た。
 夜になってから、彼は葉子の母に当てて問合せの電報を打ってみたが、
 ヨウコマダツカヌ
 という返電の来たのは、その夜も大分|更《ふ》けてからであった。

 ある晩庸三は子供の庸太郎と通りへ散歩に出た。彼はせっかく懐《ふとこ》ろへ飛びこんで来た小鳥を見失ったような気持で、それから先の、格別成算がついているわけでもないのに、ひたすら葉子の幻を探し求めてやまないのであった。庸三が今まで何のこともなく過ぎて来たのは、人間的の修養が積んでいるとか、理性的な反省があるからというのでは決してなかった。ただ生《お》い育って来た環境の貧弱さや、生まれつきの愚鈍と天分の薄さの痛ましい自覚に根ざしている臆病《おくびょう》と、そういった寂しい人生が、彼の日常を薄暗くしているにすぎなかった。出口を塞《ふさ》がれたような青春の情熱が燻《くすぶ》り、乏しい才能が徒《いたず》らに掘じくり返された。彼はいつとなし自身の足許《あしもと》ばかり見ているような人間になってしまった。悪戯《いたずら》な愛の女神が後《おく》れ走《ば》せにもその情熱を挑《か》き立て、悩ましい惑乱の火炎を吹きかけたのだったが、そうなると、彼にもいくらかの世間的な虚栄や好奇な芝居気も出て来て、ちょっと引込みのつかないような形だった。
 庸三は昨夜もよく眠れなかったし、このごろの体の疲れも癒《い》えてはいなかった。後になって葉子もたびたび逃げ出したし、庸三も逐《お》い出したりして、別れた後ではきっと、床を延べて寝ることにしていたが、近所のドクトルに来てもらうこともあった。起きていると何か行動しなければならない衝動に駆られがちなので、静かに臥《ね》そべって気分の落ち着くのを待つことにしたのであったが、その時はまだそういうことにも馴《な》れていなかった。後にしばしば彼の気持を支配して来た職業心理というものも混ざりこんではいなかった。ただ方嚮《ほうこう》のない生活意慾の、根柢《こんてい》からの動揺でしかなかった。
 子供は父を劬《いた》わりながら、並んで歩いた。
「やっぱりここにいるんじゃないかな。」
 例の旅館の前まで来かかった時、子供もその気がすると見えて、そう言うのだった。
「きいてみよう。」
 庸三もその気になって、入口の閾《しきい》を跨《また》いで訊《き》いてみた。年増《としま》の女中が店に立っていて、
「梢さんですか、あの方昨日ちょっと見えましたよ、いつもの処《ところ》へ仕立物を取りにおいでになって……。」
「どこにいるでしょう。」
「さあ、それは知りませんですよ。」
 いつもの仕立屋さんというのは、妻が長年仕立物を頼んでいた、近所の頭《かしら》のお神さんのことで、庸三も疳性《かんしょう》のそのお神さんの手に縫ったものを着つけると、誰の縫ったものでも、ぴたり気持に来ないのであった。葉子も二三枚そこで仕立てて腕のいいことを知っていた。
 その話をきいているうちに、庸三はにわかに弱い心臓が止まるような感じだった。
「つい家《うち》の側まで来ていて……。」
 それが一時に彼を絶望に突きやった。そしてふらふらとそこを出て来ると四辺《あたり》が急に暗くなって、子供の手にも支えきれず、酒屋の露地の石畳のところにぐんなり仆《たお》れてしまったのだった。脳貧血の発作は彼の少年期にもあったが年取ってからも歯の療治とか執筆に苦しむ時などに、起こりがちであった。病院の廊下で仆れたり巷《ちまた》の雑踏を耳にしながら、ややしばし路傍に横たわっていたりしたこともあった。しかし今彼はそう長くは仆れてもいなかった。夏の宵《よい》の街《まち》でのことで、誰か通りすがりの人の声が耳元でしたかと思うと、たちまち蘇《よみがえ》って歩き出した。

 大分たってからある日葉子の手紙が届いた。咲子|宛《あて》のもので、彼女の名も居所も書いてなかった。何か厚ぼったいその封書を手にした瞬間、彼はちょっと暗い気持になったが、とにかく開けて見た。
 咲子はちょうど三四日病気していた。時々発作的に来る病気で、何か先天的な心臓の弁膜か何かの故障らしく胸部に痛みを感ずるものらしかった。長いあいだ子供の病気や死には馴《な》れている庸三だったが、夙《はや》く母に訣《わか》れた咲子の病気となると、一倍心が痛んだ。
「大きくなれば癒《なお》りますが、今のところちょっと……。」
 医師は言うのであった。
「おばちゃん! おばちゃん。」
 そう言って泣く咲子の声が耳に滲《し》みとおると、庸三の魂はひりひり疼《うず》いた。彼女は一度言い聞かされると、その瞬間から慈母のことは一切口にしなくなったが、それだけに、葉子の愛情は一層必要となった。童謡や童話で、胸をさすられたり、出ればきっとチョコレイトか何かを買ってくれて、散歩にもつれて行けば、頸《くび》を剃《そ》ったり、爪《つめ》を切ったり、細かい面倒を見てくれる若い葉子の軟《やわ》らかい手触りは、ただそれだけですっかり彼女を幸福にしたものだったが、それが瑠美子の母として彼女をおいて出て行ったとなると、それは何といっても酷《むご》い運命であった。
「咲子ちゃん、葉子さんの写真を枕《まくら》の下へ入れているんですのよ。」
 姉が庸三に話した。枕頭《ちんとう》へ行って見るとその通りであった。葉子は瑠美子の母で、もう今までのようにお前を愛していることはできないのだ――庸三はそれを言い聴《き》かすこともできなくて、ただ受動的に怺《こら》えているよりほかなかった。この子供と一緒に死ぬのも救いの一つの手だという気もした。
 そこへ葉子の手紙だった。そして幾枚もの色紙に書かれた手紙と一緒に、咲子への贈りものの綺麗《きれい》な色紙もどっさり入っていた。それを病床へ届けてから、彼は子供と二人で幾枚かの切手のべたべた貼《は》られた封筒の消印を透かして見た。
「スタムプは猿楽町《さるがくちょう》の局ですよ。」
「ふむ――じゃ神田だ。しかし神田も広いから。」
「ひょっとしたら、一色《いっしき》さんが知ってやしないかな。」
 彼はまさかと思った。一色が知っているような気もしたが、黙って引き退《さが》っている一色を、年効《としがい》もなく踏みつけにしていることを考えると、そう思いたくはなかった。葉子がどういうふうに一色を言いくるめたのか――それにも触れたくはなかった。彼は強《し》いても一色を見向かないことにしていたが、一色が蔭《かげ》で嗤《わら》っているようにも思えた。あたかもそれは借金の証文を握っている友達の寛容に甘えて、わざと素知らぬふうをしていると同じような苦痛であった。
「奥さんのある人、私やっぱりいい気持しないのよ。それに一色さん有閑マダムが一人あるんですもの。」
 葉子は気休めを言っていたが、庸三の弁解には役立ちそうもなかった。それどころか、庸三は今葉子の手懸《てがか》りを一色に求めようとさえしているのだった。
「お前ちょっと一色んとこへ行って、様子を見て来てくれるといいんだけど。」
「そうですね。行ってもいいけれど……じゃちょっと電話かけてみましょうか。」
 庸太郎は近所へ電話をかけに行ったが、じきに還《かえ》って来た。
「やはり行かないらしいですね。今来るそうです。あまり心配させてはいけないからって……一色さんいい人ですね。」
 庸三は妻の死んだ時、金を持って来てくれたり、寂しい子供たちの気分を紛らせるために、ラジオを装置してくれたりした、一色の好意も思わないわけではなかったが、何か自我的な追求心も働いていた。撞着《どうちゃく》が撞着のようにも考えられなかった。葉子への優先権というようなものをも、曖昧《あいまい》な計算のなかへそれとなく入れてもいたのであった。
 一色はタキシイを飛ばして来た。
「葉子さんいないんですてね。」
 庸三はわざと一色が知らないようなふうにして、葉子の出て行った前後の話をした。――郵便の消印のことも。
「それですと、替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ。」
「南明座かしら。」
 庸三は幾度も同伴したシネマ・パレスを覗《のぞ》いてみようかと一度は思ったこともあったが、当てなしの捜索は徒《いたず》らに後の気持を寂しくするにすぎないのに気づいていた。もしかしたら誰か若い人とアベックだかも知れないという畏《おそ》れもあった。
「もしそれでも知れなかったら、私、神田の警察に懇意な男がいますから、調べてもらえばきっと知れますがね。」
「いや、そんなにしなくたって……。」
「いずれそのうち現われるでしょうけれど。」
 そう言って、一色はしばらく話しこんでから、警察の人への紹介を名刺に書いたりして、帰って行った。

 翌日の午後、庸三は神田の方へ出向いて行った。何ということなし子供も一緒だった。そして猿楽町辺をぶらぶら歩きながら、二三軒の旅館を訪ねてみたが、子供に興味のあるはずもないので、古本屋をそっちこっち覗《のぞ》いてから、神保町《じんぼうちょう》の盛り場へ出てお茶を呑《の》んで帰って来た。まだそのころは映画も思わせぶりたっぷりな弁士の説明づきで、スクリンに動く人間に声のないのも、ひどく表情を不自然なものにしていたので、庸三はわざわざ活動館へ入りたいとは思わなかったし、喫茶店にも興味がなかったが、子供とではたまにそういう処《ところ》へも足を容《い》れるのであった。

 翌朝庸三は持越しの衝動的な気持で、駿河台《するがだい》の旅館街を彷徨《ほうこう》していた。
 ずっと以前に、別れてしまった妻を追跡して、日光辺の旅館を虱潰《しらみつぶ》しに尋ねて、血眼で宿帳を調べてあるき、到頭その情人の姓名を突き留め、二人が泊まったという部屋まで見届けたという、友人の狂気じみた情痴に呆《あき》れたものだったが、今はそれも笑えなかった。機会次第では彼もどんな役割を演じかねないのであった。
 まず取っつきの横町の小さな下宿屋を二三軒きいてみた。ちょうど女中が襷《たすき》がけで拭《ふ》き掃除に働いている時間だったが、ある家では刑事と見られた感じを受けた。支那《シナ》の留学生の巣が、ごみごみしたその辺に軒を並べていた。
 いい加減に切り揚げて、やがてその一|区劃《くかく》をぬけて、広い通りの旅館を二軒と、アパアト風の洋館を一軒当たってみたが、無駄であった。そして当てなしにぶらついているうちに、いつか小川町《おがわまち》の広い電車通りへ出て来て、そこから神保町の方嚮《ほうこう》へと歩くのだったが、その辺は不断通っていると、別に何の感じもないのだったが、今そうやって特殊の目的のために気を配って歩いていると、昔その辺を毎晩のように散歩していた気軽な下宿生活の匂いが、その時代の街《まち》の気分と一緒に、嗅《か》げて来るのであった。濠端《ほりばた》の近くにあった下宿の部屋が憂鬱《ゆううつ》になって来ると、近所にいた友人の画家を誘って、喫茶店の最初の現われとも言える、ミルク・ホウルともフルウツ・パラアともつかない一軒の店で、パイン・アップルを食べたり、ココアを飲んだりした。ある夜は寄席《よせ》へ入って、油紙に火がついたように、べらべら喋《しゃべ》る円蔵の八笑人や浮世床を聴《き》いたものだった。そうしているうちに、彼は酷《ひど》い胃のアトニイに罹《かか》った。
「あれから何年になるか。」
 彼は振り返った。
 神保町の賑《にぎ》やかな通りで、ふとある大きな書店の裏通りへ入ってみると、その横町の変貌《へんぼう》は驚くべきもので、全体が安価な喫茶と酒場に塗り潰《つぶ》されていた。透かして視《み》ると、その垠《はずれ》に春光館と白く染めぬいた赤い旗が、目についたので、庸三はどうせ無駄だとは思ったが行って見た。するとその貧弱なバラック建の下宿兼旅館の石段を上がって、玄関へ入って行った彼の目の前に、ちょうど階段の裏になっている廊下の取っ着きの、開きの襖《ふすま》があいていて、その部屋の入口に、セルの単衣《ひとえ》を着て、頭の頂点で彼女なりに髪を束ねた葉子が、ちょこなんと坐っていた。ほ
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