」
「七十|幾歳《いくつ》ですって?」
「七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛《とたん》屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あアお午後《ひるから》ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著《つ》けろと云や、丁《ちゃん》と其時間に入《へえ》ったんでさ。……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げて来てから、色々なことをやりましたが、火事にも逢《あ》や、女房にも死別れた。忘れもしねえ、暑い土用の最中《さなか》に、餒《ひも》じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの客人を載せって、やれやれと思って棍棒を卸すてえとぐらぐらと目が眩《まわ》って其処へ打倒《ぶったお》れた。帰りはまた聿駄天《いだてん》[#ママ]走りだ。自分の辛《つら》いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜《すす》らずに待っている嬶《かかあ》や子供が案じられてなんねえ。」
「兵隊にいっていた息子さんは、幾歳《いくつ》で亡くしましたね。」
上さんは高い声で訊いた。
「忰ですかね。」爺さんは調子を少し落して俛《うつむ》いた。
「二十三でしたよ。」
「戦地でかね。」と主が訊ねた。
「何に、戦地じゃねえがね。それでも戦地で死んだぐらいの待遇はしてくれましたよ。戦地へやらずに殺したのは惜しいもんだとかいうでね。自分の忰を賞めるのは可笑しうがすけれど、出来たにゃ出来た。入営中の勉強っていうものが大したもんで、尤も破格の昇進もしました。それがお前さん、動員令が下って、出発の準備が悉皆《すっかり》調った時分に、秋山大尉を助けるために河へ入って、死んじゃったような訳でね。」
「どうして?」
爺さんは濃い眉毛を動かしながら、「それはその秋山というのが○○大将の婿さんでね。この人がなかなか出来た人で、まだ少尉でいる時分に、○○大将のところへ出入していたものと見える。処が大将の孃さまの綾子さんというのが、この秋山少尉に目をつけたものなんだ。これで行く度に阿母《おふくろ》さんが出て来て、色々打ち釈《と》けた話をしちゃ、御馳走をして帰す。酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪《おか》しいと思ってるてえと、やがてのこ
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