と思えば帰れますの。」
「私今日あたりお電話して、事によったら行ってみようかと思ってたんですけれど、出しぬけでも悪いかと思って。」
「いらっしゃるとよかったわ。いらしたことありませんの。」
「ええ、こっち方面はてんで用のない処《ところ》ですから。この辺製糸工場が多いんです。何でも大変景気のいい処だって……。」
彼女は岡谷《おかや》あたりの製糸家だという、大尽客の座敷へ出たことなどを憶《おも》い出していた。
「それは前の世界戦の時分のことだろう。今は糸も売れないから、景気のいい時分田をつぶして桑を植えたのと反対に、桑を引っこぬいて米を作ってるんじゃないか。しかしどんな時代でも、農民は土に囓《かじ》りついてさえいれば食いっぱぐれはない。」
均平はパンを※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、348−上13]《むし》りながら、
「己《おれ》も士族の零落《おちぶれ》の親父《おやじ》が、何か見るところがあったか、百姓の家へもらわれて行くところだったんだ。その百姓は大悦《おおよろこ》びで夫婦そろって貰《もら》いに来たそうだが、生まれた子供の顔を見ると、さすがに手放せなかったそうだ
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