か》ったわ。」
 しかし銀子の母親には、結核体質らしいところが少しもないばかりか、あの白皙《はくせき》人型の越後系のがっしりした、均齊《きんせい》のよく取れた骨格で、性格にも恪勤《かっきん》とか忍耐とか、どんな困難に遭遇しても撓《たわ》まない強靱《きょうじん》さがあり、家を外にして飛び歩きがちな放浪癖の父親と反対に辛抱づよく、世帯《しょたい》の切盛りに忠実であった。父親が馬の年なら彼女はきっと牛で、彼は気の荒い駄々ッ児《こ》なかわりに人情っぽい人のよさがあり、彼女は何かと人の世話を焼きたがる一面、女らしい涙|脆《もろ》さはなく、多勢の子供だから一人や二人は死んでも、生きるためにはしかたがないといったふうだった。
 父や兄弟が肺病で死に、母が油を商っていたところから、ある時|過《あやま》ってランプの火が油壺《あぶらつぼ》に移り、大火傷《おおやけど》をしたのが原因で、これも死んでしまってから、独り取り残された彼女は、親類へ預けられることになった。
「それが小山の叔母《おば》さんの家《うち》よ。」
 銀子の家庭と今におき絡《から》み合いのある、小山の叔母さんも、そのころはまだ銀子の母より二つ三つ年下の娘であった。

      五

 三つの時|孤児《みなしご》になり、庄屋《しょうや》であった本家に引き取られた銀子の母親も、いつか十五の春を迎え、子供の手に余る野良《のら》仕事もさせられれば、織機台《はただい》にも乗せられ、同じ年頃の家の娘とのあいだに愛情や待遇の差別があり、絶えず冷たい目で追い廻されている辛《つら》さが、ようやく小さい胸に滲《し》み込んで来たところで、彼女はある時村の脱出組に加わり、息苦しいこの村を脱け出たのであった。
 ここは油屋が一軒、豆腐屋が一軒、機織工《はたおりこう》七分に農民が三分という、物質には恵まれない寒村で、一生ほとんど給銀もなしに酷使《こきつか》われる若い男女は、日頃ひそかに二銭三銭と貯蓄して、春秋二期の恒例になっている、この村脱けに参加し、他国へ移動するのであった。一行は十二人、毎年それを仕事にしているリーダアが一人つくのであった。十五六から二十《はたち》、二十四五の男女もあった。彼らは寄り寄り秘密に相語らい、監獄部屋でも脱出するような気持で、昼は人気のない野山に寝て、夜になるのを待って道のない難路を歩み、五昼夜もかかって三国峠《みくにとうげ》を越え、ようやく上州路へ辿《たど》りつくのだったが、時には暗夜に樵夫《きこり》の野宿しているのに出逢《であ》い、年少の彼女は胸を戦《わなな》かせた。案内者は味噌《みそ》の入った握飯を、行く先々で用意し、餓《う》えを凌《しの》ぐのだったが、そこまで来るともう安心で、前橋へ入って来たところで、彼は各自の希望を訊《き》き、ここに留《とど》まるものは、この町の桂庵《けいあん》に引き渡し、東京を希望のものは、また上野まで連れて行くことになっていた。
 銀子の母は、手堅い家で給銀の出る処《ところ》という希望だったので、一軒の真綿屋へ落ち着くことになり、やっとほっとした。気強く生まれついていたので、なまじい互いに知り合った村で、惨《みじ》めな姿を見られているよりも、見ず知らずの他国の方がずっと自由であり、初めて働き効《がい》のあるような気がするのであった。
 真綿は繭《まゆ》を曹達《ソーダ》でくたくた煮て緒《いとぐち》を撈《さぐ》り、水に晒《さら》して蛹《さなぎ》を取り棄《す》てたものを、板に熨《の》して拡《ひろ》げるのだったが、彼女は唄《うた》一つ歌わず青春の甘い夢もなく、脇目《わきめ》もふらず働いているうちに、野山に幾度かの春が来たり秋がおとずれて、やがて二十三にもなった。彼女の肉体は熟《みの》り、真白の皮膚は硬《かた》く張り切り、ぽったりした頬《ほお》は林檎《りんご》のように紅《あか》かった。
 銀子の父親はちょうどその時分、やくざの世渡りを清算し、同じやくざ仲間で、いくらか目先の見える男が、東京で製靴《せいか》の仕事で、時代の新しい生活を切り開き、露助《ろすけ》向けの靴の輸出を盛大にやっていたのを手寄《たよ》り、そこでその仕事をおぼえ、田舎《いなか》へ帰って小さな店をもっていた。同じ真綿工場の持主であった彼の嫂《あによめ》は、不断銀子の母親の働きぶりを見ていたので、その眼鏡に※[#「※」は「りっしんべん+「篋」から「竹」を除いた形」、第3水準1−84−56、377−上14]《かな》い、彼を落ち着かせるために、彼女を娶《めあわ》せた。
 しかしこの結婚も甘美とは行かず、半年もたたぬうちに彼の前生活について、そっちこちで悪い噂《うわさ》が耳に入り、そのうち放浪時代から付き絡《まと》っていた、茨城《いばらき》生まれの情婦が現われたりして、彼女が十年働いて溜《た》めた貯金も、あらかたその手切れに引き取《だ》されてしまった。彼女は一度は目が覚《さ》め、別れようと決心したが、その時はすでに遅く、銀子が腹へ出来ていた。
 銀子がこの世の光に目を開いてから五月目に、彼はまた店を仕舞い、妻子をつれて上京し、柳橋に知合いの株屋があったので、そこの二階で行李《こうり》を釈《と》き、九段の輸出商会へと通いはじめた。やがて彼も遺産の田地もいくらか残っていたので、それを金にして、柳原で店を拡《ひろ》げることになったのだったが、もう十四にもなった銀子が、蔵前のある靴工場へ通い、靴製造の職を仕込まれた時分には、子供も殖《ふ》え、彼も怪我《けが》をして、小僧と職工を四五人つかっていた、柳原の店も寂れがちであった。
 銀子が芸者屋をいやがり、手に職を覚えるつもりで、靴の徒弟に住みこんだのは、ちょうど蔵前の大きな靴屋で、そのころハイカラな商売とされた斯界《しかい》の先達《せんだつ》であり、その商売に転向した多勢の佐倉藩士の一人で、夫人も横浜の女学校出のクリスチャンであり、一つ女の職人を仕立てるのも面白かろうと引き受けてくれた。

      六

 銀子はクリスチャンであったその家庭で日常を躾《しつ》けられ、多勢の兄弟子に交じって、皮を裁つことや縫うことを覚え、間もなく手間賃をもらい、家の暮しを助けることができたが、やがて彼女の細腕では持ちきれない時が来た。
 やがて皮削《かわそ》ぎ庖丁《ぼうちょう》や縫針で、胼胝《たこ》の出来た手で、鼓や太鼓の撥《ばち》をもち、踊りも、梅にも春や藤娘、お座敷を間に合わせるくらいに仕込まれた。銀子は撫《な》で肩の肩が少し厚ぼったく、上背《うわぜい》もなかったが顔は彼女の型なりに完成美に近く、目も美しく、鼻も覗《のぞ》き気味で尋常であった。鼻の下の詰まったところにも意気味があった。
 銀子はもとちょっと居た人形町の家《うち》へも行きづらく、その土地で人に顔を見られるのもいやで、今度はあらためて河岸《かし》をかえ、体が楽だという触れ込みのある千葉の蓮池《はすいけ》から出ることにしたのであった。
 蓮池の埋立てだという蓮池の花街は、駅から二丁ばかり行った通りにあった。その辺には洋食屋やカフエ、映画館などもあり、殷賑《いんしん》地帯で、芸者の数も今銀子のいる東京のこの土地と乙甲《おつかつ》で、旅館料理屋兼業の大きい出先に、料亭《りょうてい》も幾つかあった。
 銀子の出たのは、藤本《ふじもと》という、土地では看板の古い家で、通りから少し入り込んだ路次の一軒建てであったが、下の広々した玄関の上がり口の奥に、十畳の部屋があり、簿記台や長火鉢《ながひばち》、電話も廊下につけてあり、玄関|脇《わき》の六畳と次ぎの八畳とで、方形を成した二階屋であったが、庭づたいに行ける離れの一|棟《むね》も二階建てであった。周囲は垣根《かきね》で仕切られ、庭もゆっくり取ってあった。のんびりした家の気分が目見えに行った途端、すっかり銀子の気に入ってしまったのだったが、主人の方でもいくらか、他の抱え並みには見なかった。
 主人は夫婦とも北海道産まれで、病気で奥の八畳に寝ている主婦の方が、五つ六つも年嵩《としかさ》の、四十六七にもなったらしく、髪も六分通りは白く、顔もうじゃじゃけていたけれど、笑い顔に優しみがにじみ、言葉は東京弁そっくりで、この稼業《かぎょう》の人にしては、お品がよかった。前身は解《わか》らなかったが、柔道家の娘だという噂《うわさ》を、抱えの姐《ねえ》さんがしているのは真実《ほんとう》らしく、丈夫の時には、呑助《のみすけ》の親爺《おやじ》が大々した体を小柄の女房に取って組み敷かれたという笑い話もあった。病気は腎臓《じんぞう》に神経痛で、気象のはっきりした銀子が気に入り、肩や腰を擦《さす》らせたりして、小遣《こづか》いをくれたり、菓子を食べさせたりした。
 彼女の話によると、養女が二人あり、みんな大きくなって、年上の方は東京の方で、この商売に取りついており、抱えも五人あって、調子が悪くないというのだったが、下の方もこれもこの土地での評判の美人で、落籍《ひか》されて、東京で勤め人の奥さんで納まっており、子供も三人あるのだった。
「私もこんな病気だもんだからね。あの人たちもいつ死ぬかと思って、少しばかりのものを目当てに時々様子を見て来るのさ。苦労して大きくしてやっても、つまらないものさ。」
 親爺はいつも酒くさい口をしていた。近所の酒場やおでんやでも呑むが、家でも朝から呑んだ。銀子はここでは牡丹《ぼたん》というので出たが、彼はいつもぼた公ぼた公と呼び、お座敷のない時はお酌《しゃく》をさせられた。目のくりくりした丸顔で、玉も撞《つ》くし映画も見るが、浪曲は何よりも好きで、機嫌《きげん》のいい時は楽燕《らくえん》張りの節廻しで、独りで南部坂を唸《うな》ったりしていた。
 銀子は秋に披露目《ひろめ》をしたのだったが、姐さんたちに引き廻されているうちに、少しずつ座敷の様子がわかり、客の取做《とりな》しもこなれて来て、座敷は忙しい方だったが、ある晩医専の連中に呼ばれて、もう冬の寒い時だったので、狐拳《きつねけん》で負けるたびに、帯留め、帯揚げ、帯と一枚々々|剥《は》がされ、次ぎには罰杯のコップ酒を強《し》いられ、正体もなくへとへとに酔って帰ったことがあったが、家の閾《しきい》を跨《また》ぐ途端一度に酔いが発して、上がり口の廊下に崩れてしまった。
 やがて銀子は親爺の両手に抱かれ、二階の四畳に寝かされたが、翌朝目がさめても、座敷を貰《もら》った後のことは、何一つ覚えがなかった。

      七

 朝目のさめた銀子の牡丹は、頭脳《あたま》の蕊《しん》がしんしん痛んだ。三味線《しゃみせん》に囃《はや》されてちょんぬけをやり、裸になる代りに酒を呑まされ、ヘベれけになって座敷を出たまでは覚えているが、帰ってから二階で親爺に介抱されたような気もするが、あのくりくりした目で見ていられたようにも思われ、それが幻覚であったようにも思われた。少し吐いたとみえて、嗽《うが》い茶碗《ぢゃわん》や濡手拭《ぬれてぬぐい》が丸盆の上にあった。
 昼少し過ぎに、マダムの容態に何か変化が来たのか、昨夜呼ばれた連中の一人である栗栖《くるす》という医学士が来ていた。栗栖は銀子の仕込み時代から何となし可愛《かわい》がってくれた男で、病院へ薬を取りに行ったりすると、薬局へ行って早く作らせてくれたり、病院のなかを見せてくれたりした。そのころ吉川鎌子《よしかわかまこ》と運転手の恋愛事件が、世間にセンセイションを捲《ま》き起こしていたが、千葉と本千葉との間で轢死《れきし》を図り、それがこの病院に収容されているのだった。
「この病室にいるんだよ。」
 などと病室の前を足早に通りすぎたこともあった。
 マダムお気に入りの銀子が、手洗いの湯やタオルを盆に載せて持って行くと、ちょうど診察が済んだあとで、一両日中に入院でもするような話であった。
「どうも昨夜は失敬した。途中まで送ってあげようと思ったんだけれど、いつの間に帰ったのか……今朝何ともないかい。」
 銀子に言うのだった。銀子もこの若い医者が好きなので、前へ出ると顔が少し紅《あか》くなっ
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