と阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然《そう》いうだけで、何遍話をしても諾《うん》といわない。
 そこで阿母さんも不思議に思って、娘が気に入らないのか、それとも外に先約でもあるのかと段々訊いてみるてえと、身分が釣合ねえから貰わねえ。高《たか》が少尉の月給で女房を食わして行けようがねえ。とまあ恁《こう》云う返答だ。うん、然うだったか。それなら何も心配することはねい。どんな大将だって初めは皆な少尉候補生から仕上げて行くんだから、その点は一向|差閊《さしつか》えない。十分やって行けるようにするからと云うんで、世帯道具や何や彼や大将の方から悉皆《すっかり》持ち込んで、漸くまあ婚礼がすんだ。秋山さんは間もなく中尉になる、大尉になる。出来もしたろうが、大将のお引立もあったんでさ。
 そこへ戦争がおっ始《ぱじ》まった。×××の方の連隊へも夫々動員令下った。秋山さんは自分じゃもう如何《どう》しても戦《いくさ》に行くつもりで、服なども六七|着《ちゃく》も拵《こし》らえる。刀や馬具なども買込んで、いざと言えば何時でも出発が出来るように丁《ちゃん》と準備が整えている。ところが秋山大尉は留守と来た。お前は前途有望だから、残って部下の訓練に精を出してくれなくちゃ困ると、まあ然ういう命令なんだ。
 秋山大尉は残念でならねえ。○○師団のところへ掛合行きも行った。五度も行って縋った。○○師団長も終に怒った。軍隊の命令は、総て、天皇陛下のお言渡しと心得ろと然う言って叱って返した。秋山さんも、何うも為方がねえ。
 尤も奥さんの綾子さんの方でも、随分気はつけていた。遺書《かきおき》のようなものを、肌を離さずに持っていたのを、どうかした拍子に、ちらと見てからと云うもの、少しも気を許さない。どこへ出るにも馬丁をつけてやることにしていたんだ。夜分なども、碌々眠らないくらいにして、秋山大尉の様子に目を配っておった。
「これがあるから監視するんだな。可《よ》しこんなものを焼捨てて了おう。」というんで、秋山大尉がその手紙を奥さんの目の前で皆な火に燻べて了った。それで奥さんの方も気が弛んだ。
 秋山大尉は、そうと油断さしておいて、或日××河へ飛込んだがだ。河畔《かわばた》の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書《かきおき》を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉《わた》って真中からどぶん
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