じみ》のお客とも付かず離れずの呼吸でやらしたいから、後口々々と廻すように舵《かじ》を取るんです。いいお客がつかないのも困るけれど、深くなるのも心配なんです。」
均平はこの世界の内幕は、何も知らなかった。
「私もその時分はこれでなかなか肯《き》かん坊だったから、ああこれなら安心だと監視の手が緩《ゆる》んだ時分に、ちょっとそこまで行くふりして、不断着のまま蟇口《がまぐち》だけもって飛び出してしまったんです。そして東京駅でちょっと電話だけかけて、何時かの汽車に乗ってしまったの。」
「それで……。」
「それから別に……。三保《みほ》の松原とか、久能山《くのうさん》だとか……あれ何ていうの樗牛《ちょぎゅう》という人のお墓のある処《ところ》……龍華寺《りゅうげじ》? 方々見せてもらって、静岡に滞在していたの。そして土地の妓《こ》も呼んで、浮月に流連《いつづけ》していたの。まあ私は罐詰《かんづめ》という形ね。岩谷もあの時分は何か少し感染《かぶ》れていたようだわ。お前さえその気なら、話は後でつけてやるから、松の家へ還《かえ》るなというのよ。少し父さんに癪《しゃく》にさわったこともあったのよ。私だってそれほどの決心もなかったんだから、このままここにいたところで、岩谷が入れるつもりでいても、家へ入れるわけではないし、入ったところで先は格式もあるし、交際も広いから、私ではどうにもならないでしょう。第一親にもめったに逢《あ》えないんだもの。私も心配になって、実は少し悲しくなって来たのよ。独りでお庭へ出て、石橋のうえに跪坐《しゃが》んで、涙ぐんでいたの。すると一週間目に、箱丁《はこや》の松さんとお母さんが、ひょっこりやって来たものなの。随分方々探し歩いたらしいんだけれど、とにかく後でゆっくり相談するから、一旦は帰ってくれって言うんですの。内々私も少しほっとした形なの。第一岩谷もあの時分お金に困っていたんだか何だか、解決するなら前借を払うのならいいんだけれど、そうでもないし、帰るも帰らないも私の肚《はら》一つだというんだから、わざわざお母さんまで来たのに、追い返すのもどうかと思って、一緒に帰ってしまったの。何とか言って来るかなと思って、私も何だか怏々《くさくさ》していると、とても長い手紙が来たの。何だかむずかしいことが書いてあったけれど、結局、女は一旦その男のものとなった以上、絶対に信頼して服従しなければいけない。すべてのものを擲《なげう》って、肉体と魂と一切のものを――生命までも捧《ささ》げるようでなかったら、とても僕の高い愛に値しないというような意味なのよ。結局それでお互いに手紙や荷物を送り返してお終《しま》いなの。――大体岩谷という男は、死んだ奥さんの美しい幻影で頭脳《あたま》が一杯だから、そこいらの有合せものでは満足できないのよ。何だかだととても註文《ちゅうもん》がむずかしくて、私もそれで厭気《いやき》も差したの。自殺したのも、内面にそういう悩みもあったんじゃないの。」
均平も新聞でその顔を見た覚えはあるが、あの時代の政界を濁していた利権屋の悲劇の一つである。事件の経緯《いきさつ》は知らなかった。
「松の家の方は。」
「父さんも少し怖《こわ》くなって来たらしいの。そんなことをたびたびやられちゃ、使うのに骨が折れるから、何なら思うようにしてくれというの。結局松さんやお母さんが口を利いて、私も一生懸命働くということで納まったの。そのために借金が何でも六百円ばかり殖《ふ》えて、取れるなら岩谷から取れというんだけれど、出しもしないし言ってもやれないし、そのままになったけれど、とかくお終いは芸者が背負《しょ》いこみがちのものよ。私も借金のあるうちは手足を縛られているようで、とてもいやなものだから、少し馬力をかけて、二千円ばかりの前借を、二年で綺麗《きれい》に切ってしまったの。荷が重くなった途端に、反撥心《はんぱつしん》が出たというのかしら。」
三
銀子が若かったころの自分の姿を振り返り、その時々の環境やら出来事やらの連絡を辿《たど》り、過去がだんだんはっきりした形で見えるようになったのは、ついこのごろのことで、目にみえぬ年波が一年一年若さを奪って行くことにも気づくのであった。
「今のうちだよ。四十になると若い燕《つばめ》か何かでなくちゃ、相手は見つからんからね。」
均平は銀子を憫《あわ》れみ、しばしば自分が独りになる時のことを考え、孤独に堪え得るかどうかを、自身に検討してみるのだったが、それは老年の僻《ひが》みに見えるだけで、彼女には新しい男性を考えることもすでに億劫《おっくう》になっていた。貞操を弄《もてあそ》ばれがちな、この社会の女に特有な男性への嫌悪《けんお》や反抗も彼女には強く、性格がしばしば男の子のように見えるのだった。
「みんなどうして、あんなに色っぽくできるのかと思うわ。」
「恋愛したことはあるだろう。」
「そうね、商売に出たてにはそんなこともあったようだわ。あんな時分は訳もわからず、ぼーっとしているから、他哩《たわい》のないものなのよ。先だって若いから、恋愛ともいえないような淡いものなの。」
銀子にもそんな思い出の一つや二つはあったが、彼女が出たての莟《つぼみ》のような清純さを冒された悔恨は、今になっても拭《ぬぐ》いきれぬ痕《あと》を残しているのであった。
父が何にも知らず、行き当りばったりに飛び込んで行った浅草の桂庵《けいあん》につれられて、二度目の目見えで、やっと契約を結んだ家《うち》は、そうした人生の一歩を踏み出そうとする彼女にとって、あまり好ましいものではなかった。
彼女は隣りの材木屋の娘などがしていたように、踊りの稽古《けいこ》に通っていたが、遊芸が好きとは行かず、男の子のような悪さ遊びに耽《ふけ》りがちであった。そこは今の江東橋、そのころの柳原《やなぎわら》で、日露戦争後の好景気で、田舎《いなか》から出て来て方々転々した果てに、一家はそこに落ち着き、小僧と職人四五人をつかって、靴屋をしていたのだったが、銀子が尋常を出る時分には、すでに寂れていた。ちょうど千葉|街道《かいどう》に通じたところで水の流れがあり、上潮の時は青い水が漫々と差して来た。伝馬《てんま》や筏《いかだ》、水上警察の舟などが絶えず往《ゆ》き来していた。伝馬は米、砂糖、肥料、小倉《おぐら》石油などを積んで、両国からと江戸川からと入って来るのだった。舟にモータアもなく陸にトラックといったものもまだなかった。
銀子は千葉や習志野《ならしの》へ行軍に行く兵隊をしばしば見たが、彼らは高らかに「雪の進軍」や「ここはお国を何百里」を謳《うた》って足並みを揃《そろ》えていた。
銀子はそこで七八つになり、昼前は筏に乗ったり、※[#「※」は「てへん+黨」、第3水準1−85−7、374−上19]網《たも》で鮒《ふな》を掬《すく》ったり、石垣《いしがき》の隙《すき》に手を入れて小蟹《こがに》を捕ったりしていた。材木と材木の間には道路工事の銀沙《ぎんさ》の丘があり、川から舟で揚げるのだが、彼女は朝飯前にそこで陥穽《おとしあな》を作り、有合せの板をわたして砂を振りかけ、子供をおびき寄せたりしていたが、髪を引っ詰めのお煙草盆《たばこぼん》に結い、涕汁《はなみず》を垂らしながら、竹馬にも乗って歩いた。午後になると、おいてき堀《ぼり》といわれる錦糸堀《きんしぼり》の原っぱへ出かけて行く。そこには金子の牧場があり、牛の乳を搾《しぼ》っていたが、銀子はよくそこで蒲公英《たんぽぽ》や菫《すみれ》を摘んだものだが、ブリキの乳搾りからそっと乳を偸《ぬす》んで呑《の》み、空《から》の時は牛の乳からじかに口呑みに呑んだりもした。彼女はよく川へ陥《はま》り、寒さに顫《ふる》えながら這《は》いあがると、棧橋《さんばし》から川岸の材木納屋へ忍びこんで、砂弄《すないじ》りをしながら着物の乾くのを待つのだった。
二丁ばかり行くと、そこはもう場末の裏町で、おでん屋や、鼈甲飴屋《べっこうあめや》の屋台が出ていた。飴は鳩《はと》や馬や犬の型に入れられ、冷《さ》めたところで棒ごと剥《は》がれるのが、後を引かせるのだったが、その辺には駄菓子屋もあり、文字焼にあんこ焼などが、子供の食慾をそそり、銀子は金遣《かねづか》いのきびきびしているところから、商人たちにも人気がよかった。
そんな育ち方の銀子なので、芸者屋の雰囲気《ふんいき》と折り合いかね、目見えも一度では納まらなかった。
四
均平も、銀子がまだ松の家にいる時分、病気で親元へ帰っている彼女からの手紙により、水菓子か何かもって見舞に行ったこともあった。
「お父さんもお母さんも、田舎《いなか》へ行って留守だから、お上がんなさいな。」
と店つづきの部屋で、独りぽつねんと長火鉢《ながひばち》の前に坐っている彼女にいわれ、二階から妹たちも一人一人降りて来て挨拶《あいさつ》するのだったが、彼女は鼠《ねずみ》に立枠《たてわく》の模様のある新調のお召を出して見せ、
「いつ旅行するの。私着物を拵《こさ》えて待っていたのに。」
と催促するのだった。
家をもった時、父親が箪笥《たんす》や葛籠《つづら》造りの黒塗りのけんどん[#「けんどん」に傍点]などを持ち込み、小さい世帯《しょたい》道具は自身リヤカアで運び、釘《くぎ》をうったり時計をかけたりしていたが、職人とも商人ともつかぬ、ステンカラの粗末な洋服を着ており、昔し国定と対峙《たいじ》して、利根川《とねがわ》からこっちを繩張《なわばり》にしていた大前田の下ッ端《ぱ》でもあったらしく、請負工事の紛紜《いざこざ》で血生臭い喧嘩《けんか》に連累し、そのころはもう岡っ引ではない刑事に追われ、日光を山越えして足尾に逃げ込み、養蚕の手伝いなどしていたこともあり、若い時は気が荒かったというので均平も少し気味悪がっていたけれど、苦労をさせたことを忘れないので銀子のことは銀子の好きなようにさせ、娘を操《あやつ》って自身の栄耀《えいよう》を図ろうなどの目論見《もくろみ》は少しもなかった。酒も呑まず賭事《かけごと》にも手を出さず、十二三歳の時から、馬で赤城《あかぎ》へ薪《たきぎ》を採りに行ったりして、馬を手懐《てなず》けつけていたので、馬に不思議な愛着があり、競馬馬も飼い、競馬場にも顔がきいていた。
均平はその後も、前科八犯という悪質の桂庵にかかり、銀子の後見として解決に乗り出し、千住《せんじゅ》辺へ出かけた時とか、または堀切《ほりきり》の菖蒲《しょうぶ》、亀井戸《かめいど》の藤《ふじ》などを見て、彼女が幼時を過ごしたという江東方面を、ぶらぶら歩いたついでに、彼女の家へ立ち寄ったこともあり、母親の人となりをもだんだん知るようになった。
汽車で清水隧道《しみずトンネル》を越え、山の深い越後《えちご》へ入って幾時間か行ったところに、織物で聞こえた町に近く彼女の故郷があり、村の大半以上を占める一巻という種族の一つから血を享《う》けているのだったが、交通の便もなく、明治以来の文化にも縁のないこの山村では、出るものとては百合《ゆり》とかチュリップとか西瓜《すいか》くらいのもので、水田というものもきわめてまれであった。織物が時に銀子のところへ届き、町の機業家も親類にあるのだったが、この村では塩鮭《しおざけ》の切身も正月以外は膳《ぜん》に上ることもなく、どこの家でも皺《しわ》くちゃの一円紙幣の顔すら容易に見られなかった。他国者は異端視され、村は一つの家族であった。
「その代り空気は軽いし、空はいつでも澄みきっているし、夜の星の綺麗《きれい》さったらないわ。水は指が痺《しび》れるほど冷たくて、とてもいい気持よ。高い処《ところ》へ登るとアルプス連山や赤倉あたりの山も見えるの。」
銀子も若い時分一度行ったことがあったが、妹の一人は胸の病気をその山の一と夏で治《なお》した。
「けれどあんな処でも肺病があるのはどういうんだろう。お母さんの一家は肺病で絶えたのよ。お父さんも兄弟も。私あすこへ行って初めて聞いて解《わ
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