紙を見ると、一時に心が騒ぎ立った。いくらかの恐怖はあったにしても、どんな場合にも彼女は相手の愛を信じて疑わなかった。
「何だか気味が悪いから電話してみますわ。」
葉子はそう言って、不断電話を借りつけの裏の下宿屋へ行った。
相手が出て来たところで、彼女は気軽に話しかけた。
「もしもし私よ、解《わか》って?」
「うむ、僕だよ。都合上ちょっと遠いところへ行く途中、ごく秘密に逢《あ》いたいと思って寄ったんだが、久しぶりでいろいろ話もあるし、貴女《あなた》のことも心配しているんだ。それでぜひ逢って渡したいものがあるから、ちょっとここまで来てもらいたいんだ。」
「そう、じゃすぐ行くわ。」
葉子は庸三の傍《そば》へ返ってその通りを告げた。
「ひょっとしたら少し手間取るかも知れないのよ。だけど私を信じていてね。」
葉子は湯島に宿を取っている松川を見ると、いきなり飛びついて来る彼に唇《くちびる》を出した。松川は洋服も脱がずにいたが、田端で別れたころから見ると、身綺麗《みぎれい》にしていた。彼は今顧問弁護士をしていた会社の金を三万円|拐帯《かいたい》して、留守中の家族と乾分《こぶん》の手当や、のっぴきならない負債の始末をして、一旗揚げるつもりで上海《シャンハイ》へ走るところであった。当分|潜《もぐ》っていて、足場が出来次第後妻や子供たちを呼び寄せることになっていた。葉子は涙ぐんだ。
「これは絶対秘密だよ。不自由してるだろうから、貴女にあげようと思って……これだけあれば当分勉強ができるだろう。」
松川はそう言って、ポケットの札束から大札十枚だけを数えて渡した。送らせて来た書生が席を外していたので、二人はいつも媾曳《あいびき》している恋人同志のように話し合った。
「あの先生も君を好きだろう。始終傍にいるのかい。」
「ううん……それに先生はお年召していらっしゃるから。」
日の暮れ方になって、葉子は別れて来たが、外へ出てからも涙がちょっとは乾かなかった。
庸三は騒がしい風の音を聴《き》きながら、葉子の帰るのを待ち侘《わ》びていた。憂鬱《ゆううつ》な頭脳《あたま》の底がじゃりじゃりするようで、口も乾ききっていた。彼は肉体的にも参っていた。
帰って来た葉子の目が潤《うる》んでいた。
「そのくらいのことは赦《ゆる》してもいい。」
庸三は仕方なしそういう気持にもなれたが、しかし葉子は否定した。
「あの人もう私をすっかり他人行儀の敬語を使ってるくらいよ。――私に千円くれたの。私|貰《もら》って来たわ。秘密にしてね。」
「銀行へ預けときたまえ。」
「そうするわ。」
そうしたのか、しないのか、庸三は金のことに触れようとしないのであったが、大分たってから思い出して聞いてみると、もう一銭も残っていなかった。もちろん貰って来た翌日、少し買いものをしたので、さっそく手のついたことだけは解っていたが。
松川を東京駅へ送って行ったのは、その翌日の朝であったが、庸三にも、ちょっと見送ってくれないかと言うので、一緒に行きは行ったのだったが、彼は何か照れくさくもあったし、葉子も少し気持がかわって一人でプラットホームへ上がって行った。
「子供をせめて一人だけ私にくれてくれられないかと私言ったのよ。けど駄目らしいの。やっぱり上海へ引き取るらしいわ。それがあの人たちの運命なら仕方がないと思うわ。」
丸ビルの千疋屋《せんびきや》で苺《いちご》クレイムを食べながら、葉子は涙ぐんでいた。
しかし一日二日たつと、そんな感傷もいつか消し飛んでしまって、葉子はその金でせめて箪笥《たんす》でも買いに行こうと庸三を促した。
「ねえ先生、私なんにもなくて不自由で仕様がないでしょう。お宅にいてもお茶もらいのように思われるのいやなの。松川さんのお金で箪笥と鏡だけ買いたいと思いますから、一緒に来て見てくれられない?」
二人はこのごろよく一緒に歩く通りから、切通しの方へおりて行った。そして仲通りで彼の金持の友人の買いつけの店へ誘って見た。手炙《てあぶ》り、卓、茶棚《ちゃだな》など桑《くわ》や桐《きり》で指《さ》された凝った好みの道具がそこにぎっしり詰まっていた。葉子は桑と塗物の二つか三つある中から、かなり上等な桑の鏡台を買ったが、そこの紹介で大通りの店で箪笥も一棹《ひとさお》買った。二百円余り手がついたわけだったが、今の葉子には少しはずみすぎる感じでもあった。まだどこかに薄い陰のある四月の日を浴びながら、二人は池の畔《はた》をまわって、東照宮の段々を上って行った。葉子は絶えず何か話していたが、人気の少ない場所へ来ると、どうかした拍子に加世子の噂《うわさ》が出て、それから彼女は押しくら饅頭《まんじゅう》をしながら、庸三を冷やかしづめだったが、その言葉のなかには、今まで家庭に埋《うず》もれていた彼には、ぴんと来るような若い時代らしい感覚も閃《ひら》めいていた。
「御免なさいね、奥さんのこと批判したりなんかして。でも、御近所で奥さん評判いいのよ。美容院のマダム讃《ほ》めていたわ。」
庸三は狐《きつね》に摘《つま》まれているような感じだったが、ちょうどそのころ、庸三は目に異状が現われて来て、道が凸凹《でこぼこ》してみえたり、光のなかにもやもやした波紋が浮いたりした。彼は年齢と肉体の隔りの多いこの恋愛に、初めから悲痛な恐怖を感じていたのだったが、ずっとうっちゃっておいた持病の糖尿病が今にわかに気にかかり出した。
「目が変だ。」
彼は昨日東京駅へ行く時、ふとそれを感じたのだった。
「じゃすぐ診《み》てもらわなきゃ。これから帰りに行きましょう。」
しかし馴《な》れて来ると、それはそう大して不自由を感ずるほどでもなかったが、今ふと池の畔を歩いていると、それがちょうどO――眼科医院の裏手になっているのに気がついた。診察時は過ぎようとしていたが、院長が気安く診てくれた。そして暗室へ入ったり、血液の試験をしたり、結核の有無を調べたりして、一時間以上もかかって厳密な試験をした結果、やはりそれが糖尿病に原因していることが明らかになった。
「当分つづけてカルシウムの注射をやってごらんなさい。」
院長は言うのだった。
庸三は帰りにニイランデル氏液を買って来て、埃《ほこり》だらけになっているアルコオル・ラムプと試験管とを取り出して、縁先きで検尿をやってみた。彼は病気発見当時、毎日病院へ通うと同時に、食料を一々|秤《はかり》にかけていたものだが、その当時は日に幾度となく自身で検尿もやった。それがずっと打ち絶えていたのであったが、今|蒼《あお》い炎の熱に沸騰した試験管の液体が、みるみる茶褐色《ちゃかっしょく》に変わり、煤《すす》のように真黒になって行くのを見ると、ちょっと気落ちがした。
「ほらほら真黒だ。」
彼は笑った。
「その皮肉そうな目。」
葉子も笑っていた。
庸三が葉子の勧めで、北の海岸にある彼女の故郷の家を見舞ったころには、沿道の遠近《おちこち》に桐の花が匂っていた。葉子はハンドバックに日傘《ひがさ》という気軽さで、淡い褐色がかった飛絣《とびがすり》のお召を着ていたが、それがこのごろ小肥《こぶと》りのして来た肉体を一層|豊艶《ほうえん》に見せていた。葉子はその前にも一度|田舎《いなか》へ帰ったが、その時は見送りに行った庸三の娘を二人とも、不意に浚《さら》って行ってしまった。その日は土曜日だった。葉子に懐《なつ》いている幼い子が先きへ乗ったところで、長女がそれに引かれた。
「おばちゃんの家《うち》そんなでもない!」
自然の変化の著しい雪国に育っただけに、とかく詩情の多い葉子に自慢して聞かされていたほどではなかったので、子供は失望したのであった。
海岸線へ乗り替えてからは、多分花柳気分の多いと聞いている酒田へでも行くものらしく、芸人の一団と乗り合わせたので、いくらか気が安まった。事実葉子は昨夜寝台に納まるまで、警戒の目を見張っていた。異《かわ》ったコムビなので、二人は行く先き先きで発見された。葉子で庸三がわかり、庸三で葉子が感づけるわけだった。非難と嘲弄《ちょうろう》のゴシップや私語《ささやき》が、絶えず二人の神経を脅かしていた。――ここまで来る気はなかった。庸三の周囲も騒がしかった。
芸人たちは、その世界にはやる俗俳の廻し読みなどをして陽気に騒いでいた。汽車は鈍《のろ》かった。
葉子は初め酒田あたりの風俗や、雪の里と称《よ》ばれる彼女の附近の廻船問屋《かいせんどんや》の盛っていたころの古いロオマンスなどを話して聞かせていたが、するうち飽きて来て、うとうと眠気が差して来た。――六年間肺病と闘《たたか》っていた父の生涯、初めて秋田の女学校へ入るために、町から乗って行った古風な馬車の喇叭《ラッパ》の音、同性愛で教育界に一騒動おこったそのころの学窓気分、美しい若い人たちのその後の運命、彼女の話にはいつも一抹《いちまつ》の感傷と余韻が伴っていた。
駅へは葉子の母と妹、縁続きになっている土地の文学青年の小山、そんな顔も見えた。家は真実そんなでもなかったけれど、美事な糸柾《いとまさ》の杉《すぎ》の太い柱や、木目《もくめ》の好い天井や杉戸で、手堅い廻船問屋らしい構えに見受けられた。裏庭へ突きぬける長い土間を隔てて、子供の部屋や食堂や女中部屋や台所などがあった。挨拶《あいさつ》がすんでから、庸三は二階へ案内されたが、そこには広い縁側に古びた椅子《いす》もあった。そこの広間がかねがねきいている、二日二晩酒に浸っていた松川との結婚の夜の名残《なご》りらしかったが、彼女は多分草葉を連れて来た時もしたように、彼をその部屋に見るのが面羞《おもは》ゆそうに、そっと寄って唇《くち》づけをすると、ぱっと離れた。足音が段梯子《だんばしご》にした。
「母はちっとも可笑《おか》しくないと言ってますのよ。」
高い窓をあけて、碧《あお》い海を見たりしてから下へおりた。葉子の着替えも入っている彼のスウトケイスが、井戸や風呂《ふろ》の傍《そば》を通って、土間から渡って行く奥の離れの次ぎの間にすでに持ち込まれてあった。
葉子はそこへ庸三を案内した。
「本当にお粗末な部屋ですけれど、父がいつけたところですの。父は誰をも近づけませんでしたの。ここで本ばかり読んでいましたの。冬の夜なんか咳入《せきい》る声が私たちの方へも聞こえて、本当に可哀相《かわいそう》でしたわ。」
棚《たな》に翻訳小説や詩集のようなものが詰まっていた。細々《こまこま》した骨董品《こっとうひん》も並べてあった。庸三は花園をひかえた六畳の縁先きへ出て、額なんか見ていた。
「裏へ行ってみましょう。」
誘われるままに、庭下駄《にわげた》を突っかけて、裏へ出てみた。そこには果樹や野菜畑、花畑があった。ちょっとした木にも花にも、葉子は美しい懐かしさを感ずるらしく、梅の古木や柘榴《ざくろ》の幹の側に立って、幼い時の思い出を語るのであった。幾つもの段々をおりると、そこに草の生《お》い茂った堤らしいものがあって、かなりな幅の川浪《かわなみ》が漫々と湛《たた》えていた。その果てに夕陽に照り映える日本海が蒼々《あおあお》と拡《ひろ》がっていた。啼《な》き声を立てて、無数の海猫《うみねこ》が浪のうえに凝《かた》まっていた。
その晩、庸三が風呂へ入って、食事をすましたところへ、もう二人の記者がやって来た。仕方なし通すことにした。
「福島の方から、ちょっとそんな通信が入ったものですから。」
文学的な情熱に燃えているような一人は、そう言って寛《くつろ》いだ。そして葉子を顧みて、
「ここにこんな風流な部屋があるんですか。」
そして葉子がビイルを注《つ》いだりしているうちに、だんだん気分が釈《ほぐ》れて、社会面記者らしい気分のないことも頷《うなず》けて来た。
「先生の今度お出《い》でになったのは、結婚式をお挙げになるためだという噂《うわさ》ですが、そうですか。」
庸三は狼狽《ろうばい》した。もっとも庸三にもしその意志があるなら横山の叔父《おじ》が話しに来るはずだと、葉子は言う
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