のが――背後の影が仄《ほの》かに感じられて来た。
「僕がここまで引き摺《ず》って来たというんだろ。」
「そうじゃないのよ。私は結果を言ってんのよ。」
「そう、解ったよ。じゃ別れようよ。」
しかしそのままに過ごした夜も更《ふ》け、遠近《おちこち》におこる百八|煩悩《ぼんのう》の鐘の音も静まってから、縫いあがった洋服を着てみせて、葉子も寝床へ入ったのだったが、庸三は少しうとうとするかと思うと、また目が冴《さ》えだして、一旦葉子の態度で静まりかけていた神経が、今度は二倍も三倍もの力で盛りかえして来るのだった。彼は床をはねおきると机の前へ来て坐った。葉子も目をさまして、彼の坐っているのに気づいて、白い手を伸べた。
「なに怒ってるのよ。寝てよ。意地悪ね。」
「早く下宿へ行って寝たまえ。」
葉子もむっくり床から起きだした。そしてぶつぶつ言いながら洋服を着ると、今度は子供部屋から瑠美子を引っ張って来た。
「こんな大晦日の夜なかに人を表へ追ん出すなんて、それで大家もないもんだ。」
泣き声で喋《しゃべ》りながら、瑠美子に洋服を着せると、そのまま出て行った。玄関の硝子格子《ガラスごうし》をしめる音につづいて、門をしめる音が、明け方ちかい彼の書斎にまで響いた。
二十四
正月になってから、別れた後をいくらか潔《いさぎよ》くしておきたい気持で、かなり纏《まと》まった金を舞踊の師匠を介して、今度は全く自発的に葉子に贈ることにした。それと云うのも、葉子と瑠美子の身のうえについて、師匠とその若い愛人の清川とが、何かと面倒を見てくれそうな形勢があり、葉子も一人には人生的に一人には文学的に頭脳《あたま》のあがらないところがあり、そこに一つの雰囲気《ふんいき》の醸《かも》されているのを看《み》て取ったからで、そうなると葉子親子の存在も、彼らグルウプの新らしい時代の社交範囲のなかに華々《はなばな》しく復活するわけで、一人取り残された庸三の姿が、どんなに見すぼらしいものであるかは、彼には想像できないことでもなかった。もちろん今度に限らず、庸三の嫉妬《しっと》には、いつもそうした心理の裏附けがあり、葉子を文壇的に生かすために、軽率にも最初から正面を切ってしまった庸三の、それが世間的見えでもありはかない自尊心でもあった。この見えと打算とが、いつも庸三の腹のなかで秤《はかり》にかけられ、その双方が互いに上がったり下がったりしていた。
それに庸三は暮に師匠と清川の訪問を受け、何か思いがけないお歳暮まで貰《もら》っていた。ちょうど葉子も来ている時で、その贈物が二人を祝福するようにも取れたが、少し感潜《かんぐ》って考えると、すでに庸三から離れてしまっている、このごろの葉子の気持を汲《く》んでか、事によると今一歩進んで、師匠の斡旋《あっせん》によって、庸三の怒りを買うことなしに、穏和な解決を得ようとする手段の一つのようにも取れないこともなかった。もちろんその時の庸三に、そこまで見透《みとお》しのつくはずもなかったし、朗らかな師匠の談話や態度にも、そんな影は少しも差していなかったが、清川の態度には暗示的なものがないとは言えなかった。彼の若さと正直さは、この老作家の前にいい加減なお座なりは言ってはいられなかった。
「もう少し何とか巧く行きそうなものだと思いますがね。」
清川は歯痒《はがゆ》そうに言うのであった。さながら清川自身だったら、もっと彼女を幸福にすることも、巧くリイドすることもできるはずだと言っているようであった。もしも庸三にもっと鋭敏な神経が働くか、理論的な頭脳があったら、多少挑戦的にも看《み》らるる清川の言葉に躊躇《ちゅうちょ》なく応酬したに違いないのであった。すると清川はあるいは進んで、破綻《はたん》百出のこの不自然な恋愛の不合理を説き、庸三自身のためにも、葉子のためにも、彼女を解放することを力説したかもしれず、事によるとあるいはすでに納得ずくの師匠もそれに助勢して、清川と葉子との恋愛を彼女の口から代弁告白することに、プログラムがちゃんと出来あがっていなかったとも限らないのであった。その場合、師匠が一歩先きに、自ら二人の恋愛を承認していなければならないのは、もちろんであった。
しかし庸三は、その晩の彼らの真意を、そこまで深く探究する余裕はなかった。彼はただ嵐《あらし》の前の木の葉の戦《そよ》ぎを感じ、重苦しいその場の雰囲気のなかに、徒《いたず》らに清川と葉子との気持を模索するにすぎないのだった。
やがて四人打ち揃《そろ》って外へ出てみたのであったが、葉子は部屋にいたときと同じく、始終物思わしげに、俛《うつむ》きがちに歩いており、清川の靴の音だけが、すでに春の装いもできた晦日《みそか》ぢかくの静かな町に、ぽかぽかと響くのであった。
間もなく大晦日の夜更《よふ》けの出来事が起こった。それが一層彼らの行動に拍車をかけたであろうが、庸三の贈った金の行き途《ど》についても、後にだんだん臆測癖《おくそくぐせ》の強い庸三の心にはっきりした形を与えて来た。
ある日庸三は、ふと神田の下宿を訪ねてみた。横封に入れた金を、師匠に托《たく》してから、いくらかの日がたっていた。
金を師匠に届けに行った時、清川もちょうど彼女の側にいたが、師匠は取っていいものが悪いものかと、少し躊躇していた。
「まあ、そんなに?」
「しかし私も後の気持が悪いから。」
「ではお預かりしておきますわ。あの人のことですから、一時にあげてもどうかと思いますがね。」
「それも貴女《あなた》にお任せします。」
「いや、それはやはり貴女の保管すべきものじゃないだろうね。」
清川が言うと、師匠も軽く額《うなず》いた。
「そうね。」
そんな簡短な会話が取り交され、ちょうど地震があったので、庸三と師匠が踊りの床へ上がって、窓の方へ出て見たが、間もなく暇《いとま》を告げた。
そのころ庸三の家に、年少の詩人が一人いた。小池史朗というその詩人は、その肉体から言っても性癖から言っても、不思議な存在であった。葉子との郷里の※[#「※」は「夕」の下に「寅」、第4水準2−5−29、305−上−13]縁《いんえん》で庸三を頼って来たものだったが、詩の天才的才分は、庸三も認めないわけに行かなかった。朝から晩まで着たきりの黒サアジの背広に赭《あか》いネクタイ、それにベレイを冠《かぶ》った彼の風貌《ふうぼう》は、体の小さいせいもあったが、生白い皮膚も筋肉も気持のわるいほどふやふやしていて、大抵の人に男装の女子と看《み》られるのに無理はなかった。彼は牝豹《めひょう》の前の兎《うさぎ》のごとく、葉子を礼讃《らいさん》し、屈従していた。処女のような含羞《はにかみ》があるかと思うと、不良少年のような聡慧《そうけい》さをもっていたが、結局人間的には哀れむべき不具者としか思えなかった。彼は傷ついた鳩《はと》のごとく、ややもすると狭心症の発作に悩まされがちなので、常住ポケットにジキタリスの小壜《こびん》を用意することを忘れなかった。ある時彼は葉子について、そのころ銀座にあったメイ・ハルミヘ行ったが、ちょうどその階下《した》が理髪屋であったところから、葉子がウエイブをかけている間、彼も階下で髪を刈ることにした。しかし頭髪が出来あがった葉子が、いつまで待っていても上がって来ないので、降りて行ってみると、彼は椅子《いす》のうえに反《そ》りかえって、マニキュアと洒落《しゃ》れているのだった。
葉子の消息が絶えてからも、彼は時には彼女を訪ねるらしかったが、肝腎《かんじん》のことは何一つ口にしなかった。するうちに彼の姿も足も途絶えがちになってしまった。
葉子がどんな行動を取ろうと、それは手から難れた風船玉が雲へ入ったように、もうどうにもならないものであり、これで沢山だという気もしたが、何か腑《ふ》ににおちないものもなくはなかった。気を落ち着けていると、風のない湖水のように、波も立たないのであったが、心が少し揺れ出すと限りなく波が立ち騒ぎ、北を指す磁石のように、足が自然に下宿へ向いて行くのであった。多分もう下宿を引き揚げたであろうが、主人と話したら今まで知らなかった事実に触れることもできそうであった。
玄関口へ出たのは、お神《かみ》であったが、
「ああ、先生ですか。まあこっちへお上がりになって。」
お神はあわただしげに庸三を二階へつれて行って、
「梢さん今日お引越しですよ。今荷車が来たばかりで、荷物を積むところですから、ちょっとこっちへ来て御覧なさい。」
際《きわ》どいところであった。庸三も下宿の前に荷車のあることは知っていたが、それが葉子の引越しの車とも思わず、その横を擦《す》りぬけて石段を上がったのだったが、そう言われて廊下へ出て、そっと硝子戸《ガラスど》から下を見下ろすと、ジャケツに薄汚い茶の中折を冠った運送屋の若い衆が、ちょうどしおじ[#「しおじ」に傍点]の本箱を持ち出すところであった。
「はは、なるほど。」
庸三は苦笑したが、その時年少詩人の史朗がひょいと車の側へ出て来たので、彼はあっ[#「あっ」に傍点]と思って後ろへ跪坐《しゃが》んでしまった。
「このごろ誰か来たでしょう。」
「え、来ました、二三度。」
「何て男です。」
「さあ、お名前はおっしゃいませんが、若い方です。鼻の隆《たか》い目の大きい、役者みたいなねえ。」
「ふふむ、なるほど。」
いつも庸三の予感に上って来る存在が清川でありはしたが、金をもって師匠をおとずれた時から、その予感はひとまず消えてしまったのであった。庸三はにわかに興奮を感じ、なお硝子戸の引いてある手摺《てすり》に靠《もた》れて、順々に荷物の積まれるのを見ていたが、小池の采配《さいはい》ですっかり積みこまれ縄《なわ》がかけられるのを見澄ましてから、煙草《たばこ》を一本取り出して喫《ふか》しはじめ、車の引き出されるのを待っていた。この期《ご》になって、にわかに金も惜しくなったが、 二人の顔も見たかった。庸三は車の動く方嚮《ほうこう》を見澄まし、少し間をおいてから下へおりて行ったが、外へ出てみた時には、荷車はすでに水道橋から一つ橋へ通う大道路を突っ切っていた。
その辺は庸三も葉子と一緒に、しばしば自動車を乗り棄《す》てたり、呼び止めたりしたところで、夜おそくそのころ売り出しのブロチンやパンを買いに出たのもそこであった。
一二町の距離をおいて、庸三は見え隠れに従《つ》いて行ったが、車の後になり先になりして、従いて行くのは葉子のトイレット・ケイスをぶら下げた少年詩人ばかりではなく、鷺《さぎ》のように細い脚をした瑠美子もいたし、お傅《つき》の北山も片手に風呂敷包《ふろしきづつみ》をもち、片手に瑠美子を掴《つか》まらせて、あっち寄りこっち寄りして、ふざけながら歩いていた。町はもう日暮に近く、寒い風が庸三の外套《がいとう》の翼に吹いていた。
九段坂へ差しかかった時、荷車の後を押し押して、女連れに少しおくれて、えっちらおっちら登って行く少年詩人の姿がみえたが、そこまで来ると、庸三も何となし間が抜け、にわかに立ち止まった。これ以上追窮する必要はない。――庸三はそうも思ったが、やがてまた歩き出した。
車の止まったのは、坂を登りきってから、左と右とへ二回まがった、富士見町のある賑やかな通りであったが、行きついて見ると、それは花屋で、飾り窓の厚硝子の中に、さながら花氷のように薄桃のベコニヤが咲き乱れていた。
ふさわしい愛の巣だ――庸三は頬笑《ほほえ》ましげにも感じて、荷物の持ちこまれる露路を入って行った。花屋の勝手口がそこにあった。庸三は勝手元の廊下にある梯子段《はしごだん》を上り、荷物の散らかっている上がり口の三畳を突っ切って、いきなり部屋へ躍《おど》り込んでみたが、案に相違して、そこには瑠美子と北山がいるだけで、清川の姿も葉子も見えなかった。
「ヘえ、いないのか。」
庸三は新調のふかふかしたメリンスの対《つい》の座蒲団《ざぶとん》の一つに、どかりと胡座《あぐら》をかくと、さも可笑《おか
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