の手を経て横浜から買った、ヤンキイ好みの紺に淡《うす》めな荒い縞《しま》のある例の外套《がいとう》に包《くる》まっていたが、髪もそそけ顔もめっきり窶《やつ》れていた。
 じきにタキシイに飛びのって、行きつけの家《うち》へ走らせたが、部屋へ納まっても、何か仮り着をしているようで、庸三は気が負《ひ》けた。
 時分時だったので、庸三は葉子の註文《ちゅうもん》もきいて料理を通した。
「少し痩《や》せたね。」
「ぞうよ、毎日働くんですもの。ほら手がこんな。節々が太って。」
 と言っても葉子はやっぱり美しかった。
「あの人が水を汲《く》んでくれたり、食器を洗ったりしてくれるけれど。」
「女中なし?」
「ええ。あの人このごろますますあれだもんだから、手の美しいのなんか真平《まっぴら》だというのよ。労働者のように硬《かた》くならなくちゃ駄目なんだって。」
「なるほど。君には少し無理だね。しかし生活はいいんだろ。」
「ところがあまりよくもないのよ。」
 彼女の話では、清川の父は老大家に甘やかされて贅沢《ぜいたく》に馴《な》れている、そんな女を引き受けるのに不賛成で、父よりも好い身分に産まれつき、教養の高い母のみが理解してくれて、月々一定の額を先輩の山上の手を通して仕送ってくれ、それに彼自身いくらかの収入もあるにはあるが、家賃も出るので、そう楽でないと言うのであった。
「けどその程度でやって行かなくちゃあ。十分じゃないか。」
「でも私は寂しいの。何しろ田舎《いなか》のことで、それは大して贅沢ではないにしても、食べたいものはお腹一杯食べて来たんですもの。」
 話がだんだん賤《さ》みしくなって来た。顔に似合わず、彼女もやはり女であった。清川の親たちや弟妹たち、家庭の経済状態や雰囲気《ふんいき》にも繊細な神経が働いて、とかく葉子の苦手の現実面が、二人の恋愛を裏づけていた。
 庸三は自分も今度のこの恋愛の初めには、同じように、むしろそれ以上にも唇《くちびる》の薄い彼女の口の端《は》にかかったであろうし、庸三にしたように、清川の前にも庸三ヘの不満を泣いて哀訴したであろうことも考えないわけにいかなかった。
「どこもそんなものだ。世の中に君の註文通りのものがありようもないから、そこにじっと腰をすえているんだね。」
 庸三は悒鬱《じじむさ》い自分の恋愛とは違って、彼らの恋愛をすばらしく絢爛《けんらん》たるものに評価し、ひそかに憧憬《しょうけい》を寄せていたのだったが、合理的な清川のやり口の手堅さを知ることができたと同時に、葉子の色もいくらか褪《あ》せて来たような感じだった。
「先生霊枝さんと何かありゃしない。」
「笑談《じょうだん》じゃない、何もないよ。」
「そう。」
 葉子も頷《うなず》いたが、田端へ引っ越したのも、まだ本当に切れていない雪枝から、完全に清川を奪い取るためだことは、庸三も気がついていなかったので、葉子の質問が、それを庸三が知っているのではないかという不安から来たものだということも知るはずはなかった。
「あの人も可哀《かわい》そうよ。番町にいる時、私一度飛び出したことがあるの。先生の処へ行こうと思って、濠端《ほりばた》の電車に乗ったら、あの人も追い駈《か》けて来たので、水道橋で降りててくてく真砂町《まさごちょう》の方へ歩いて行ったの。そうするとあの人も見え隠れに後からついて来て、あの辺の横町でしばらく鼬鼠《いたち》ごっこしているうちに、諦《あきら》めて帰って行ったものなの。私よほど赤門前の自動で先生へお電話しようと思ったんですけれど、そうなると先生の家の雰囲気がふっと浮かんで来たりして、急いで番町へ引っ返したものなの。あの人はいなかったけれど、やがて帰って来て私を見ると、赭靴《あかぐつ》のまんま上がって来ていきなり私に飛びついて泣いたのよ。阿母《おっか》さんとこへ寄って泣いて来たらしいの。」
「お株がはじまったわけだ。」
 庸三はちびちび嘗《な》めた葡萄酒《ぶどうしゅ》に、いくらか陶然としていたが、その情景を想像して少し苛《いら》つき気味であった。
 時間のたつのは迅《はや》かった、庸三は小遣《こづかい》を少しやって、十時ごろに彼女を還《かえ》した。
 しかしそんなことも一度や二度ではなかった。ある時は同時ごろに、その家へ行くこともあったが、ある時は三十分も待たされることもあった。ぽつねんと独り待っているうちに、初夏の軽い雨が降り出し、瑠璃色《るりいろ》のタイルで張られた露台に置き駢《なら》べられた盆栽が、見る間に美しく濡《ぬ》れて行った。ここは汽車の音も間近に聞こえ、夜深《よふけ》には家を揺する貨車の響きもするのだったが、それさえ我慢すれば居心地《いごこち》は悪くなかった。時とすると、そのころ一年ばかりも小夜子と爛《ただ》れ合っていた、大衆作家の同志が広間に陣取っていて、一晩中陽気に騒いでいることもあって、そういう時には葉子も庸三もいくらか警戒するのだったが、不断は気のおけない場所であった。葉子は途中で降り出されて髪を濡らしていたが、
「なかなか出て来る隙《すき》がなかったもんで、八百屋へ買いものに行くふりして、途中で捩《も》ぎ放して来たの。あの人は私が先生にお金もらうことを、大変いやがってるの。」
「話したの?」
「そうじゃないけれど。」
 庸三は苦しい時の小遣《こづか》い稼《かせ》ぎだという気もしながら、彼女の生活報告には興味があった。
「このごろ何か書いてる?」
「私たちは書く時は二階と下なのよ。私は下で書くのよ。清川は書けなくて困ってるの。私がぐんぐんペンが走るもんだから、なお苛《いら》つくらしいの。」
「君が仕事させないんだろ。」
「ううん、書く時はやっぱり独りがいいと思うわ。」
「君の書くものは気に入るまい。ペしゃんこにやられるんじゃないか。」
「ううん、よく議論はするけれど――。」
 見るたびに葉子は生活に汚《よご》れていた。風呂《ふろ》へ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングの踵《かかと》も薄切れていた。相変らず賤《さも》しい愚痴も出て、たまに買って来る好きなオレンジも、めったに彼女の口へ入らず、肉や肴《さかな》も思いやりなく浚《さら》われてしまうのだそうであった。継子《ままこ》のように、葉子はそれが何より哀《かな》しげであった。
「こないだお金に困って、十掛けばかりある半襟を売ってもらおうと思って、阿母《おっか》さんに話したら、十円に買ってくれたの。あの中には一掛け十円するものもあるのにさ。」
 もちろん葉子も真実《ほんとう》はそうお嬢さんなわけでもなかった。
「結婚してくれないのか。」
 庸三が訊《き》くと、
「それもあの当時、貴女《あなた》なら似合いの夫婦だから、ちゃんと取りきめると言っていたものなのよ。でもお父さんが少し頑固《がんこ》なの。何しろあの家《うち》は、夫婦の反《そ》りが合わないの。お父さんという人は下町の商人気質の堅い一方なところへ、阿母さんは読書の趣味もあるし、昔の江戸ッ児《こ》風の教養や趣味があるもんで、清川兄弟が文学へ進むことにも共鳴があるわけなの。妹さんだって油画《あぶらえ》かきだわ。みんな阿母さん系統なわけなのよ。それにしても私に覆《かぶ》さって来るあの人たちの雰囲気《ふんいき》はいいとはいえないわ。この間も阿母さんが天麩羅《てんぷら》おごったんだけれど、そういう時だって、私は妹さんの下座よ。タキシイに乗る時だって、やっぱり私が後よ。」
話しているうちに葉子はすぐ涙ぐんて来た。
「しかし結婚は女の墓場だからね。」
 庸三は腹ん這《ば》いになって煙草《たばこ》をふかしていたが、彼女の計算の不正確と、清川の認識不足との擦《す》れ違いも分明《わかり》すぎる感じだった。
「瑠美子は。」
「あの人が厄介《やっかい》がるから、ここのところよそへ預けておきますけれど、あれほど愛していたのに同棲《どうせい》してみると、ちっとも可愛《かわい》くないんですとさ。」
「はっきりしてるな。」
「真実《ほんとう》よ。このごろの若い人、みんながっちりしたものよ。先生なぞには想像もされないくらい。」
「そこへ君がめそっこ[#「めそっこ」に傍点]と来てるから。」
「それにあの人、このごろ皿洗いもしてくれないのよ。私も御飯たきしてると、本も読めなくて頭脳《あたま》がぱさぱさしてしまうでしょう。いっそ別れようかと思うけれど、どう、いけない?」
「そうね。君が僕の娘だったら辛抱させるけれど。」
「そう――。」
 葉子も頬笑《ほほえ》んだ。

      二十八

 その一夏もあわただしく過ぎて、やがて涼気《すずけ》の立つころになると、持ち越しの葉子の別れ話も、急に具体化しそうになって来た。庸三は別に策動したわけでもなく、積極的に彼女を牽制《けんせい》しようとしたのでもなかったが、少年詩人も双方を往来し、一旦下宿へ出ることに、いつとはなし話が決まりそうになった。彼女の素振りに何か煮えきらないものがあり、いつも用心深く二道かける彼女の手もあるので、思い切って乗り出す気にもなれなかったが、どうせぼろぼろになりついでに、大詰の一役を買うのもいいと思った。
 その晩庸三に差し迫った仕事があったが、にわかの電話なので、原稿紙やペンを折鞄《おりかばん》に入れて行ってみた。
「今夜は忙しいんだ。話はしていられない。」
 落ち着かない気持で彼は葉子の顔を見るなり、先月号の婦人雑誌を鞄から取り出した。彼はその雑誌に連載物を書いていた。葉子は珍らしく和服を着ていたが、何ということもなくしばらく差向いでお茶を呑《の》んでいた。葉子の素振りにも落着きがなかったが、庸三も今夜書く場面の段取りが、まだはっきり頭脳《あたま》に来ていないので、それに気も苛《いら》ついていたが、彼女の言葉に何か煮えきらないところもあった。
「じゃ出るの止すの。」
「そうじゃないんですの。ただあの男が可哀《かわい》そうなだけよ。」
 婉曲《えんきょく》に断わるつもりなのかと思ったが、そうでもなかった。とにかく頭脳《あたま》を乱すのを恐れて今夜は追究しないことにした。一旦気持が揺れ出すと、容易に止まらない癖があるので、そうと決めておくよりほかなかった。
 庸三は時間が惜しかったので、早く食事をしようと思って、その前に風呂《ふろ》に入ることにして、急いで風呂場の方へ出て行った。浴場は料亭《りょうてい》としては豪華な方で、ドアで仕切られた、別室の化粧室の趣味も感じがよかった。
 雨が強く降り出して来た。庸三は寂しい庭の雨音を耳にしながら、風呂場にしばらくいたが、葉子が来ないのに少し不安を感じはじめた。今しがた部屋にいる時も、ふいに電話がかかって女中の取次ぎで下へおりて行ったが、やがて部屋へ来て坐ったと思うと、間もなく廊下へ出て行き、しばらく帰って来ないので、庸三が胡散《うさん》に思って出てみると、葉子は階段の降り口を偸《ぬす》むようにして、うろうろしているのだった。しかし庸三は別に気にも留めず、後で聞こうと思って、彼女の部屋へ帰って来るのを待って、一足先きに風呂に入ったのだったが、今それがふと心に浮かんだので、急いで着物を着て二階へ上がってみた。
 すると部屋の入口が内廊下になっていて、座敷も小さい次の間つきであったが、葉子はどこにもいなかった。内廊下の壁に彼の帽子と外套《がいとう》が、間抜けな表情でぶらさがっているきりだった。
 ちょうど女中が来合わせた。
「ちょっとそこまで行って来るとおっしゃって、そとへ出ていらしたばかりですよ。宅の庭下駄《にわげた》を突っかけて、番傘《ばんがさ》をお差しになって。」
「担《かつ》がれたんだ。」
 庸三は急いで外套を着た。
「そんなことないでしょうけれど。」女中も笑いながら送り出した。
 明日の午後、庸三が史朗をつれて、再びその家《うち》を訪問してみると、マダムも出て来て、葉子が今朝《けさ》傘と下駄を返しに来たが、清川も一緒だったことを告げた後に、葉子はその一夜のことをグロテスクな色に塗り立て、あの時雨《しぐれ
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