》した。彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廼家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋《かまめしや》へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいであった。
 彼は日本橋の国府《こくぶ》へ納める荷物の中に、幾割かのロオズ物があり、それを回収して、場末の二流三流の商店へ卸すために、時々東京へ出るので、このころにもそのついでに、罐詰を土産《みやげ》に、錦糸堀の銀子の家を訪ね、荷はいくらでも送るから、罐詰の店を出してはどうかと、親父《おやじ》に勧めたりしたものだった。

      十

 二週間ほどして、ある朝銀子は病床のうえに起きあがり、タオルを肩にかけて、痒《かゆ》みの出て来た頭の髪をほどき、梳櫛《すきぐし》を入れて雲脂《ふけ》を取ってもらっているところヘ、写真師の浦上が入って来た。八月も終りに近く、驟雨《しゅうう》が時々襲って来て、朝晩はそよそよと、肌触りも冷やかに海風か吹き通り、銀子は何となし東京の空を思い出していた。
 浦上は手足ののんびりした、華車造《きゃしゃづく》りの青年であったが、口元に締りがなく、笑うと上の歯齦《はぐき》が剥《む》き出しになり、
前へ 次へ
全307ページ中212ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング