ま》の裾《すそ》にある料亭《りょうてい》で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。そのころになると、この北の海にも春らしい紫色の濛靄《もや》が沖に立ちこめ、日和山の桜の梢《こずえ》にも蕾《つぼみ》らしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅《くさもち》を売る茶店もあって、銀子も朋輩《ほうばい》と連れ立ち残雪の下から草の萌《も》え出るその山へ登ることもあった。夜は沖に明滅する白魚舟の漁火《いさりび》も見えるのであった。
 銀子が少しおくれて二階へ上がって行くと、女中がちょうど通し物と酒を運んで来たところで、どこかの部屋では箱も入っていた。いくらか日が永くなったらしく、海はまだ暮れきっていなかった。
 倉持は何か緊張した表情をしていた。四五日前に来た時、彼は結婚の話を持ち出し、二晩も銀子と部屋に閉じ籠《こ》もっていたが、それは酒のうえのことであり、銀子もふわっと話に乗りながら、夢のような気持がしているのだったが、彼は今夜もその話を持ち出し、機会を作って一度母に逢わせるから、そのつもりでいてくれと言うので、昔亡父が母に贈ったというマリエージ・リングを袂《たもと》から出し、銀子の指にはめた。指
前へ 次へ
全307ページ中199ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング