のであったが、庸三はそんな気にはなれなかった。
「僕は誰とも結婚はしません。」
彼はそう言って、自身の生活環境と心持を真面目《まじめ》に説明した。記者は時代の青年らしい感想など、無遠慮に吐いて、やがて帰って行った。
六
雪国らしい侘《わび》しさの海岸のこの町のなかでも、雪の里といわれるその辺一帯は、鉄道の敷けない前の船着場として栄えていたころの名残《なごり》を留《とど》めているだけに、今はどこにそんな家があるのか解《わか》らない遊女屋の微《かす》かな太鼓の音などが、相当歩きでのある明るい町の方へ散歩した帰りなどにふと耳についたりするのだったが、途中には奥行きの相当深いらしい料亭《りょうてい》の塀《へい》の外に自動車が二三台も止まっていたりして、何か媚《なま》めかしい気分もただよっていた。
「ここのマダム踊りの師匠よ。近頃は雪枝さんを呼んで、新舞踊もやっているのよ。」
葉子はそう言って、そのマダムが話のわかるインテリ婦人であることを話した。庸三は着いた日にさっそく来てくれた彼女の兄の家や、懇意にしている文学好きの医学士の邸宅などへも案内された。歯科医の兄は東京にも三台とはない器械を備えつけて、町の受けはよかった。ある晩は料亭で、つぶ貝などを食べながら、多勢《おおぜい》の美人の踊る音頭《おんど》を見せられ、ある時はまた川向いにある彼女の叔母《おば》の縁づき先であった町長の新築の屋敷に招かれて、広大な酒蔵へ案内されたり、勾欄《こうらん》の下を繞《めぐ》って流れる水に浮いている鯉《こい》を眺めながら、彼の舌にも適《かな》うような酒を呑《の》んだりした。葉子はそんな家へ来ると、貰《もら》われた猫のように温順《おとな》しくなって、黒の地紋に白の縫紋のある羽織姿で末席にじっと坐っているのだったが、昔から、その作品を読んだり、東京でも、一度|逢《あ》ったことのある青年が一人いたので、庸三は手持|無沙汰《ぶさた》ではなかった。葉子と又従兄《またいとこ》くらいの関係にあるその青年は、町で本屋をしていたが、傍《かたわ》ら運動具の店をも持っていた。その細君はこの町長の養女であった。勾配《こうばい》の急なその辺の街《まち》を流れている水の美しさが、酒造りにふさうのであった。その山地をおりて、例の川に架《か》かった古風な木橋を渡ると、そこはどこの田舎《いなか》にもあるような場末で、葉子の家もそう遠くなかった。
庸三が寝起きしている離れの前には、愛らしい百日草が咲き盛っていたが、夏らしい日差しの底にどこか薄い陰影があって、少しでも外気と体の温度との均衡が取れなくなると、彼は咳をした。葉子は取っ着きの家からシャツを取ってくれたりしたが、母親は母親で、蔵にしまってある古いものの中から、庸三が着ても可笑《おか》しくないような黄色いお召の袷《あわせ》や、手触りのざくりとした、濃い潮色《うしおいろ》の一重物《ひとえもの》を取り出して来たりした。ある日はまたにわかに暑くなって、葉子は彼をさそって橋の下から出る蟹釣船《かにつりぶね》に乗って、支那《シナ》の風景画にでもあるような葦《あし》の深いかなたの岩を眺めながら、深々した水のうえを漕《こ》いで行った。葉子の家の裏あたりから、川幅は次第に広くなって、浪に漾《ただよ》っている海猫《うみねこ》の群れに近づくころには、そこは漂渺《ひょうびょう》たる青海原《あおうなばら》が、澄みきった碧空《あおぞら》と融《と》け合っていた。
「明朝《あした》蟹子《かにこ》持って来るのよ。きっとよ。私の家《うち》知っているわね。」
葉子は帯の間から蟇口《がまぐち》を出して、いくらかの金を舟子に与えたが、舟はすでに海へ乗り出していて、間もなく渚《なぎさ》に漕ぎ寄せられた。葉子は口笛を吹きながら、縞《しま》セルの単衣《ひとえ》の裾《すそ》を蹇《かか》げて上がって行くと、幼い時分から遊び馴《な》れた浜をわが物顔にずんずん歩いた。手招きする彼女を追って行く庸三の目に、焦げ色に刷《は》かれた青黛《せいたい》の肌の所々に、まだ白雪の残っている鳥海山の姿が、くっきりと間近に映るのであった。その瞬間庸三は何か現世離れのした感じで、海に戯れている彼女の姿が山の精でもあるかのように思えた。庸三はきらきら銀沙《ぎんさ》の水に透けて見える波際《なみぎわ》に立っていた。広い浜に人影も差さなかった。
「僕の田舎の海よりも、ずっと綺麗《きれい》で明るい。」
「そう。」
彼は彼女の拡《ひろ》げる袂《たもと》のなかで、マッチを擦《す》って煙草《たばこ》を吹かした。
「君泳げる?」
「海へ入ると父が喧《やかま》しかったもんで……。」
「何だか入ってみたくなったな。」
庸三は裸になって、昔、郷里の海でしたように、不恰好《ぶかっこう》な脛《すね》――腿《もも》にひたひた舐《な》めつく浪《なみ》のなかへだんだん入って行って、十間ばかり出たところで、泳いでみたが、さすがに鳥肌が立ったので、やがて温かい砂へあがって、日に当たった。新鮮な日光が、潮の珠《たま》の滑る白い肌に吸い込まれるようであった。
葉子は素直に伸びた白い脛を、浪に嬲《なぶ》らせては逃げ逃げしていた。
葉子が思いがけなく継母の手から取り戻した、長女の瑠美子《るみこ》をつれに、再び海岸の家へ帰って行ったのも、それから間もないことであった。彼女は十六時間もかかる古里と東京を、銀座へ出るのと異《かわ》らぬ気軽さで往《い》ったり来たりするのであった。この前東京へ帰ろうとする時彼女はいざ切符売場へ差しかかると、少しこじれ気味になって、瞬間ちょっと庸三をてこずらせたものだった。二人は売場を離れて、仕方なしに線路ぞいの柵《さく》について泥溝《どぶ》くさい裏町をしばらく歩いた。ポプラの若葉が風に戦《おのの》いて、雨雲が空に懸《か》かっていた。庸三が結婚形式を否定したので、母や親類の手前、ついて帰れないというようなことも多少彼女の心を阻《はば》んだのであろうが、いつものびのびした処《ところ》に意の趣くままに暮らして来た彼女なので、手狭な庸三の家庭に低迷している険しい空気に堪えられるはずもなかった。けれど庸三は無思慮にもすっかり正面を切ってしまった。もともと世間からとやかく言われてややもするとフラッパの標本のようにゴシップ化されている彼女ではあったが、ふらつきがちな魂の憩《いこ》い場所を求めて、あっちこっち戸惑いしているような最近数年の動きには、田舎《いなか》から飛び出して来た文学少女としては、少し手の込んだ夢や熱があって、長年家庭に閉じこもって、人生もすでに黄昏《たそがれ》に近づいたかと思う庸三の感情が、一気に揺り動かされてしまった。何よりも彼女の若さ美しさが、充《み》たされないままに硬化しかけていた彼の魂を浮き揚がらせてしまった。涙を流して喰ってかかる子供の顔が醜く見えたり、飛びこんで来て面詰する、親しい青年の切迫した言葉が呪《のろ》わしいものに思われたりした。耳元にとどいて来る遠巻きのすべての非難の声が、かえって庸三に反撥心《はんぱつしん》を煽《あお》った。彼は恋愛のテクニックには全く無教育であった。若い時分にすらなかった心の撓《たわ》みにも事かいていた。臆病《おくびょう》な彼の心は、次第に恥知らずになって、どうかすると卑小な見えのようなものも混ざって、引込みのつかないところまで釣りあげられてしまった。
引込みのつかなかったのは、庸三ばかりではなかった。すっかり自分のものになしきってしまった庸三からの逃げ道を見失って、今は彼女も当惑しているのであった。
「僕を独りで帰そうというんだね。」
庸三はすれすれに歩いている葉子を詰《なじ》った。一抹《いちまつ》の陰翳《いんえい》をたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。
「そうじゃないけど、少し話も残して来たし、私後から行っちゃいけない?」
「そうね。」
「先生はいいのよ。だけどお子さんたちがね。」
葉子は別居を望んでいたが、子供たちから離れうる彼ではないことも解《わか》っていた。そして庸三の悩みもそこにあった。彼は「今までの先生の家庭の仕来《しきた》り通りに……」と誓った葉子のかつての言葉を、とっこに取るにはあまりに年齢の違いすぎることも知っていたが、彼女に殉じて子供たちから離れるのはなおさら辛《つら》かった。独りもののいつもぶつかるデレムマだが、同時にそれは当面の経済問題でもあった。何よりも彼は、葉子の苦しい立場に対する客観を欠いていた。
とにかく次ぎのA――市行きを待って、葉子も朗らかに乗りこんだ。そして東京行きの夜行を待つあいだ、タキシイでざっと町を見てまわった。風貌《ふうぼう》の秀《ひい》でた藩公の銅像の立っている公園をも散歩した。
汽車に乗ってからも、庸三は滞在中の周囲の空気――自身の態度、何か気残りでもあるらしい葉子の素振りなどが気にかかった。町の写真師の撮影所で、記念写真を撮《と》られたことも何か気持にしっくり来なかった。撮影所は美しい※[#「※」は「木+要」、第4水準2−15−13、166−下−21]垣《かなめがき》の多い静かな屋敷町にあったが、葉子はかつての結婚式に着たことのある、長い振袖《ふりそで》に、金糸銀糸で鶴《つる》や松を縫い取った帯を締め、近いうち台湾にいる理学士のところへ嫁《とつ》ぐことになっている妹も、同じような式服で、写場へ乗りこんだものだった。姉妹の左右に母と嫂《あによめ》とが並んで腰かけ、背の高い兄と低い庸三が後ろに立った。――庸三は二度とここへ来ることもないような気がした。
瑠美子をつれて葉子の乗っている汽車が着いた時、庸三は長男と一緒に歩廊に立っていた。
何といっても葉子にとって、彼の大きい子供は鬼門であったが、若い同志の文学論や音楽、映画の話では、二人は好い仲間であった。彼は父には渋面を向けても、手触りの滑《なめ》らかな葉子には諧謔《かいぎゃく》まじりに好意ある言葉を投げかけないわけに行かなかった。
ある時庸三は彼女と一緒に、本郷座の菊五郎の芝居を見に行ったことがあった。
「君芝居|嫌《きら》い?」
「大好き。連れてって。」
入ってみると、出しものは忠臣蔵で、刃傷《にんじょう》の場が開いていたが、目の多いなかで二人きりでいるのが、庸三には眩《まぶ》しかった。それに彼は第三者のいることが、いつでも望ましいのであった。二人きりの差向いは、一人でいるよりも寂しかった。第三者が他人の青年か何かである場合が一番|気易《きやす》い感じであった。賑《にぎ》やかに喋《しゃべ》っている二人――葉子をみているのが、とりわけよかった。相手が子供の場合には、仄《ほの》かな不安が伴うのだったが、子供が近よらないよりも安心だった。
「子供をつれて来ればよかった。」
庸三が言うと、
「呼んで来ましょうか。」
と言って、葉子は立って行ったが、芝居がだんだん進展して行くのに、どうしたことか葉子は容易に帰ってこなかった。彼は苛《いら》ついて来た。理由がわからなかった。彼は少し中っ腹で入口へ出てみた。そして廊下をぶらついているうちに、入って来る葉子の姿が目に入った。芝居よりかお茶でも呑《の》もうというので、喫茶店へ入っていたのだことを、葉子はそっと告げた。
ある時も、彼女はパリへ立つ友人を見送る子供と三四人の同窓と、外国航路の船を見いかたがた横浜へ行こうとして、庸三の許しを乞《こ》うた。
「行ってもいい?」
庸三は危ぶんだ。
「さあね、君が行きたいなら。」
「だからお訊《き》きしたいのよ。先生がいけないというなら断わるわ。」
「僕は何ともいうわけにいかない。」
「じゃ断わるわ。」
「断わる必要はない。君が行きたいんだったら。」
その日が来たところで、結局葉子は子供たちと同行した。ちょうど庸三は用達《ようた》しに外出していたが、夜帰ってみると、彼女は教養ある青年たちのナイトぶりに感激したような口吻《こうふん》を洩《も》らしていた。そのころ彼らもだろうが、彼の子供はボオドレイルの悪魔主義や、コクトオ一派の超現実主義
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