たき》としての感情というより、文壇や画壇の人で、いつも華《はな》やかに賑《にぎ》わっている小夜子の家《うち》の雰囲気《ふんいき》が、何となく不安な感じを与えたからであった。
 浴衣《ゆかた》は潮色《うしおいろ》の地に、山の井の井桁《いげた》と秋草とを白で抜いたものだったが、葉子にもよく映るような柄合いであった。彼女はちょっと肩にかけて見ていたが、一度でも小夜子の手を通したものだと思うと、矜《ほこ》りが傷つけられるとでも思ったらしく、いきなり揉《も》みくしゃに揉みほごすと、ヒステリックな表情でつかつか庭へおり立って下駄《げた》で踏みつけた。庸三は呆気《あっけ》に取られて見ていたが、彼女はそれでも飽き足らず、上へあがってマッチを取ると、再び庭へおりて火をつけはじめた。白い煙を※[#「※」は「風+昜」、第3水準1−94−7、286−上−12]《あ》げて浴衣はめらめらと燃えて行ったが、燃えのこりの部分の燻《くすぶ》っているのを、さらに棒片《ぼうきれ》で掻《か》きたてていた。
 終《しま》いに葉子は少し空虚を感じ始めて来たものらしく、そっと灰を掻きあつめてから、すごすご縁へ上がって来た。
「私が先生を取るなんて、貴女《あなた》も随分|妄想家《もうそうか》ね。」
 どこかでそう言って喋《しゃべ》っている小夜子のちらちらする目が、庸三の頭に浮かんで来た。

 しかし五六日もいると、この生活もやがて慵《ものう》くなって来た。可憐《かれん》な暴君である葉子のとげとげしい神経に触れることも厭《いと》わしかった。それでいて彼はやっぱり彼女の黒い目や、惑わしい曲線の美しさをもった頬《ほお》や、日本画風の繊細な感じに富んだ手や脚に惑溺《わくでき》していた。商売人あがりの小夜子には求められない魅力を惜しまないわけに行かなかった。嫌悪《けんお》と愛執との交錯した、悲痛な思いに引き摺《ず》られていた。時はすでに遠く過ぎ去っていることも解《わか》っていたが、それだけに低徊《ていかい》の情も断ち切りがたいものであった。
 それなのに庸三はしばしば飽満の情に疲れて、救いの第三者の現われることを希《ねが》った。自分の友達であると葉子の友達であるとにかかわらず、話相手の若い人や女性の座にいるときが望ましかった。そうした場合庸三はいつも無口で、葉子が客の朗らかな談敵《はなしあいて》になるのであったが、差向いの時よりも、その方がかえって庸三の神経に、いくらかの余裕と和《なご》みが与えられるのであった。二人きりの部屋が息詰まるように退屈になって来ると、彼はまた環境の変化を求めないわけにいかなかった。綺麗《きれい》な風呂場《ふろば》や化粧室などの設備のあるところとか、日本風の落着きのいい部屋や庭のあるところとか、世間から隔絶されたひそやかな場所に潜んでいることが、家庭人であった彼の習性をすっかり変えてしまっていた。寄り場のない霊を、彼は辛うじてその刹那々々《せつなせつな》の宿りに落ちつけようとしたが、それは単に気分の一時の変化を楽しむだけで、どこへ行っても寂寥《せきりょう》が彼を待っているにすぎなかった。
 あるときも、体の縮まるような渋谷の葉子の家を脱《のが》れて、市外のそうした家の一つにいた。渋谷からそう遠くもなかったし、二三回来たこともあって、葉子をひどく好いている女中とも馴染《なじみ》になっていた。
 ある涼しい夕ベ、その部屋に閉じ籠《こ》められていることに、ようやく憂鬱《ゆううつ》を感じはじめていたところで、葉子の充《み》ち足りない気分がまたしても険しくなって来た。折にふれて感情の小鬩合《こぜりあ》いが起こった。庸三からいうと、すでに久しく膠《にかわ》の利かなくなったような二人の間も、わずかに文学というものによって、つまり彼女の作家的野心というようなものによって繋《つな》がれているにすぎず、それさえ思い切れば、彼女はこの恋愛の苦しい擬装からいつでも解放されうるわけであったが、葉子から見れば、この世間しらずの老作家は、臆面《おくめん》もなく人にのしかかって来る、大きな駄々児《だだっこ》であった。彼女は若い愛人を持って行く何の成算もなく、現実の生活について、何ら明確な方針もなしに、徒《いたず》らに恋愛の泥濘《でいねい》に悶※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、287−上−14]《もが》いているにすぎない彼に絶望していたが、下手に背《そむ》けば、逗子事件の失敗を繰り返すにすぎないのであった。
 庸三はここを切りあげようと思って、勘定を払って車の来るのを待っていたが、二人の気分には今にも暴風雨になりそうな低気圧が来ていた。
 車を待っているあいだに、彼は葉子が女中と縁端《えんばな》で立話をしている隙《すき》にふと思いついて、小夜子の家へ電話をかけてみた。別に葉子に当てつけるわけでもなかったが、彼女の感情を庇護《かば》う余地はなくなっていた。
「マダムいる?」
 庸三が微声《こごえ》できくと、
「ああ、先生ですか。マダムは昨夜静岡へ立ちましたの。」
 静岡には小夜子の種違いの、多額納税者の姉が、とかく病気がちに暮らしていた。
「でもいらっしゃいませんか。今どこですの。」
「そうね。」
 いきなり葉子が寄って来て、受話機を取りあげた。
「どこへかけたの。」
「どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。」
 やがて車が来たので、彼は葉子を振り切って、玄関口へ出ると、急いで車に乗ろうとしたが、その時は葉子もすでにドアに手をかけていた。
 スピイドの出た車のなかで、険しい争いが初まったと思うと、葉子はにわかに車を止めさせてあたふた降りて行ったが、一二町走ったと思うころに、後ろから呼びとめる声がしたかと思うと、葉子の乗った別のタキシイが、スピイドをかけて追いかけて来た。濡《ぬ》れた葉子の顔の覗《のぞ》いている車がしばしすれすれになったり、離れたりしていた。見ると、いつか庸三の車が一町もおくれてしまった。今度は心臓の弱い庸三が彼女の車を尾《つ》ける番だった。

      二十二

 世間的にも私生活的にももはや収拾のつかなくなった二人の立場を、擬装的にでも落ち着かせようとして、二人のあいだに結婚|談《ばなし》の持ちあがったのもまたそのころのことであった。そんな心持は庸三が最初葉子の田舎《いなか》へ招かれた時にも、彼女の母たちにはあった。そして庸三の出方一つで母方の叔父《おじ》が話しを決めに来るはずであった。しかし庸三の気持はそこまで進んでいないのであった。今庸三がその気になったのは、長いあいだの痴情の惰性で、利害を判別する理性の目が曇ったからでもあったが、恋愛の惨《みじ》めな頽勢《たいせい》を多少なりとも世間的に持ち直そうとする愚かな虚栄と意地からであった。
「先生が亡くなっても、私がさっそく困らないように心配していただけるのでしたら、叔父も賛成してくれますわ。」
 葉子は言うのだったが、庸三も三つの書店から来る印税の一番小額な分の残額くらいは、それに当てておいてもいいと思った。
 そのころ葉子は子供が海岸に行っている間を、庸三の古い六畳の方を居間にして、プルウストやコレットの翻訳などを読み耽《ふ》けり、その隙《ひま》にはわが家のように部屋を掃除したり、庭石や燈籠《とうろう》に水を打ったりして、楽しげな毎日を送っていたが、子供たちが海岸から帰って来ると彼女の気分もがらりと変わるのだった。
 庸三はこの結婚に必ずしも自信がもてると思ったわけでもなく、いずれは若い配偶者のもとに落ち着かなければならない彼女だとは思っていた。それは老年の彼の弱い心にとって、痛いことには違いなかったが、名誉のために結婚を希《ねが》っているらしい彼女の女心を劬《いた》わっておくことも差し当たっての一つの手ではあった。
 ある時二人は高島屋へ行ってみた。卒業に近い女学生と小学生との二人の母なしの娘をひかえている庸三は、そんな場合決して平静ではいられなかった。長女が学校で無言の迫害を受けていることも知っていた。男の子は男の子だけに、消極的にしろ積極的にしろ自身の行動を取ることもできるのだったが、女の子はそういった嵐《あらし》のなかにも、じっと堪え忍んで家を守らなければならなかった。その苦痛は庸三の神経にも刺さった。デパアトなぞへ来てみると一層心が痛み、自身の放肆《ほうし》を恥じ怖《おそ》れた。しかし五月の花のように、幸福に充《み》ち溢《あふ》れた葉子を見ると、鉛のように重い彼の心にも何か弾《はず》みが出て来るのであった。そしてあれこれと式服の模様なぞ見ているうちに、それを着る時の彼女の姿が浮かんで来たりした。柄の選択はすぐ一致した。そしてその時庸三も質素な紬《つむぎ》の紋服を誂《あつら》えた。
 しかしそうしている間にも、二人の気持は絶えずぐらついた。庸三にもどうかして晴れがましい結婚の舞台へ登場することだけは避けたいという気持があり、葉子にもまるでほかのことを考えているような時もあった。
「今度別れるようだったら、またぐずぐずにならないように、誰かしっかりした人を間へ入れよう。」
 庸三が言うと、
「誰がいい?」
 葉子も今にでも別れるように、あっさりしていた。
「春日《かすが》君に委《まか》せよう。あの人ならかねがね僕たちに好意を示してくれているのだし、別れた後も君のことは心配してくれるから。春日君が入ってくれたら、後をいさぎよくしたいから、千円ぐらい上げてもいい。」
「そうお。」
 葉子はにっこりした。今にもその金が使えそうに思えるらしかった。
「でも人に話さないでね。」
「いいとも。僕だって甘すぎるようでいやだから。」
 そうしているうちに、註文《ちゅうもん》の式服が、葉子の希望どおり二三箇所|刺繍《ししゅう》を附け加えて出来あがって来た。庸三はいよいよ脚光を浴びることになりそうに思えて、圧《お》し潰《つぶ》されたような心に、強《し》いて鞭《むち》を当てた。
 庸三はかつて葉子の故郷で、昔、先夫の松川と結婚の夜に着飾ったという、小豆色《あずきいろ》した地のごりごりした小浜の振袖《ふりそで》に、金糸銀糸で千羽|鶴《づる》を刺繍してある帯をしめた彼女と、兄夫婦に妹も加わって、写真を取ったことがあった。それは庸三を迎えた時の彼女の家庭の記念撮影であったが、事によるとそれが本式になるのではないかと思った。
 しかしある時庸三は、長男の庸太郎にだけそのことを告げて、彼の意見を徴しようと思った。
「そうですね、梢さんは別に物質を望むような人でもないでしょうから、差閊《さしつか》えはないと思いますけれど、籍を入れるのだけはどうかな。」
「いけないと思う。」
「まあね。」
 庸三も頷《うなず》いた。
 庸三がそのことを葉子に打ちあけたところで、彼女の表情はにわかに険しくなった。
「庸太郎さんが相続者という立場て、そんなこと言うなら、私も止します。」
「しかし戸籍上の手続きをするというのは、お互いに縛ることだから、君にも不利益じゃないか。」
「それが先生の利己主義というものよ。私もうここにいられない。」
 苛立《いらだ》つときの彼女の神経は、彼にはいつでも堪えがたいものであった。
「じゃ勝手にするさ。」
 庸三の語調も荒かった。
 葉子は旋風のごとく飛び出して行った。

 春日は庸三の亡妻時代からの懇意な弁護士であった。数寄屋河岸《すきやがし》に事務所をもち、かつて骨董癖《こっとうへき》のある英人弁護士の事務所に働いたこともあるので、自分でも下手《げて》ものの骨董品や、異国趣味の室内装飾品などが好きであったが、庸三はある連帯の債務を処理してもらったことから、往来するようになったものだった。それに美貌《びぼう》のその夫人がはからずも葉子の女学生時代の友達であるところから、葉子が庸三のところへ来てからも、同窓生の集りであるお茶の会に呼ばれたこともあり、往《ゆ》きつけのカフエや芝居へ案内されたこともあった。真実《ほんとう》のことはいざ知らず、表面では彼らは二人に好意をもっていた
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