》の中を呼び出されて外へ出てみると、興奮しきった清川のために否応《いやおう》なしに自動車に引き摺《ず》りこまれ、そのまま闇《やみ》を走ったというのだったが、もちろん葉子がしばしば廊下へ立ったのは、庸三への計画的な復讐《ふくしゅう》の筋書として、傀儡《かいらい》を操《あやつ》っている清川が別室に来ていたのに違いなかった。
二十九
秋になってから、葉子は三丁目のアパアトメントの四階に移って来た。せっかく営んだ田端の愛の巣にもすでに破綻《はたん》が来て、それ以来彼女は寛永寺橋に近い桜木町のある素人家《しろうとや》の二階に移り住んでいるのだったが、その間庸三との連絡を取り、メッセンジャアの役割を演じていたのが例の少年詩人で、庸三を呼び出すのも彼なら、庸三が遊びに行く途中、横町の角でタクシイをおりて葉子を誘い出すのも彼であった。葉子が、田端の家を出た以上、愛人と別れたことが一応|真実《ほんとう》のように思われもしたが、事実はまだ全く別れきりになっていないようにも思えた。庸三はかつて彼女から案内されたこともないその家を、一度は襲ってみようと思わなくもなかったが、彼女の秘密に触れることは、やはり避けておきたかった。そのころ庸三は根岸に住んでいる売り出しの作家小村の噂《うわさ》を、逢《あ》うごとに葉子から聞かされた。その夫婦生活、愛人関係、または丸善から外国の小説を買って来ては貪《むさぼ》り読んでいる文学の精進ぶりなど、彼女は彼をニック・ネイムで呼び、いくらかヒウモラスな口吻《くちぶり》で、いつも親しく出入りしている彼の家庭の和《なご》やかなモダアン気分を庸三の前に発散させるのだったが、それだけにその交際も何のこだわりもないものだことは解《わか》っていた。庸三は葉子の思いつきで、小村夫婦と葉子と四人で、山王の料亭で晩飯を食べたことがあったが、帰りに誘われて、古くから上野辺に住んでいた小村には親の代から馴染《なじみ》の深い、広小路の寄席《よせ》へ案内されたりした。このごろの葉子の交際が、この小村夫妻だけだとしたら、彼女の部屋へ、たまには庸三を案内しずにはいられないはずであった。それをしないところを見ると、例の用心ぶかい彼女の慣用手段として、庸三をまさかの時の突っかえ棒として連絡を保ちつつ、破綻に瀕《ひん》した清川との恋愛を辛うじて繋《つな》ぎ止めているのに違いなかった。そしてそれでだんだん緩慢に庸三との交渉も絶えてしまうもののように見えた。
するとしばらく音沙汰《おとさた》のなかった葉子から、またしても電話がかかって来た。
庸三はどんな場合にも、手をひろげて彼女を待っているものとしか思えなかった。
「先生、私よ。今|燕楽軒《えんらくけん》にいるのよ。ちょっと来て。すぐよ。」
彼女は命令するように言うのだったが、何か切迫した語調であった。庸三は拒むこともできずに、やっぱり部屋を出て行った。燕楽軒の広い土間のホールヘ入ってみると、洋装の葉子が右側の窓下のところにいて、近づいて行く彼に気づくと、かつて見たこともないような愁《うれ》いに充《み》ちた顔をあげた。前側の椅子にかけると、彼女はヒステリックな表情で、
「ここでは話もできないの。出ましょう。」
と呟《つぶや》いて、あわただしくコオヒ代を払って起《た》ちあがった。
町はラッシュアワアだったが、秋の侘《わ》びしい光線が一層この十字街を無秩序なものにしていた。葉子は一緒に歩くことをも憚《はばか》るように、急いで向う側へ渉《わた》ると、そこでガタ車を一台呼び止め、彼の来るのを待ってドアをしめた。
少し走り出すと、彼女はくしゃくしゃの手巾《ハンケチ》を濡《ぬ》れた目から放して何か言おうとしたが、また顔を掩《おお》った。
「どうしたんだ。」
「私到頭清川さんに棄《す》てられてしまったのよ。」
「ふうむ。」
庸三も声が喉元《のどもと》に閊《つか》えたようで、瞬間ちょっといやな感じだった。ひそかに予期していたことでもあったが、てこずった果てに投《ほう》り出してしまった清川に同感はできても、投り出された葉子を今更|咎《とが》めたり冷笑したりする気にはなれなかった。
「僕はまたあれから巧く行っていることとばかり思っていた。」
「ええ、そうなの。そのことで最近|田舎《いなか》から兄もわざわざ出て来たくらいなのよ。何しろあの人なら三田の秀才だし、今度こそは過去を清算して名誉を恢復《かいふく》するのにいい機会だからというので、結婚してもらうように清川さんに話しこんでくれたりしたの。あの人は二三日考えさしてくれということで、その返辞を今日まで待っていたんですよ。そうするとその返辞がこれでしょう。」
葉子はそう言って手提《てさげ》のなかから、揉《も》みくしゃの半ぴらの紙片《かみきれ》を出して見せた。庸三はちょっと手に取って見たが、その文面だけでは前後の係りがよくわからず、掻《か》い摘《つま》んで言うと、せっかくのお言葉だけれど、いろいろ考慮した結果、遺憾《いかん》ながら希望にそうわけには行かないから悪《あ》しからずという意味で、婉曲《えんきょく》に拒絶しているのだった。
「これだけでは何だかよく解《わか》らないけれど。」
葉子は紙片を畳んで手提のなかへ入れたが、泣いたあとではいくらか顔も晴れて来た。
「やっぱり私は悪い女なの?」
「さあ。君自身が判断しなくちゃ。」
「そうお。」
車は広小路から坂本の方へ出て行き、狭苦しい町の中の雑踏へ来てから、陸橋の袂《たもと》で駐《と》まったが、その家《うち》はいつ来ても庸三は気分がよかった。それにたといそれがどんな家庭であるにしても、葉子をおくのに相応《ふさわ》しいものではなかった。彼女の逃げようとしているものは、いつも求めていたものであった。望みはそう大きいものでも高いものでもないながらに、手に取った瞬間現実のいやな匂いが鼻につくのだった。彼女には自身を支える骨格がなかった。
「清川さん私を愛していたのかしら。それとも愛していなかったのかしら。」
その言葉はちょうど庸三とは反対に、愛に狎《な》れた彼女の乱舞を許さない清川の理智的《りちてき》であることを証明しているようなものだが、葉子の異性としての清川への愛情の尺度でもあった。
「あの人は兄にも言ったそうですの、葉子と一緒にいたんじゃ勉強ができないって。」
葉子は見えも外見もなく、擽《くすぐ》ったそうに苦笑するのだったが、そうなると彼女も清川によって、無慚《むざん》に路傍に叩《たた》き※[#「※」は「足へん」+「倍」のつくり、第3水準1−92−37、317−下−19]《のめ》された花束のようなものであった。
三十
三丁目のアパートは、震災後その辺に出来た最初のアパートであった。この都会は今なお復興の途上にあったが、しかし新装の町並みはあらかた外貌《がいぼう》を整えて来た。巌丈《がんじょう》一方の鉄筋コンクリイトのアパアトも、一階に売薬店があり、地坪は狭いが、四階の上には見晴らしのいい露台もあって、二階と三階に四つか五つずつある畳敷きの部屋も、床の間や袋戸棚《ふくろとだな》も中へくり取ってあり、美しい装飾が施されてあった。ある教育家の子息《むすこ》が薬局の主人と乗りで、十万金を投じて建てたものだったが、葉子の契約した四階の部屋は畳数も六|帖《じょう》ばかりで、瓦斯《ガス》はあったが、水道はなかった。厳重に金網を張った大きい窓の扉《とびら》を開けると、広小路のデパアトの、額《ひたい》にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが寂しく中空に眺められ、目の下には、早くもその裏町に巣喰《すく》ったカフエの灯影《ほかげ》やレコオドの音が流れていたが、表通りの雑音が届かないし、上がり口のちがった背中合せの部屋に、たまに人声がするだけで、どの部屋にも客がないので、さながら城楼に籠《こ》もったように閑寂《ひっそり》していた。
「私書きかけているものがあるのよ。出来あがったら見ていただくつもりで、一生懸命馬力をかけているの。」
葉子は大分前にも、ちょっとそれを仄《ほの》めかしていたが、アパアトヘ立て籠もろうとしたのも、それを完成したいためであった。それは国民新聞の懸賞小説に応募するためで、彼女はその一作によって新しいスタアトを切り、文壇への更生を謀《はか》ろうとして心血を灑《そそ》いでいたもので、その衷情を訴えられてみると、庸三も一概に見切りをつける気にはなれず、打ち※[#「※」は「足へん」+「倍」のつくり、第3水準1−92−37、318−上−23]《の》めされながらもまた起きあがろうと悶※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、318−上−23]《もが》いている彼女に、何か目鼻をつけてやりたくもなるのだった。彼は三月分の敷金も出してやり、保証人にもなって、毎日のようにその部屋をも見舞うのであった。
庸三はその部屋で、飯のかわりによくコーヒを飲み、パンをやいて食べたが、夜は外へ出て、葉子がいつの間にかお馴染《なじみ》になっているおでんやだの、安直なレストランなどで食事を取ったりした。若いもの同志二人、共同で床店《とこみせ》を出しているおでんやの一人は、昼間はある私立大学の文科へ通っている、町の文学青年だったが、能登《のと》の産まれで、葉子とはすでに裏町の女王とナイトのような関係になっていた。そのころになると、大森のある詩人とそのマダムに愛されていた少年詩人も、脚気《かっけ》を患《わずら》って病的な心臓を悪くし、寝るにも起きるにも着たきりの黒い洋服とともに憊《くたぶ》れはてて、再縁している古里《ふるさと》の母のもとへかえって行ってしまった。北山も江古田で一軒世帯を作って、画《え》に精進していたし、瑠美子は最近往来の道が開けて来た、郊外の従姉《いとこ》の家へ、ずっと預けっ放しになっていた。それというのも、あれほど瑠美子を手懐《てなず》けていた清川も、同棲《どうせい》生活が初まるとたちまち態度が豹変《ひょうへん》して来たからで、それも彼ら二人の恋愛生活に幻滅を促した一つの原因であった。
葉子はデパアトから買って来た、コーヒ沸しのレトルトをもっていて、しきりにコーヒを沸かした。それは清川を監督している例の先輩が、独逸《ドイツ》から沢山買って来て、床下に投《ほう》っておいたというのは昔のことで、今はデパアトにも出ているのであった。葉子の本箱のなかには、別にハムやコオンビイフ、林檎《りんご》、オレンジなどの食料品があり、もうだんだん寒くなって来たので、朝おきると顔も洗わずに、瓦斯ストオブをたきながら、軽い食事を取るのだったが、創作に悩んで来ると、庸三が邪魔になることもあった。それにアパアトを管理している薬局の主人は、どうかすると部屋を見に来る人に、四階に葉子のいることを、宣伝の役に立てようとしたりするので、庸三も裏口から出入りするようにしていたが、こちこち硬《かた》い階段を上りおりするのも相当骨が折れ、やっと部屋まで辿《たど》り着いたと思うと、鍵《かぎ》がかかっていたりした。彼女の行くのは、大抵シネマ・パレスか南明座あたりで、筆が渋ると映画に救いを求めに行くのだったが、部屋をあけるのは、そのためばかりとも決められないようなものであった。
庸三も、彼女が思っているほど葉子の文学にそう大して関心をもっているわけでもなかった。彼女の美貌《びぼう》ほどに彼女の文学に興味はもてなかったが、しかし風にも堪えない野の花のようなその情趣や感傷の純粋さは認めないわけに行かなかった。筋やテイマを話しながら、彼女は草稿を見せた。庸三はコーヒを呑《の》みながら、一枚々々読んで行った。どうかすると驚嘆するような老劇作家と師弟関係の若い愛人の女優との同棲《どうせい》生活の新鮮な描写があるかと思うと、うらぶれて放浪の旅から帰って来て、先輩であるその老劇作家のもとに身を寄せている青年と、昔、恋愛模様のあったその女優との熱烈奔放な恋愛場景があったりして、ちょうどそれが雨のふるかつての一夜の出来事を彷彿《
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