っとした気持で「おい」と声かけると、彼女は振り返ったが、いくらか狼狽《ろうばい》気味で顔を紅《あか》くした。そして籐《とう》のステッキを上がり框《がまち》に立てかけて、ずかずか上がろうとする庸三に、そっと首をふって見せたが、立ち上がったかと思うと、階段の上を指さして、二階へ上がるようにと目で知らした。庸三はどんどん上がって行った。彼女もついて来た。
「ここ私たちの部屋ですの。」
 そう言って葉子は取っ着きの明るい部屋へ案内した。感じのわるくない六畳で、白いカアテンのかかった硝子窓《ガラスまど》の棚《たな》のうえに、少女雑誌や翫具《おもちゃ》がこてこて置かれ、編みかけの緑色のスウェタアが紅い座蒲団《ざぶとん》のうえにあった。朝鮮ものらしい蓙《ござ》の敷物も敷いてあった。
 葉子は彼を坐らせておいて、一旦下へおりて行ったが、少し経《た》ってから瑠美子を連れて上がって来た。
「おじさんにお辞儀なさい。」
 瑠美子が手をついてお辞儀するので、庸三も頭を撫《な》で膝《ひざ》へ抱いてみた。
「どうしたんだい。誰かいるの、下の部屋に。」
「職人ですの。――あの部屋が落着きがいいもんですから、今壁紙を貼《は》ってもらっていましたのよ。」
「それでどうしたんだね。」
「近いうち一度お伺いしようと思っていましたの。私瑠美子を仏英和の幼稚園へ入れようと思うんですけれど、あすこからではこの人には少し無理でしょうと思って……。咲子ちゃんどうしています。」
「泣いて困った。それに病気して……。君は酷《ひど》いじゃないか。僕が悪いにしても、出たきり何の沙汰《さた》もしないなんて。」
 庸三はハンケチで目を拭《ふ》いた。葉子は少し横向きに坐って、編みものの手を動かしていた。
「でも随分大変だとは思うの。」
「やっと初まったばかりじゃないか。今に子供たちも仲よしになるよ。どうせそれは喧嘩《けんか》もするよ。」
「瑠美子も咲子さんの噂《うわさ》していますの。」
「家《うち》の子供だって、あんなにみんなで瑠美子を可愛《かわい》がっていたじゃないか。」
「貧しいながらも、私ここを自分の落着き場所として、勉強したいと思ってましたの。そして時々作品をもって、先生のところへ伺うことにするつもりでいたんですけれど、いけません。」
「駄目、駄目。君の過去を清算するつもりで、僕は正面を切ったんだから。」
「ここの主人夫婦も先生んとこ出ちゃいけないと言うんですの。――ここの御主人、先生のことよく知ってますわ。死んだ親爺《おやじ》さんは越後《えちご》の三条の人で、呉服物をもってよく先生のとこへ行ったもんだそうですよ。その人は亡くなって、息子《むすこ》さんが今の主人なんですの。」
「色の白い、温順《おとな》しい……。」
「いい人よ。」
「君はまたどうして……。」
「ここ秋本さんの宿ですもの。あの人に短歌の整理をしてもらったり何かしたのも、ここですもの。」
 庸三はある時は子息《むすこ》をつれて、しばしば重い荷物を持ち込んで来た、越後らしいごつい体格のあの商人を思い出したが、同時にあの貴公子風の情熱詩人と葉子との、ここでのロオマンスを想像してみた。それにしては現実の背景が少し貧弱で、何か物足りない感じであった。やがて圧倒的な、そして相当|狡獪《こうかい》な彼の激情に動かされて、とにかく葉子は帰ることに決めた。
「じゃ、もうちょっとしたら行きます。きっと行くわ。」
「そう。」
 葉子は顔を熱《ほて》らせていた。そして庸三が出ようとすると壁際《かべぎわ》にぴったり体を押しつけて立っていながら、「唇《くちびる》を! 唇を!」と呼んだ。
 庸三は小返《こがえ》りした。

 葉子が車でやって来たのは、庭の隅《すみ》にやや黄昏《たそがれ》の色の這いよる時分で、見にやった庸太郎を先立ちに、彼女は手廻りのものを玄関に運ばせて、瑠美子をつれて上がって来た。
「庸太郎さんとお茶を呑《の》んだりしていたもんですから……。それからこんなものですけれど、もしよかったらこの部屋にお敷きになったらどうかと思って……。」
 葉子はそう言って、持って来た敷物を敷いてみた。
「どうです、このネクタイ!」
 縁側では、子供が葉子に買ってもらった、仏蘭西製《フランスせい》の派手なネクタイを外光に透かして見ていた。
 学校が休みになると、子供は挙《こぞ》って海へ行った。瑠美子も仲間に加わらせた。
 読んだり書いたり、映画を見たりレコオドを聴《き》いたり、晩は晩で通りの夜店を見に行ったり、時とすると上野辺まで散歩したり――しかしこの生活がいつまで続くかという不安もあって……続けば続く場合の不安もあって、庸三の心はとかく怯《おび》えがちであった。すべての人生劇にとっても、困難なのはいずれ大詰の一幕で、歴史への裁断のように見通しはつきにくいのであった。それに庸三は、すべての現象をとかく無限への延長に委《ま》かせがちであった。
 八月の末に、葉子は瑠美子を海岸から呼び迎えて、一緒に田舎《いなか》へ立って行った。母の手紙によって、瑠美子の妹も弟も、継母の手から取り戻せそうだということが解《わか》ったからであった。二人を上野駅に見送ってしまうと、庸三はその瞬間ちょっとほっとするのだったが、また旧《もと》の真空に復《かえ》ったような気持で、侘《わび》しさが襲いかかって来た。
「先生にもう一度来てもらいますわ。その代り私がお報《し》らせするまで待ってね。いい時期に手紙あげますわ。」
 そうは言っても、葉子は夏中彼の傍《そば》に本当に落ち着いていたわけではなかった。何も仕出来《しでか》しはしなかったが、庸三に打ち明けることのできない、打ち明けてもどうにもならない悩みを悩み通していた。彼女は自身の文学の慾求に燃えていたが、生活も持たなければならなかった。瑠美子への矜《ほこ》りも大切であった。最初のころから見ると、著しい生活条件の変化もあった。
 二日ほどすると、葉子の手紙がとどいた。彼も書いた。それから大抵三日置きくらいには書いた。どろどろした彼の苦悩が、それらの手紙に吐け口を求めたものだったが、投函《とうかん》した後ですぐ悔いるようなものもあった。葉子が還《かえ》るものとも還らないものとも判断しかねるので、それの真実の探求への心の乱れであり、魂の呻吟《しんぎん》でないものはなかった。しばしば近くの友達を訪れて、話しこむこともあった。
 雨の降るある日、彼はある女を憶《おも》い出した。妻の位牌《いはい》に、あのころ線香をあげに来た、あの女性であった。その女から待合開業の通知を受け取ったのは、もう大分前のことであった。御馳走《ごちそう》になり放しだったし、さまざまの世界を見て来た彼女の話も聴《き》きたかった。酷《ひど》い雨だったけれど、雨国に育った彼にはそれもかえってよかった。
 タキシイで、捜し当てるのに少し暇を取ったが、場所は思ったより感じがよかった。
「お神さん御飯食べに銀座へ行っていますけれど、じき帰って来ますわ。まあどうぞ。」
 庸三は傘《かさ》をそこにおいて、上がった。そして狭い中庭に架《か》かった橋を渡って、ちんまりした部屋の一つへ納まった。薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える無気味な大きな橋の袂《たもと》に、幾棟《いくむね》かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱《ゆううつ》に這《は》い靡《なび》いていた。
「ひどい雨ですことね。」
 渋皮のむけた二十二三の女中が、半分繰り出されてあった板戸を開けて、肱掛窓《ひじかけまど》の手摺《てすり》や何かを拭いていた。水のうえには舟の往来もあって、庸三は来てよかったと思った。
 女中は煙草盆《たばこぼん》や、お茶を運んでから、電話をかけていたが、商売屋なので、上がった以上、そうやってもいられなかった。
「お神さんじき帰りますわ。」
 女中が言いに来た。
「誰か話の面白い年増《としま》はいない。」
「いますわ。一人呼びましょうか。」
 やがて四十を少し出たくらいの、のっぽうの女が現われた。芸者という感じもしないのだったが、打ってつけだった。話も面白かった。お母さんの病気だと言って、旦那《だんな》を瞞《だま》して取った金で、京都で新派の俳優と遊んでいるところを、四条の橋で店の番頭に見つかって、旦那をしくじった若い芸者の話、公園の旧俳優と浮気して、根からぞっくり髪を切られた女の噂《うわさ》――花柳情痴の新聞種は尽きなかった。
 そこへお神が入って来た。お神というよりかマダムといいたい……。春見た時はどこからしゃめん臭いところがあったが、今見ると縞《しま》お召の単衣《ひとえ》を着て、髪もインテリ婦人のように後ろで束《つか》ねて、ずっと綺麗《きれい》であった。

      八

 お神の小夜子《さよこ》は、媚《なま》めかしげにちろちろ動く美しい目をしていて、それだけでもその辺にざらに転《ころ》がっている女と、ちょっと異った印象を与えるのであったが、彼女は一本のお銚子《ちょうし》に盃洗《はいせん》、通しものなぞの載っている食卓の隅《すみ》っこへ遠のいて、台拭巾《だいぶきん》でそこらを拭きながら、
「大変ですね、先生も葉子さんの問題で……。」
 庸三は二三杯|呑《の》んだ酒がもう顔へ出ていたが、
「僕も経験のないことで、君に少し聞いてもらいたいと思っているんだけれど。」
「賑《にぎ》やかでいいじゃありませんか。」彼女はじろりと庸三を見て、
「まあ一年は続きますね。」
 小夜子は見通しをつけるのであった。
「今お宅にいらっしゃいますの。」
「ちょっと田舎へ行っているんだがね。僕も実はどうしようかと思っている。」
「田舎へ何しにいらしたんですの。」
「子供を継母の手から取り戻すためらしいんだ。」
 そして庸三はこの事件のデテールズについて、何かと話したあとで、
「貴女《あなた》はどうしてこんな商売を始めたんです。」
「私もいろいろ考えたんですの。クルベーさんも、もう少し辛抱してくれれば、もっとどうにかすると言ってくれるんですけれど、あの人も大きな山がはずれて、ちょっといけなくなったもんですから。」
 クルベーという独逸《ドイツ》の貴族は、新しい軍器などを取扱って盛大にやっていたものらしいが、支那の当路へ軍器を売り込もうとして、財産のほとんど全部を品物の購入や運動費に投じて、すっかりお膳立《ぜんだ》てが出来たところで、政府筋と支那との直接契約が成立してしまった。そこまで運ぶのに全力を尽した彼の計画が一時に水の泡《あわ》となってしまった。その電報を受け取った時、彼はフジヤ・ホテルで卒倒してしまった。
 しかし小夜子は今そんなことを初対面の彼に、打ち明けるほど不用意ではなかった。クルベーとの七年間の花々しい同棲《どうせい》生活については、彼女はその後折にふれて口の端《は》へ出すこともあったし、一番彼女を愛しもし、甘やかしもしてくれたのは何といってもその独逸の貴族だったことも、時々|憶《おも》い出すものらしかったが、今は彼女もその愛の囚《とりこ》に似た生活から脱《のが》れ出た悦《よろこ》びで一杯であった。
「貴女の過去には随分いろいろのことがあったらしいね。」
「私?」
「新橋にいたことはないんか。」
「いました。あの時分文芸|倶楽部《クラブ》に花柳界の人の写真がよく出たでしょう。私のも大きく出ましたわ。――けどどうしてです。」
「何だか見たような気がするんだ。いつか新橋から汽車に乗った時ね、クションに坐りこんで、しきりに刺繍《ししゅう》をやっている芸者が三人いたことがあるんだ。その一人に君が似ているんだ。まだ若い時分……。」
「刺繍もやったことはありますけれど……。何せ、私のいた家《うち》の姐《ねえ》さんという人が、大変な人で、外国人の遺産が手に入って、すっかり財産家になってしまったんです。お正月のお座敷へ行くのに、正物《ほんもの》の小判や一朱金二朱金の裾模様《すそもよう》を着たというんでしたわ。それでお座敷から帰ると、夏なんか大した
前へ 次へ
全44ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング