椅子《いす》に腰かけて、私たちに体を拭かせたり煽《あお》がしたり、寝るときは体を揉《も》む人に小説を読む人といったあんばいで……。」
「ああ、それで君なんかも……。」
小夜子は、三キャラットもあるダイヤの粒の大きいのと小さいのと、それに大振りな珊瑚《さんご》のまわりに小粒の真珠を鏤《ちり》ばめたのなど、細い指に指環《ゆびわ》をでこでこ嵌《は》めていた。
「その人どうしたかね。」
「姐さんですか。それが先生あの有名な竹村先生と軽井沢で心中した芝野さんの旦那《だんな》を燕《つばめ》にしているんですよ。」
「なるほどね。」
「お金がうんとありますから、大森に立派な家を立てて、大した有閑マダムぶりですよ。」
「芝野というのを、君知っている?」
「ええ、時々三人で銀ぶらしますわ。こう言っちゃ何ですけれど、厭味《いやみ》な男よ。それあ多勢《おおぜい》の銀座マンのなかでも、あのくらいいい男はちょっと見あたらないかも知れませんがね。赤いネクタイなんかして気障《きざ》よ。それでショウウインドウなんかで、いいネクタイが見つかると腐るほどもってるくせに、買ってよう、ようなんて甘ったれてるの。醜いものね、あんなお婆《ばあ》さんが若い燕なんかもってるのは。私つくづくいやだと思いますわ。」
庸三は苦笑して、
「耳が痛いね。」
「いいえ、男の方《かた》はいいんですよ。男の方はいくらお年を召していらしても、決して可笑《おか》しいなんてことはありませんね。」
そうしているうちに、彼は何か食べたくなって来た。妻を失ってから、彼の食膳《しょくぜん》は妻のやり方を長いあいだ見て来ただけの、年喰いのチビの女中のやってつけの仕事だったので、箸《はし》を執るのがとかく憂鬱《ゆううつ》でならなかった。
「銀水と浪花屋《なにわや》とどっちにしましょうか。」
「そうね、どっちも知らないけれど……。」
「浪花屋の方が、お値段はお恰好《かっこう》な割りに、評判がいいようですから。」
庸三は鮎《あゆ》の魚田《ぎょでん》に、お椀《わん》や胡麻酢《ごます》のようなものを三四品取って、食事をしてから、間もなくタキシイを傭《やと》ってもらった。
ある朝庸三は、川沿いのその一室で目をさました。忙《せわ》しいモオタアや川蒸気や荷足《にたり》の往来が、すでに水の上に頻繁《ひんぱん》になっていた。
昨夜彼は書斎の侘《わび》しさに、ついタキシイを駆ったものだったが、客が二組もあって、小夜子も少し酒気を帯びていた。庸三は別に女を呼ぶわけではなかった。ずっと後に、友達と一緒に飯を食いに行く時に限って、芸者を呼ぶこともあったが、彼自身芸者遊びをするほど、気持にも懐《ふとこ》ろにも余裕があるわけではなかった。
「御飯を食べにいらして下さるだけで沢山ですわ。芸者を呼んでいただいても、私の方はいくらにもなりませんのよ。」
小夜子の目的はほかにあった。追々に彼の仲間に来てもらいたいと思っていた。それに彼女は開業早々の商売の様子を見いかたがた田舎《いなか》から出て来ている姉を紹介したりして、何かと彼の力を仮《か》りるつもりらしかった。昨夜も彼女は彼の寝間へ入って来て、夜深《よふけ》の窓の下にびちゃびちゃ這《は》いよる水の音を聞きながら、夜明け近くまで話していたが、それは文字通りの話だけで何の意味があるわけでもなかった。すれすれに横たわっていても指一つ触れるのではなかった。電気|行燈《あんどん》の仄《ほの》かな光りのなかで、二人は仰むきに臥《ね》ていた。真砂座《まさござ》時代に盛っていて看板のよかったこの家《うち》を買い取るのにいくらかかったとか、改築するのにいくらいくらいったとかその金の大部分が、今、中の間で寝ている姉の良人《おっと》、つまり田舎の製茶業者で、多額納税者である義兄に借りたもので、月々利子もちゃんと払っているのであった。不思議と彼女に好い親類のあることがその後だんだんわかって来たのであったが、小夜子はそれを鼻にかけることもなかった。三菱《みつびし》の理事とか、古河銅山の古参とか、または大阪の大きな工場主とか。彼女が暗い道を辿《たど》って来たのは、父が違うからだということも想像されないことではなかったが、それにしても彼女は十六か七で、最初のライオンの七人組の美人女給の一人として、生活のスタアトを切って以来、ずっと一本立ちで腕を磨《みが》いて来ただけに、金持の親類へ寄って行く必要もなかったし、拘束されることも嫌《きら》いであった。芝の神明《しんめい》に育った彼女は、桃割時代から先生の手におえない茶目公であったが、そのころその界隈《かいわい》の不良少女団長として、神明や金刀毘羅《こんぴら》の縁日などを押し歩いて、天性のスマアトぶりを発揮したものだった。
庸三が床から起きて、廊下から薄暗い中の間をのぞいてみると、いつの間にか起き出した小夜子は、お燈明の煌々《こうこう》と輝く仏壇の前に坐りこんで、数珠《じゅず》のかかった掌《て》を合わせて、殊勝げにお経をあげていた。庸三にとっては、この場合思いもかけなかった光景であったが、商売柄とはいえ、多くの異性にとかくえげつない振舞の多かった自身の過去を振り返るごとに、彼女はそぞろに心の戦《おのの》きを禁じ得ないものがあった。クルベーの厚い情愛で、長い病褥《びょうじょく》中行きとどいた看護と金目を惜しまない手当を受けながら、数年前に死んで行った老母が「そんなことをしてよく殺されもしないものだ」と言って、彼女の成行きを憂えたくらい、彼女は際《きわ》どい離れ業《わざ》をして来たのであった。華族の若さまなどが入り浸っていた女給時代に、すでにそれが初まっていた。
仏壇のある中の間には、マホガニか何かのと、桐《きり》の箪笥《たんす》とが三棹《みさお》も並んでいて、三味線箱《しゃみせんばこ》も隅《すみ》の方においてあった。ごちゃごちゃ小物の多い仏壇に、新派のある老優にそっくりの母の写真が飾ってあったが、壁に同じ油絵の肖像も懸《か》かっていた。小夜子は庸三が来たことも気づかないように、一心不乱に拝んでいた。
庸三は言わるるままに廊下をわたって、風呂場《ふろば》の方へ行った。天井の高い風呂場は、化粧道具の備えつけられた脱衣場から二三段降りるようになっていた。そして庸三が一風呂つかって、顔を剃《あた》っていると、そこへ小夜子も入って来た。男を扱いつけている彼女にとって、それは一緒にタキシイに乗るのと何の異《かわ》りもなかった。
やがて小夜子は焚《た》き口の方に立って、髪をすいた。なだらかな撫《な》で肩《がた》、均齊《きんせい》の取れた手や足、その片膝《かたひざ》を立てかけて、髪を束ねている図が、春信《はるのぶ》の描く美人の型そのままだと思われた。しかしそんな場合でも、庸三は葉子の美しい幻を忘れていなかった。これも一つの美人の典型であろうが、自然さは葉子の方にあった。
「先生何か召《め》し食《あが》ります? トストでも。」
「そうね。」
「私御飯いただいたんですよ。これからお山へお詣《まい》りに行くんですけれど、一緒に来て下さいません?」
「お山って。」
「待乳山《まつちやま》ですの。」
「変なところへお詣りするんだね。何かいいことがあるのかい。」
「あすこは聖天《しょうでん》さまが祀《まつ》ってあるんですの。あらたかな神さまですわ。舟で行くといいんですけれど。」
お昼ちかくになってから、不断着のままの小夜子と同乗して、庸三もお山の下まで附き合った。そしてタキシイのなかでお山の段々から彼女の降りて来るのを待っていたが、それからも彼は二三度お詣りのお伴《とも》をして、ある時は段々をあがって、香煙の立ち昇っている御堂近くまで行ってみたこともあった。
ある日も庸三はこの水辺の家へタキシイを乗りつけた。
彼は三日目くらいには田舎《いなか》にいる葉子に手紙を書いた。書いたまま出さないのもあったが、大抵は投函《とうかん》した。もう幾本葉子の手許《てもと》にあるかなぞと彼は計算してみた。いずれいつかはそっくり取り返してしまうつもりであったし――またほとんど一本も残らずある機会に巧く言いくるめて取りあげてしまったのであったが、そんな予想をもちながらも、やはり書かないわけに行かなかった。今まで気もつかなかった、変に捻《ねじ》けた自我がそこに発見された。葉子を脅《おど》かすようなことも時には熱情的に書きかねないのであった。葉子のような文学かぶれのした女を楽しましめるような手紙は、無論彼には不得手でもあったし、気恥ずかしくもあった。
そうした時、ある日陰気な書斎に独りいるところへ、一人の女流詩人が詩の草稿をもって訪ねて来た。年の若い体の小さいその女流詩人は、見たところ小ざっぱりした身装《みなり》もしていなかったが、感じは悪くなかった。彼女の現在は神楽坂《かぐらざか》の女給であったが、その前にしばらく庸三の親友の郊外の家で、家事に働いていたこともあった。彼女は今絶望のどん底にあるものらしかったが、客にサアビスする隙々《ひまひま》に、詩作に耽《ふけ》るのであった。毎日々々の生活が、やがて彼女の歔欷《すすりなき》の詩であり、酷《むご》い運命の行進曲であった。
彼女の持ち込んだ詩稿のなかにはすでに印刷されているものも沢山あったが、庸三はその一つ二つを読んでいるうちに、詩のわからない彼ではあったが、何か彼女の魂の苦しみに触れるような感じがして、つい目頭《めがしら》が熱くなり、心弱くも涙が流れた。
「これをどこか出してくれる処《ところ》がないものかと思いますけれど……。」
「そうね、ちょっと僕ではどうかな。」
「ほんとうは私自費出版にしたいと思うんですけれど、そのお金ができそうもないものですから。」
「そうね、僕も心配はしてみるけれど……。」
庸三は暗然とした気持で、彼女の生活を思いやるだけであった。
「先生も大変ですね。お子さまが多くて……。梢さんどうなさいましたの。」
「葉子は今田舎にいますけど……。」
「私のようなものでよかったら、お子さんのお世話してあげたいと思いますけれど。」
「貴女《あなた》がね。それは有難いですが……。事によるとお願いするかも知れません。」
「ええいつでも……。」
彼女は机の上にひろげた詩稿を纏《まと》めて帰って行った。
彼はその日のうちに葉子に手紙を書いた。その詩を讃《ほ》めると同時に、子供の世話を頼もうかと思っている云々《うんぬん》と。すると三日目に葉子から返事がとどいて、長々しい手紙で、少しいきり立った文句で、それに反対の意見を書いて来た。でなくとも、女給をして来た人では、庸三の家政はどうかという意見もほかの人から出たので、彼もそれは思い止《とど》まることにした。
庸三は風呂《ふろ》で汗を流してから、いつもの風通しのいい小間で、小夜子とその話をしていた。
この水辺の意気造りの家も、水があるだけに、来たてにはひどく感じがよかったが、だんだん来つけてみると、彼女の前生活を語るようなもろもろの道具――例えば二十五人の人夫の手で据《す》えつけたという、日本へ渡って来た最大の独逸《ドイツ》製金庫の二つのうちの一つだという金庫なぞがそれで、何かそこらの有閑マダムのような雰囲気《ふんいき》ではあったが、室内の装飾などは、何といってもあまり感じのいいものではなかった。
「そのうち追々取り換えるんだね。」
庸三は窓際《まどぎわ》に臥《ね》そべっていた。小夜子も彼の頭とほとんど垂直に顔をもって来て、そこに長くなっていた。そうして話していると、彼女の目に何か異様な凄《すご》いものが走るのであった。
「私芝にいた時、ちょうど先生にお目にかかった時分、こういうことがあったんです。」
小夜子は語るのであった。
「ある人がね、私は麹町《こうじまち》の屋敷を出たばかりで、方針もまだ決まらない時分なの。するとその人がね、君ももう三十を過ぎて、いろんなことをやって来ている。鯛《たい》でいえば舐《ねぶ》りかすのあらみたいなもんだから、いい加減見切りをつけて、安く売っ
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