解《わか》らず、何となし兄さんのような感じがするのだった。昨夜も若い同僚たちに揶揄《からか》われ、酒を強いられ、わざとがぶがぶ呑んで逃げて来たのだった。
 栗栖は十畳の主人の帳場で、マダムの容態を説明し、入院の話をしていた。
「何しろお宅も忙しいから、とても手が届かないでしょう。つい自分で起《た》ったり何かするのがいけないんです。」
 親爺もそれに同意していたが、昨夜の銀子の話もしていた。
 この家《うち》には六人の抱えがあり、浜龍《はまりゅう》という看板借りの姐《ねえ》さんと銀子が、一番忙しい方だった。浜龍は東金《とうがね》の姉娘の養女で、東京の蠣殻町《かきがらちょう》育ちだったが、ちょっと下脹《しもぶく》れの瓜実顔《うりざねがお》で、上脊《うわぜい》もあり、きっそりした好い芸者だった。東金で仕込まれたが、柄がいいのでみすみす田舎《いなか》芸者にするのが惜しまれ、新橋の森川家へあずけて、みっちり仕込んでもらっただけに芸でも負《ひ》けは取らなかった。長唄《ながうた》のお浚《さら》いにかかると、一時に五六番から十番も弾《ひ》きつづけて倦《う》むことを知らなかったが、宴会の席で浦島などを踊っても、水際《みずぎわ》だった鮮かさがあった。出たてには銀子の牡丹も、自分の座敷へ呼んでくれた。
「今日牡丹ちゃん呼んであげるわ。余計なこと喋《しゃ》べらないことよ、そしてちゃかちゃかしないで落ち着いているのよ。」
 彼女は少しそそっかしい銀子に言うのであった。
 銀子が行ってみると、それは小山という六十年輩の土地の弁護士で、浜龍のペトロンであった。銀子はお酌《しゃく》をしたり、銚子《ちょうし》を取りに行ったり、別にすることもなかったが、余計なことを封じられたのは、浜龍にはこのほかにも一人材木屋のペトロンがあり弁護士のことも承知の上なので、昼間来て晩方引き揚げるのだったが、この男が帰ると彼女はいつも貰《もら》ったお札《さつ》の勘定をするのだった。
 養女で看板借りなので、ほかの抱えと一緒の部屋には寝ないで、離れの一|棟《むね》を占領していたが、食事の時もみんなと一つの食卓には就《つ》かず、ちょっとした炊事場も離れについていたので、そこで自分だけの好きなものを拵《こしら》えたり、通りの洋食や天麩羅《てんぷら》を取り寄せたりして、気儘《きまま》に贅沢《ぜいたく》に暮らしていた。
 材木問屋はこの離れへ来ても、ビールでも呑《の》んで帰るくらいで、外で呼ぶことになっていたが、長いあいだ月々世話になっている弁護士の来る日は二階を綺麗《きれい》に掃除させ、桐《きり》の丸火鉢《まるひばち》に火を起こし、鉄瓶《てつびん》の湯を沸《たぎ》らせたりして、待遇するのだった。

      八

 浜龍は材木屋の座敷から帰って来ると、座敷着もぬがず、よくお札の勘定をしていたものだが、驚くことにはそれが銀子のまだ手にしたこともない幾枚かの百円札であったりした。彼女は弁護士からもらう月々のものを大体家へ入れ、材木屋から搾《しぼ》る臨時《ふり》のものを、呉服屋や貴金属屋や三味線屋などの払いに当て、貯金もしているらしかったが、どこか感触に冷たいところがあり、銀子がお札を勘定しているところを覗《のぞ》いたりすると、いやな顔をして、
「いやな人ね、人のお金なんぞ覗くもんじゃないわよ。そっちへ行ってらっしゃい。」
 などと邪慳《じゃけん》な口の利き方をした。
 この姐《ねえ》さんは年ももう二十一だし、美しくもあり芸もあるが、腕も凄《すご》いのだと銀子は思うのだったが、どうすれば腕が凄くなるのか、想像もつかなかった。
 抱えの大半が東京産まれだったが、そのころは世界戦後の好況がまだ後を引き、四時が鳴ると芸者は全部出払い、入れば入ったきり一つ座敷で後口もなく、十二時にもなると揃《そろ》って引き揚げ、月に一度もあるかなしの泊りは、町はずれの遊廓《ゆうかく》へしけ込む時に限るのだった。
 翌日の午後マダムは寝台車で病院へ運ばれ、お気に入りの銀子もついて行ったのだったが、病室に落ち着いてからも、忙《せわ》しい呼吸をするたびに、大きい鼻の穴が一層大きく拡《ひろ》がり、苦しそうであった。その日も銀子は、一昨日《おととい》の晩のことが夢のように頭脳《あたま》に残り、親爺《おやじ》と顔を合わすのがいやでならなかったが、彼は何とか言っては側へ呼びつけたがり、銀子が反抗すると刃物を持ち出して、飼犬に投げつけたり、抱えたちの床を敷くと、下座敷は一杯で、銀子は一人の仕込みと二階に寝かされることになっていたが、ひどく酔って帰って来る晩もあって、ふと夜更《よふ》けに目がさめてみて、また失敗《しま》ったと後悔もし、憤りの涙も滾《こぼ》れるのだった。
 しばらくすると、銀子のむっちりした愛らしい指に、サハイヤやオパルの指環《ゆびわ》が、にわかに光り出し、錦紗《きんしゃ》の着物も幾枚か殖《ふ》えた。座敷がかかっても、気の向かない時は勝手に断わり、親爺に酌をさせられるのがいやさに、映画館でたっぷり時間を潰《つぶ》したりしたが、ある時は子供を折檻《せっかん》するように蒲団《ふとん》にくるくる捲《ま》かれて、酒を呑んでいる傍《そば》に転《ころ》がされたりした。
 そのころになると、銀子と栗栖の距離も、だんだん近くなり、マダムを見舞った帰りなどに、一緒に映画を見に入ることもあり、お茶を呑むこともあった。映画は無声で、イタリイの伝記物などが多く、ドイツ物もあった。栗栖はドイツ物のタイトルを読むのが敏《はや》く、詳しい説明をして聞かせるのだったが、映画に限らず、この若いドクトルの知識と趣味は驚くほど広く、油絵も描けば小説も作るのであった。
 病院でも文学青年が幾人かおり、寄ると触《さわ》ると外国の作品や現代日本の作家の批評をしたり、めいめい作品を持ち寄ったりもして、熱をあげていた。
「お銀ちゃん栗栖君を何と思ってるんだい。あれはなかなか偉いんだよ。小説を書かせたって、このごろの駈出《かけだ》しの作家|跣足《はだし》だぜ。」
 同僚のあるものは蔭《かげ》で言っていたが、それも盲目の銀子に栗栖の価値を知らせるためだったが、銀子は一般の芸者並みに客として見る場合、男性はやはり一つの異性的存在で、細かい差別は分からなかったが、四街道《よつかいどう》、習志野《ならしの》、下志津《しもしづ》などから来る若い将校や、たまには商用で東京から来る商人、または官庁の役人などと違って、こうした科学者には、何か芸者に対する感じにも繊細なところがある代りに、気むずかしさもあるように思えた。それに栗栖の態度には、どうかすると銀子を教育するような心持があり、何だと思うこともあった。
 暮はひどくあわただしかった。マダムが病院から死骸《なきがら》で帰り、葬式《とむらい》を出すのとほとんど同時に、前からそんな気配のあった浜龍が、ちょうど大森へ移転する芸者屋の看板を買って、披露目《ひろめ》をすることになり、家《うち》がげっそり寂しくなってしまった。
 銀子も暮から春へかけて、感冒にかかり扁桃腺《へんとうせん》を脹《は》らして寝たり起きたりしていたが、親爺《おやじ》の親切な介抱にも彼女の憎悪は募り、ある晩わざと家をぬけ出して、ふらふらと栗栖の家の前まで来た。

      九

 栗栖は隅《すみ》に椅子《いす》卓子《テイブル》などを置いてある八畳の日本|室《ま》で、ドイツ語の医学書を読んでいたが、銀子の牡丹がふらふらと入って来るのを見ると、見られては悪いものか何ぞのように、ぴたりと閉じた。銀子は咽喉《のど》に湿布をして、右の顎骨《あごぼね》あたりの肉が、まだいくらか腫《は》れているように見えたが、目にも潤《うる》みをもっていた。そして「今晩は」ともいわず、ぐったり壁際《かべぎわ》の長椅子にかけた。
「どうしたんだい、今ごろ。」
「夜風に当たっちゃいけないんだよ。」
 銀子は頷《うなず》いていたが、栗栖は診《み》てやろうと言って、反射鏡などかけ、銀子を椅子にかけさせて咽喉を覗《のぞ》いたりしたが、ルゴールも塗った。銀子は、親爺が栗栖を忌避して、別の医者にかかっていた。
「含嗽《うがい》してるの。」
「してるわ。」
「今夜は何かあったのかい。変じゃないか。」
 栗栖はテイブルの前の回転椅子をこっちへまわし、煙草《たばこ》にマッチを摺《す》った。
「ううん。」
 婆《ばあ》やは蜜柑《みかん》と紅茶をもって来て、喫茶台のうえに置いて行ったが、
「蜜柑はよくないが、少しぐらいいいだろう。」
「そうお。」
 銀子も栗栖も紅茶を掻《か》き廻していたが、彼は銀子の顔を見ながら、
「君も十七になったわけだね。」
「十七だか十八だか、私月足らずの十一月生まれだから。」
「ふむ、そうなのか。それにしてはいい体してるじゃないか。僕も一度君を描《か》いてみたいと思っているんだが、典型的なモデルだね。」
「そうかしら。」
「それに芸者らしいところ少しもないね。」
「芸者|嫌《きら》いよ。」
「嫌いなのどうしてなったんだ。親のためか。大抵そう言うけれど、君は娼婦型《しょうふがた》でないから、それはそうだろう。」
 栗栖は間をおいて、
「いつか聞こうと思ってたんだけれど、一体前借はいくらくらいあるの。」
 栗栖は言いにくそうに、初めて当たってみるのだったが、銀子はマダムの初七日も済んだか済まぬに、ちょっとその相談を受け、渾身《みうち》の熱くなるのを覚えた。栗栖が少し酒気を帯びていたので、銀子も揶揄《からか》われているような気がしながら、ただ「いいわ」と言ったのであった。そしてそれから一層親爺に反抗的な態度を取るようになった。
 ある晩なぞ枕頭《まくらもと》においた栗栖の写真を見て、彼はいきなりずたずたに引き裂き、銀子の島田を※[#「※」は「てへん+劣」、第3水準1−84−77、383−下8]《むし》ったりした。
 マダムは死際《しにぎわ》に、浜龍にはどうせ好い相手があって、家を出るだろうから、銀子は年も行かないから無理かも知らないけど、気心がよく解《わか》っているから、マダムの後釜《あとがま》になって、商売を受け継ぐようにと、そんな意味のことも洩《も》らしていた。その時になると、マダムは死後のことが気にかかり、栗栖のことは口へ出しもしないのだった。この社会に有りがちのことでもあり、親や妹たちもいるので、銀子もよほど目を瞑《つぶ》ろうと思うこともあったが、脂肪質の顔を見るのも※[#「※」は「さんずい+垂」、383−下17]液《むしず》が走るようで、やはり素直にはなれないのだった。出たてのころ目につくのは、大抵若いのっぺりした男なのだが、鳥居の数が重なるにつれ、若造では喰《く》い足りなくなり、莫迦々々《ばかばか》しい感じのするのが、彼女たちの早熟の悲哀であった。しかし銀子はまだぴちぴちしていた。
「失敬なことを訊《き》いてすまないけれど、やはり現実の問題となるとね。」
 銀子は黙っているので栗栖は追加した。
「いくらでもないわ。」
「…………。」
「千円が少し切れるぐらいだと思うわ。それに違約の期限が過ぎているから、親元身受けだったら、落籍《ひき》祝いなんかしなくたっていいのよ。」
「じゃ、それだけ払ったら、君僕んとこへ来るね。よし安心したまえ。」
 銀子は事もなげに領いたが、何か大きな矛盾がにわかに胸に乗しかかって来て、瞬間弱い頭がぐらぐらするのだった。今夜もまた自暴酒《やけざけ》を呷《あお》っているであろう、獣のような親爺《おやじ》の顔も目に浮かんで来た。
 急患があり、病院から小使が呼びに来たので栗栖は玄関へ出て行ったが、部屋へ帰ってみると、銀子が薬棚《くすりだな》の前に立って、うろうろ中を覗《のぞ》いていた。

      十

「おい、そんな処《ところ》に立って、何を覗いていたんだい。その中には劇薬もあるんだぞ。」
 栗栖は仄《ほの》かな六感が働き、まさかとは思ったが、いわば小娘の銀子なので、その心理状態は測りかね、窘《たしな》めるように言った。
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