徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)懐《なつ》き具合

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)目|脂《やに》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「足+宛」、第3水準1−92−36、163下−12]
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 四五日前に、善く人にじゃれつく可愛い犬ころを一匹くれて行った田町の吉兵衛と云う爺さんが、今夜もその犬の懐《なつ》き具合を見に来たらしい。疳癪の強そうな縁の爛《ただ》れ気味な赤い目をぱちぱち屡瞬《しばたた》きながら、獣の皮のように硬張《こわば》った手で時々目|脂《やに》を拭いて、茶の間の端に坐っていた。長いあいだ色々の労働で鍛えて来たその躯は、小いなりに精悍らしく見えた。
 上《かみ》さんが気を利かして、金を少し許り紙に包んで、「お爺さん少しだけれど、一杯飲んで下さいよ」と、そこへ差出すと、爺さんは一度辞退してから、戴いて腹掛へ仕舞いこんだ。
「お爺さんはいつも元気すね。」
「なに、もう駄目でさ。今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄《しゅろなわ》を咬えるもんだから、稼業だから為方《しかた》がないようなもんだけれど……。」
 爺さんは植木屋の頭に使われて、其処此処の庭の手入れをしたり垣根を結《ゆわ》えたりするのが仕事なのだ。それでも家には小金の貯えも少しはあって、十六七の娘に三味線を仕込《しこみ》などしている。遊芸をみっちり仕込んだ嫖致《きりょう》の好い姉娘は、芝居茶屋に奉公しているうちに、金さんと云う越後産の魚屋と一緒になって、小楽に暮しているが、爺さんの方へは今は余り寄りつかないようにしている。
「私も花をあんなものにくれておくのは惜しいでやすよ。多度《たんと》でもないけれど、商売の資本まで卸してやったからね」と爺さんは時々その娘のことでこぼしていた。
「お爺さんなんざ、もう楽をしても好いんですがね。」
 上さんはお茶を汲んで出しながら、話の多い爺さんから、何か引出そうとするらしかった。子供はもう皆な奥で寝てしまって、二つになる末の子だけが、母親の乳房に吸いついた。勤め人の主《あるじ》は、晩酌の酔がまださめず、火鉢の側に胡座《あぐら》をかいて、にやにやしていた。
「どうして未だなかなか。
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