とで、時には聴《き》く気にもなるのであった。
「少し勉強して名取になったら、どうなのか。」
 均平が言っても、銀子にはそれほどの熱意もなく、商売道具だから仕方なしやっているものの、名取になれば附き合いが張り、金がかかるばかりだと言うのであった。
 前には大黒屋という大きな芸者屋があり、主人は砲兵|工廠《こうしょう》の職工あがりだったが、芸者に出してあった娘に好い運がおとずれ、親たちもこの商売に取りつき、好況時代にめきめき羽を伸ばしたのだったが、ある大衆ものの大作家が、方々荒らしまわった揚句、一時ここで豪遊をきわめたのも、売れっ子のその娘が目に留まったからであった。
 裏には狭い庭と路次を隔てて、活動館の弁士の家庭が見透かされ、弁士の妹夫婦もそこに同棲《どうせい》していた。そのころは弁士もまだ場末の小屋には、ちらほら残炎を保っていて、彼はこの附近の二つの館を掛持ちし、無声映画のちゃんばらものなどに出演していた。妹は芸者では芽が吹かず、カフエ全盛の時代だったので、廃業して女給に転身し、そこで医専出の若い男と出来あい、二階で同棲生活を始めたところであった。
「あれみんな権太さんの兄弟よ。あの
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