を尊崇していた。そこから出て来る耳新しい文学論は、葉子にも刺戟《しげき》があった。

「いる、いる!」
 窓から顔を出している瑠美子が目の前へ来た時、子供は頬笑《ほほえ》ましげに叫んだのだったが、庸三は何か冒険に狩り立てられるような不安を抱《いだ》いた。心は鎖《とざ》されていたが、しかしそれで葉子の落着きも出来そうに思えた。
 父が上海《シャンハイ》に遯《のが》れてから、瑠美子と幼い妹と弟とは、継母とその子供と一緒に、小樽の家を畳んで、葉子の町からはちょっと距離のある、継母の実家のある町に移って来た。その動静が葉子の母親たちの耳へも伝わって、惨《みじ》めに暮らしていることが解《わか》ったところで、奪取が企てられた。金を葉子に贈るために、四月に松川が東京に立ち寄った時、葉子は初めて瑠美子だけでも還《かえ》してくれるように哀願したのだったが、拒まれた――そう言って葉子は庸三に泣いていたものだったが、今その子供と一緒に庸三の家に落ち着いた彼女はたちまちにしてそこに別の庸三を見出《みいだ》した。
 母親がわりの葉子の愛を見失うまいとして取り着いて来る、庸三の末の娘の咲子と、幾年ぶりかで産みの母の手に帰って来た瑠美子と、そのいずれもの幼い心を傷つけまいとして、葉子は万遍なく愛撫《あいぶ》の心と手を働かした。外へ出る時、大抵彼女は咲子の手を引いていたが、咲子はまた瑠美子と手を繋《つな》いで歩いた。夜寝るときも葉子は二人を両脇《りょうわき》にかかえるか、眠るまで咲子だけを抱くようにして、童謡を謳《うた》ったり、童話を聞かせたりした。――と、そういうふうに庸三の目にも見え、心にも感じられたが、微妙な子供たちの神経を扱いわけるのは、彼女にも重すぎる仕事であった。
 ある日も咲子は、学校から退《ひ》けて来ると、彼女の帰るのを待っていた瑠美子と、縁側で翫具《おもちゃ》を並べて遊んでいた。細かい人形、お茶道具、お釜《かま》に鍋《なべ》やバケツに洗濯板《せんたくいた》、それに色紙や南京玉《ナンキンだま》、赤や黄や緑の麦稈《むぎわら》のようなものが、こてこて取り出された。
「瑠美子にも分けてあげなさいね。」
 傍《そば》に見ていた庸三が言うと、
「なに? これ?」
 咲子は色紙と麦稈とを、いくらか分けて与えたが、瑠美子は寂しそうで、色紙も麦稈もじき庭へ棄《す》ててしまった。葉子は傍ではらはらするように、立ったり坐ったりしているのだったが、庸三はそのころから身のまわりのものを何かとよく整理しておく咲子のものを分けさせる代りに、瑠美子には別に同じようなものを買ってやった方がいいと思っていた。
 死んだ姉から持越しの、咲子にとっては何より大切な大きい人形がまた瑠美子を寂しがらせ、母親の心を暗くした。
「先生のお子さんで悪いけれど、咲子さん少しわがままよ。あれを直さなきゃ駄目だと思うわ。」
「君が言えば聴《き》くよ。」
 庸三は答えたが、彼自身の気持から言えば、死んだ久美子の愛していた人形を、物持ちのいいとは思えない瑠美子に弄《いじ》らせたくはなかったので、ある日葉子に瑠美子をつれてデパアトへ買いものに行ったついでに、中ぐらいの人形を瑠美子に買ってやった。咲子のより小さいので、葉子も瑠美子も悦《よろこ》ばなかったが、庸三はそれでいいというふうだった。
 庸三はずっと後になるまで――今でも思い出して後悔するのだが、ある日葉子と子供たちを連れ出して、青葉の影の深くなった上野を散歩して、動物園を見せた時であった。そのころ父親の恋愛事件で、学校へ通うのも辛《つら》くなっていた長女も一緒だったが、ふと園内で出遭《であ》った学友にも、面を背向《そむ》けるようにしているのを見ると、庸三も気が咎《とが》めてにわかに葉子から離れて独りベンチに腰かけていた。と、それよりもその時に限って、何かめそめそして不機嫌《ふきげん》になった咲子を見ると、初めは慈愛の目で注意していたが、到頭|苛々《いらいら》して思わず握り太な籐《とう》のステッキで、後ろから頭をこつんと打ってしまったのであった。
 それから間もなく、ある朝庸三が起きて茶の間へ出ると、子供はみんな出払って、葉子が独り火鉢《ひばち》の前にいた。細かい羽虫が軒端《のきば》に簇《むら》がっていて、物憂《ものう》げな十時ごろの日差しであった。いつもの癖で、起きぬけの庸三は顔の筋肉の硬《こわ》ばりが釈《と》れず、不機嫌《ふきげん》そうな顔をして、長火鉢の側へ来て坐っていた。子供の住居《すまい》になっている裏の家へ行っていると見えて、女中の影も見えなかった。が葉子は何か落ち着かぬふうで、食卓のうえに朝飯の支度《したく》をしていた。瑠美子はどうしたかと思っていると、大分たってから、腰障子で仕切られた四畳半から、母を呼ぶ声がした。葉子は急いで傍へ行って着物を着せ茶の間へつれ出して来た。
「おじさんにお早ようするのよ。」
 瑠美子は言う通りにした。
「寝坊だな。」
 庸三は言ったきり、むっつりしていた。葉子はちょっと台所へ出て行ったが、間もなく傍へ来て坐った。かと思うと、また立って行った。庸三は何かお愛相《あいそ》の好い言葉をかけなければならないように感じながら、わざとむっつりしていた。そして瑠美子が箸《はし》を取りあげるのを汐《しお》に、見ているのが悪いような気もして、やがて立ちあがった。そして机の前へ来て煙草《たばこ》をふかしていた。と、いきなり葉子が転《ころ》がるように入って来たと思うと、袂《たもと》で顔を蔽《おお》って畳に突っ伏して泣き出した。彼女は肩を顫《ふる》わせ、声をあげて泣きながら、さっきから抑え抑えしていた不満を訴えるのだった。
「先生という人は何て冷たい人間なんでしょう。先生が気むずかしい顔だから、私がはらはらして瑠美子にお辞儀をさせても、先生はまるで凍りついたような表情をして、笑顔《えがお》一つ見せてくれようとはしないんです。あの幼い人が先生の顔を見い見いして神経をつかっているのに、先生は路傍の人の態度で外方《そっぽ》むいているじゃありませんか。私は心が暗くなって、幾度となく台所へ出て涙を拭《ふ》き拭きしていたのでした。私たち母子《おやこ》は先生のところのお茶|貰《もら》いになぞなりたくはありません。」
 葉子は途切れ途切れに言って、激情に体を戦《おのの》かせていた。庸三は驚き傍《そば》へ寄って、宥《なだ》めの言葉をかけたが、効《かい》がなかった。起きあがったと見ると、次の間で箪笥《たんす》の前に立って何かがたがたやっていたが、そのまま瑠美子を引っ張って、旋風のごとく玄関へ飛び出した。
 少し狼狽《ろうばい》して、庸三は出て見たが、「二度と己《おれ》の家の閾《しきい》を跨《また》ぐな」と尖《とが》った声を浴びせかけて、ぴしゃりと障子を締め切った。
 やがて学校を退《ひ》けて来た咲子が、部屋から部屋を捜しあるいた果てに、父の書斎へ来て寂しそうに立っていた。庸三は何かせいせいした感じでもあったが、寂しさが次第に胸に這《は》いひろがって来た。彼女の憤りを爆発させた今朝の態度の不覚を悔いてもいた。
「おばちゃんは?」
「おばちゃんは出て行った。」
「瑠美子ちゃんも?」
「そう。」
「もう帰ってこないの。」
「帰ってこないよ。」
 庸三は言ったが、どこかそこいらを歩いている親子の姿が見えるように思えてならなかった。
 しばらくすると彼は寂しそうにしている咲子の手をひいて、ふらりと外へ出て行った。

      七

 街《まち》はどこもかしこも墓地のように寂しかった。目に映るもののすべてが――軒を並べている商店も、狭い人道をせせっこましく歩いている人間も、ごみごみして見えた。往《ゆ》き逢《あ》う女たちの顔も石塊《いしころ》のように無表情だった。ちょうどそれは妻を失った間際《まぎわ》の味気ない感じを、もう一つ掘りさげたような侘《わび》しさで、夏の太陽の光りさえどんよりしていた。新芽を吹くころの、または深々と青さを増して行くころの、それから黄金色《こがねいろ》に黄ばんだ初冬の街路樹の銀杏《いちょう》を、彼はその時々の思いで楽しく眺めるのだったが、今その下蔭《したかげ》を通ってそういう時の快い感じも、失われた生の悦《よろこ》びを思い返させるに役立つだけのようであった。もう長いあいだ二十年も三十年もの前から慢性の神経衰弱に憑《つ》かれていて、外へ出ても、街の雑音が地獄の底から来るように慵《ものう》く聞こえ、たまたま銀座などへ出てみても目がくらくらするくらいであったが、葉子と同棲《どうせい》するようになってからは、彼は何か悽愴《せいそう》な感じと悲痛の念で、もしもこんなことが二年も三年も続いたならと、そぞろに灰色の人生を感ずるのであったが、しかし自身の生活力に信用がおけないながらに、ぶすぶす燃える情熱は感じないわけにいかなかった。異性の魅力――彼はそれを今までそんなに感じたこともなかったし、執着をもったこともなかった。
「おばちゃんどこへ行ったの?」
 咲子がきいた。
「さあね。」
 ちょうど彼女が宿泊していた旅館の前も通りすぎて、彼は三丁目の交叉点《こうさてん》へ来ていた。旅館の前を通る時、そこの二階の例の部屋に彼女と子供がいるような気もして、帳場の奥へ目をやって見たのであったが、そこを通りすぎて一町も行ったところで、ちょうどその時お馴染《なじみ》の小女が向うから来てお辞儀をした。彼女も葉子と同じ郷里の産まれで、髪を桃割に結って小ばしこそうに葉子の用を達《た》していたものだが、お膳《ぜん》を下げたりするついでに、そこに坐りこんで、小説や映画の話をしたがるのであった。後に葉子ともすっかり遠くなってしまってから、彼は四五人のダンス仲間と一緒に入った「サロン春」で、偶然彼女に出遭《であ》ったものだったが、二三年のあいだに彼女はすっかり好い女給になっていた。
「葉子君んとこへ行かなかった?」
「梢《こずえ》さん? いいえ。お宅にいらっしゃるんじゃないんですか?」
 何か知っているのではないかと思ったが、そのままに別れた。
 この辺は晩方妻とよく散歩して、庸三のパンや子供のお弁当のお菜や、または下駄《げた》とか足袋《たび》とか、食器類などの買い物をしつけたところで、愛相《あいそ》のよかった彼女にお辞儀する店も少なくなかったが、葉子をつれて歩くようになってから、下駄屋や豆屋も好い顔をしなくなった。庸三もその辺では買いものもしにくかった。葉子と散歩に出れば、きっと交叉点から左へ曲がって、本屋を軒並み覗《のぞ》いたり、またはずっと下までおりて、デパアトへ入るとか、広小路で景気の好い食料品店へ入ったりした。気が向くとたまには寄席《よせ》へも入ってみた。活動の好きな彼女はシネマ・パレスへは大抵欠かさず行くので、彼も電車で一緒に行って見るのであったが、喫煙室へ入ると、いつもじろじろ青年たちに顔を見られ、時とすると彼女の名をささやく声も耳にしたりするので、彼は口も利かないようにしていた。「闇《やみ》の光」、「復活」などもそこで彼女と一緒に見た無声映画であった。それに翻訳物も彼女はかなり読んでいて、話上手な薄い唇《くちびる》から、彼女なりに色づけられたそれらの作品の梗概《こうがい》を聴《き》くことも、読むのを億劫《おっくう》にしがちな庸三には、興味ある日常であった。
 庸三は三丁目から電車に乗って、広小路のデパアトへ行ってみた。咲子に何か買ってやろうと思ったのだが、ひょっとしたら子供の手を引いて、葉子がそこに人形でも買っていはしないかという、莫迦《ばか》げた望みももっていたのだった。彼は狐《きつね》に憑《つ》かれた男のように、葉子の幻に取り憑かれていた。そして無論いるはずもないことに気がつくと、今度は一旦|彷徨《さまよ》い出した心に拍車がかかって、急いでそこを出ると、今度は上野駅へ行ってみるのであったが、ちょうど東北本線の急行の発車が、夜の七時何十分かのほかにないことが解《わか》ると、自分のしていることがにわかに腹立たしくなって、急いでそこを出てしまっ
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