、今さらどうにもならないわ。でも交際してみてもいいとは思うの。」
そこへ北山も子供も風呂《ふろ》から上がって来た。葉子は紅茶に水菓子なぞ取り、懐《ふとこ》ろに金もあるので、がらりと世界が変わったように見えた。
人目もあるので、日が暮れても散歩に出られず、三人で雑談に夜を更《ふ》かしたが、どうした拍子か北山の好きな酒が出て、子供や庸三が寝床へ入ってからも、女同志の話がつづいた。
葉子が庸三の近くに家を構えていた時分、よく北山を訪ねて来て、清純な恋愛を葉子にも訴え訴えしていた若い塑像家《そぞうか》の噂《うわさ》も出た。北山さえ少し遠いのを我慢すれば、彼の父は神奈川《かながわ》にある店の近くにアトリエを建ててくれるはずだったが、彼女は物堅い旧家の雰囲気《ふんいき》のなかへ入って行くのを嫌《きら》って、しばらく江古田《えごた》の方に貧しい同棲《どうせい》生活をつづけていたこともあった。
「貴女《あなた》も一人目つけるのよ。」
葉子は少し酔っていた。
「ええ、でも目つからないのよ。」
「どうせ目つけるなら大物に限るのよ。」
「私じゃ駄目だわ。お姉さんの真似《まね》できないわ。」
彼女は煙草《たばこ》の煙を吐いていた。
「恐るべき女たち。」
庸三は思いながら蒲団《ふとん》をかぶった。
秋もようやくたけなわなころに、二人は紅葉《もみじ》を探りに二三日箱根へ旅してみたが、帰って来たころには、葉子の懐ろも大分寂しくなっていた。
二人は燃え立つ紅葉の錦《にしき》に埋《うず》まっている、小涌谷《こわくだに》の旅館に落ちついたが、どうせそのうちに低気圧は来るものとして、今日の日は今日の日だと肚《はら》をきめている庸三も、どうかすると薊《あざみ》の刺《とげ》のようなものの刺さって来るのを、いかんともすることができなかった。ある時は少年のように朗らかに挙動《ふるま》い、朝の森に小禽《ことり》が囁《さえず》るような楽しさで話すのだったが、一々|応《う》け答《こた》えもできないような多弁の噴霧を浴びせかけて、彼を辟易《へきえき》させることがあるかと思うと、北の国の憂鬱《ゆううつ》な潮の音や、時雨《しぐ》らんだ山の顰《ひそ》みにも似た暗さ嶮《けわ》しさで、彼を苛《いら》つかせることもあり、現実には疎《うと》い文学少女でありながら、商売女のように、機敏に人を見透かしもするのであった。
どうかすると、愛人がこの旅館のどの部屋かに来ているような感じを抱《いだ》かせる挙動を見せたり、後の思い出に、最期《さいご》の時をとにかくしばし楽しく過ごそうとしているような口吻《くちぶり》を洩《も》らしたりした。しょぼ降る雨のなかを一本の傘《かさ》で、石のごろごろしている強羅《ごうら》公園を歩いている時も、ここで一夏一緒に暮らしてみたいように囁《ささや》くかと思うと、次ぎの相手がもう側ちかく来てでもいるような気振りを見せるのだった。さながら彼女は自然に浮かれた夢遊病者であった。
「ああ、そう夢が多くちゃ。」
「私夢がなくちゃとても寂しい。」
葉子はもう涙ぐんでいた。
煖炉《だんろ》が懐かしくなる時分になった。
その時分になると、葉子も神田《かんだ》の下宿へ荷物と子供を持ちこんでいた。毎朝毎夜、クリームを塗ったりルウジュをつけたりしていた鏡台と箪笥《たんす》は今なお庸三の部屋にあった。というのも北海道の結婚生活時代に、前夫の松川と連帯になっている債務が、ここまで追いかけて来て、庸三の不在中、彼の卓子《テイブル》などをも書き入れて差し押えられたからで、それを釈《と》くのに少し手間がかかったが、それも春日の事務所にいる若い弁護士に委《まか》せてあった。
上海《シャンハイ》へ逃げて行った松川からは、あれ以来何の音沙汰《おとさた》もなかった。葉子より庸三の方が時々それを思い出し、元へかえるならいつでも還《かえ》れそうな松川に足場が出来たら、そこへ落ち着くのもよくはないかと思ったが、上海くんだりまで行くようなふてぶてしさも、葉子にはなかった。
ある時東京会館の二階で、上方風のすき焼を食べたが、庸三の子供三人に瑠美子もいた。彼らは衝立《ついたて》の陰で鍋《なべ》の肉を小皿に取りわけ、子供に食べさせていたのだったが、ちょうどその時、田舎《いなか》の人らしい毛皮づきの二重廻しを着た五十年輩の人と少し若い男と四人づれで、ゴルフやけでもしたような、色の浅黒い三十五六のシイクな濃い茶の背広服の男と、その夫人らしい派手な服装の女が入って来るのが、葉子の目についた。
「ちょっと、あれが小河内さん夫婦よ。」
葉子は庸三にささやいたが、ちょうど葉子の後ろにある衝立の斜向《はすむか》いの処《ところ》に、彼らは席を取った。別にそれほど目立つ男ではなかったが、鼻筋の通った痩せぎすな顔に品があり、均勢の取れた姿もスマートであった。
葉子はちょっと衝立の端から半身を現わして、お辞儀したが、こっちはごたごた家庭的なので少し照れていた。
するとそれから一週間もたったかと思うころに、帝劇の音楽会で、またしても葉子は小河内夫妻と出逢《であ》った。
演奏は露西亜《ロシア》のピアニスト、ゴドウスキイであったが、いかにも露西亜人らしいがっちりした小肥《こぶと》りの紳士で、演奏技術の上手下手は、いくらか聞きなれたヴァイオリンほどにも解《わか》らないのだったが、好きな義太夫《ぎだゆう》の三味線《しゃみせん》などで、上手な弾《ひ》き手の軽々した撥《ばち》と糸とが縺《もつ》れ合って離れないように、長く喰《は》み出した白いカフスの手が、どこまで霊妙に鍵盤《けんばん》を馴《な》らしきっているかと思われた。
葉子は最初から小河内夫婦の存在に気づいていた。それがちょうど二人の座席から二列前の椅子《いす》で、ちょうどこっちからその頸筋《くびすじ》と、耳と片頬《かたほお》と顎《あご》が斜《はす》かいに見えるような位置にあった。庸三は少し尖《とが》りのある後頭部から、強い意志の表象でもありそうな顎骨《がっこつ》のあたりを、辛うじて見ることができたが、時々そっちへ惹き着けられている葉子の目も何となく彼の感じに通った。やがて休憩時間がおわった時、二人の横を通って座席に帰って行く夫人と葉子と挨拶を交した。
静粛な演奏会がやがて終りを告げたところで、庸三は聴衆の雪崩《なだ》れにつれて、ずんずん廊下へ出たが、振りかえってみると葉子の姿が見えなかった。多分オーケストラ・ボックスの脇《わき》を通って、南側の廊下へでも出たのだろうと思って、その方へも行ってみたが、そのころにはそこにもすでに人影もみえなかった。しかし葉子が角のところへ姿を現わし、彼を呼んでいたのもその瞬間であった。
「私さっきから先生を捜していたのよ。立ちがけにちょっとあの人たちに挨拶している間に、ぐんぐん行っちゃって……。」
後に左翼代議士の暗殺された神田の下宿は、葉子にも庸三にも不思議な因縁があった。というのは、大新聞に小説でも書くようになった暁には、庸三の傍《そば》を離れて、結婚生活に入りどこか静かな郊外で農園をもち、そこに愛の巣を営む約束で一年間月々生活費を送っていた秋本の定宿も、今はバラック建のその下宿であったが、歌など見てもらっていた葉子が、秋本に逢《あ》うのもその家であった。それに、秋本には最近また小説的な一つの事件があった。彼はずっと前から夫人と別居して、夫人の姉が第二夫人のような形で同棲《どうせい》し、彼の家政を見かたがた子供の世話をしていたが、それが最近少なからぬ金を拐帯《かいたい》して、元救世軍の士官だったという年輩の男のもとへ走っていたという事件は、その士官が左翼一方の頭領として、有名だっただけに、この夏ごろの新聞の社会面記事として、世間を賑《にぎ》わしていた。
「秋本さんはとても異《かわ》った人でして、どうも頭脳《あたま》が変でしたよ。」
下宿の主人は言うのであった。秋本はその事件の勃発《ぼっぱつ》とともに女を捜しに上京して来た。そしてここで幾度か女にも男にも逢ったが、女の決心は動かなかった。
葉子にいわせると、彼には郷里に遊びつけの芸者もあり、酒も強い方だったが、あれほどの物持でありながら、どの夫人にも逃げられるには、何か異ったところがあるらしかった。
「そう言えば私も思い当たることがある。」
しかし庸三はまた異った意味で、下宿の主人を知っていた。四五年前に死んだ越後小千谷《えちごおじや》産まれの彼の父は、庸三の下宿時代から家庭生活時代へかけての幾年かに亙《わた》って、越後の織物を売りに来たものだった。そのころまだ顔の生白い若者が、今子供二人の父親であるこの家の主人であった。
「先生と奥さんのことよく話しているわ。」
葉子は言うのだったが、初めて庸三の家を飛び出して、行方《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまった彼女を、偶然にも捜し当てたのも、またこの家であった。
新宿の旅館から荷物を持ちこんで来た葉子は、その当時壁紙など自分で張りかえた下の部屋に落ちついて、窓に子供っぽいカアテンを張り、二つの電球をもった、北海道時代から持ち越しの、例の仏蘭西製のスタンドも、こてこて刺繍《ししゅう》のある絹張りのシェイドに、異国の売淫窟《ばいいんくつ》を思わせる雰囲気《ふんいき》を浮かび出させるのであった。
庸三は時々瑠美子と並んで、陰鬱《いんうつ》なその部屋に寝るのだったが、葉子も彼の書斎で夜を明かすこともあった。
するとある朝|夙《はや》く――あいにくにもちょうど葉子が下宿の部屋を一晩明けた朝方に、電話がかかって来た。葉子はあわてて羽織を引っかけたまま、飛び出して行ったが、やがて帰って来ると、困惑した顔て支度《したく》をしはじめた。
「秋本さんの番頭さんが来たのよ。」
このごろになって、葉子がいろいろに手を廻して、彼を引き戻そうとしていることは、庸三にも解っていた。そうなることをも希望していた。しかしまた葉子はどうかすると、庸三の唆《そその》かしに乗ったふうにして、小河内の自宅へ電話をかけ、夫人と辞礼を取り交すこともあった。
「何だい、旦《だん》つくはお留守だ。」
葉子は悪戯《いたずら》そうに首を悚《すく》めながら、電話口を離れて来るのだった。
しかし何といっても秋本の方にまだしも脈がありそうに思えた。今秋本が彼女の動静を探らせに、わざわざ番頭を寄越《よこ》したとなると、場合は葉子に不運であった。
やがて下宿の別室で、葉子は番頭に逢ったが、昨夜の彼女の居所を、すでに感づかれているようにも思えた。
「仕方ないからよそへ原稿書きに行っていたと言って胡麻化《ごまか》して、御馳走《ごちそう》して帰したわ。」
忘れものの手提《てさげ》もあって、番頭を送り出すと、じきに舞い戻って来て庸三に報告するのだった。
「悪いところへやって来たもんだな。」
葉子は今起きたばかりの庸三の傍へ来て、空洞《うつろ》な笑い声を立てたが、悄然《しょんぼり》卓子《テイブル》に頬肱《ほおひじ》をついている姿も哀れにみえた。
やがて多事だったその年も、クリスマスが近づいて来た。庸三は時に葉子の下宿の方へ足の向くこともあったが、そのころになると、彼女の窓の赭《あか》いカアテンに、例のスタンドの明りが必ず映っているとも決まらなかった。
「また何か初まる。」
庸三は六感を働かせながら、賑《にぎ》やかな通りの方へ引き返すのだった。
二十三
表通りも賑やかだったが、少し入り込んだところにある下宿へ行くまでの横町は、別の意味で賑やかであった。表通りは名高い大きな書店や、文房具屋や、支那《シナ》料理などの目貫《めぬき》の商店街であったが、一歩横町へ入ると、モダアニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並ベ、あっちからもこっちからも騒々しいジャズの旋律が流れて来るのだった。庸三はせっかく行ってみても、葉子がいなかったりすると、張り合いがないので、なるべくなら行かないことにしていたが、彼女の動静はや
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