ほうふつ》させるような面白い芝居に出来ていた。モデルがはっきり誰であるとも示すこともできないように、彼女一流の想念の花で粉飾《ふんしょく》されてあった。
「どう?」
 葉子は庸三の顔を覗《のぞ》きこむようにして訊《き》いた。
「そうだね。」
「駄目?」
「でもあるまい。」
 間もなく浄書がはじまり、一人の助手が部屋に現われた。助手は新進のブロレタリヤ作家の夫人で、その名は庸三も耳にしていたが、紹介されてみて、その純良な婦人であることが解《わか》り、そういう仕事もいくらかの生活の補いになるのだと聞いて、その心掛けに敬意を払わないわけに行かなかった。ある時は女二人が一つ蒲団《ふとん》のなかで、睦《むつ》まじそうに話しながら寝ている傍《そば》で、庸三は頭のつかえる押入のベッドのうえに横たわっていた。

 やがて応募作品が十篇二十篇と彼の書斎に持ちこまれて来た。
 初め葉子は彼女の計画を庸三には一切秘密にしておくつもりであった。それというのも、あいにく二人の選者のうちの一人が庸三自身であったからで――しかしまた庸三が取捨の一半の権利をもっており、事によれば庸三が採点の遣《や》り繰り一つで、彼女の作品の運命を決定することも不可能ではなかったので、あらかじめ彼の批判を得ておきたくもあった。
「選者として先生をお苦しめするのは、私も良心に咎《とが》めることですから、先生には秘密にしておきたかったのですの。でも先生は毎日のように来るでしょう。私全く困っちゃったの。もちろん栗原《くりはら》さんも大変いいものだから、きっと当選するだろうと言って下さるし、私も脂《あぶら》が乗ったものなの。つい秘密が保てなくなってしまったんですけれど、匿名なら先生の立場だって、別に悪くはないわけじゃない? それも先生に贔屓分《ひいきぶん》に点をいただこうとは思わないの。選者として公平な態度をお失いにならない限度で、もしかして二つ同点の作品があったというような場合に、私のをお採りになっていただけないこともないじゃないかと、そう思ったの。いけない。」
 もちろん庸三も客観的な立場を守りたいに違いなかったが、作品が取れば取れるものであることも解《わか》っていた。
 庸三は応募作品を一つ一つ熱心に読みはじめたが、題材と舞台に関する限り、今までの文壇人には手のとどかないものもあったりして、彼も興味を唆《そそ》られた。惨《みじ》めな礦夫《こうふ》の生活をかいたもの、北海道の終身刑囚の脱獄、金龍館《きんりゅうかん》で、一時あれほど盛《さか》っていた歌劇団の没落と俳優たちや周囲の不良群の運命、等々――そのなかでも、離散した歌劇団の歌手たちに絡《から》んだ、頽廃的《たいはいてき》な浅草の雰囲気《ふんいき》を濃い絵具で塗り立てた作品の、呼吸の荒々しさと脈搏《みゃくはく》の強さには、庸三もすっかり参ってしまった。
「なかなかいいのがある。」
 庸三は二三の作品を懐《ふとこ》ろにして、葉子の部屋に現われた。
「そう――どれ私にも読ませて。」
 葉子はそう言って、乱暴に書きなぐったその作品を読みはじめた。
「作品はいいんだが、新聞の読みものとしては、柄が少し悪いし、楽屋落ちも多いから、一般の読者には不向きかも知れない。それに後半がだれてる。」
「そう――。」
 しかし庸三が採点に苦心した結果、依怙贔屓《えこひいき》でない程度で、「地上の虹《にじ》」と題した彼女の作品が、どうにか二等くらいに当選すべき運命にまで漕《こ》ぎつけた時になって、栗原夫人の名をつかったことが暴露した結果、それも到頭|闇《やみ》へ葬られてしまった。
 ある時も、庸三はアパアトを訪ねてみた。町はもうすっかり真冬の気分で、街路樹の銀杏《いちょう》に黄金色《こがねいろ》の葉の影もなかった。葉子の計画も惨敗におわり、立て直そうとした小説道への精進も挫《くじ》けたとなると、彼女の運命も庸三の手には支えきれなかった。
「もういませんか。」
 薬局に就《つ》いてきいてみると、その日も葉子は不在であった。部屋の空気が険悪になって、互いに苛々《いらいら》しい気持に駆り立てられ、激しい言葉を投げ合って別れてから、一週間になっていた。庸三は最近時々一緒に飯を食べたり、お茶を呑《の》んだりしていた、藤子《ふじこ》をその時もつれていた。
「もう居ませんよ。」
 主人は答えたが、いつになくにこにこして、
「いや、どうも梢さんはいけませんよ。あの人は先生のような方がしっかり監督なさらないと、何をするか解りませんな。」
「何かやってますか。」
「それは解りませんけれど、どうもあの人は普通ではありませんね。」
「敷金は持って行きましたか。」
「いや、後で取りに来るとおっしゃって。」
「じゃあ、僕がもらっておきましょう。」
 大した金でもなかったが、この期《ご》になって彼はそれが惜しくなった。預り証もちょうど紙入れのなかにあった。敷金は二カ月分残っていた。
 藤子は軽い雨のなかを、黒蛇《くろじゃ》の目をさして、四角《よつかど》に待っていた。彼女は久しく庸三のところへ出入りしている美貌《びぼう》の未亡人で、いつも葉子に関する庸三の話のよき聴《き》き手の一人であった。
 やがて二人で小夜子の家《うち》で晩飯を食べるつもりで、自動車を一台呼びとめた。
 結局は清川との恋愛によって、彼の幻想も微塵《みじん》に砕かれたと言ってよかった。

 大分たってから、渋谷に書店を開き、その奥を若い人たちのサロンにして、どうにか生活の道に取りついた時、葉子もそれを庸三に見てもらいたく、北山をわざわざ使いに立てて会見を求めて来た。
 その時庸三は待ち合わせていた葉子につれられて、その店を見に行ったが、二三度訪ねるうちに、ちょうど店番や書籍の配達などに働いていた青年は、三丁目のおでんやの文学青年で、その男の口から、葉子の近頃の消息も時々庸三の耳に伝わり、彼女の憧憬《しょうけい》の的となっていたコレット女史を逆で行ったような巷《ちまた》の生活が発展しそうに見えた。
 そのころ庸三はふとした機会から、踊り場へ足踏みすることになり、そこで何かこだわりの多い羽織|袴《はかま》の気取りもかなぐり棄《す》てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れを癒《いや》すこともできた。そしてその時分から埃塗《ほこりまぶ》れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。



底本:「現代日本文学館8 徳田秋声」文藝春秋
   1969(昭和44)年7月1日第1刷
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2001年5月17日公開
2003年6月22日修正
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