、ちょっと不愉快であった。証文があるにせよ、無いにせよ書こうと思えぱどんなことでも書ける、書きたくないと思えば書かない――そんなことは自分の意志次第で、証文が反故《ほご》も同然だという気持が職業心理の憂鬱といった不快な感じを与えた。仮定的にもせよ、当座の思いつきにもせよ、金で彼を縛ろうとしている彼女の気持も愛らしいものとは思えなかった。
しかし、ちょっとした弾《はず》みで、その瞬間の平和が破れると、二人はまた猿《さる》と犬のように争った。その果てに傍《そば》にいた瑠美子まで泣き出して、庸三に打ってかかって来た。
やがて庸三は机のうえに散らかったものを、折鞄《おりかばん》に仕舞いこんで、外へ飛びだすと雨のふるなかを近所の車宿まで草履《ぞうり》ばきのまま歩いて行った。
庸三は汽車のなかで、その時の頑《かたくな》な態度と、露骨な争闘とを思い出していたが、瑠美子を庸三から引きわけて胸に抱きしめながら、嘆いていた彼女の姿も目に浮かんだ。
「情熱の虫がこの体に巣喰《すく》っている!」
喧嘩《けんか》の果てに、葉子はそう言ってぽろぽろ涙を流しているのだった。
新興芸術、プロレタリヤ文学――そういった新らしい芸術運動の二つの異《ちが》った潮流が、澎湃《ほうはい》として文壇に漲《みなぎ》って来たなかに、庸三は満身に創痍《そうい》を受けながら、何かひそかにむずむずするようなものを感じていた。今まで受け容《い》れにくかった外国の作品などが、この年になっていくらか気持に融《と》けこんで来るようなものもあれば、貧弱な自分一人のカで創作することの愚かしさに、思い到《いた》らないわけに行かなかった。時とすると生涯の黄昏《たそがれ》がすでに迫って来て、このまま自滅するのではないかと思われもしたが、今においていくらかの取返しをつけるのに、まだ全く絶望というほどへたばってしまってはならないのだと思うこともあった。彼は若い時分とはまた違った興味と理解とで、それらの作品に対していた。
するとある日の午後、西日の這《は》い寄る机の前にすわっている彼の目の前に、久しく見なかった葉子の瀟洒《しょうしゃ》な洋装姿がいきなり現われた。襟《えり》のところに涼しげな白いレイスのついた愛らしい服装が、彼女の体をいくらか小《ち》いさく見せていたが、窶《やつ》れも顔に見えていた。
「先生。」
いくらか臆《おく》したような態度で、彼女は机の傍《そば》へ寄って来たが、手に半分開いたまま折り畳まれた小冊子をもっていた。
庸三ははっとした。見てはならないものが出現したような感じだったが、彼女は涙に潤《うる》んだ目をして、本を机のうえにおくと、
「私このごろこんなものばかり読んでいるのよ。懺悔録《ざんげろく》ですのよ。トルストイも随分読んだのよ。そのお蔭《かげ》で、私もどうやら蘇生《そせい》しそうなの。過去の一切を清算して、新らしい生活を踏み出すつもりなの。先生今までのことは御免なさいね。私これから真面目《まじめ》な葉子になろうと思うの。真剣にやるつもりよ。」
葉子は哀切な言葉でしきりに訴えた。
ルッソオもトルストイも、彼はあまり読んでいなかった。読んで尊敬したものもあったが、読まず嫌《ぎら》いと言う方が当たっていた。しかしそれがたとい浮気な、その時々の感激であるにしても、葉子の感傷的な情熱を嗤《わら》う理由もなかった。それに彼はかつて彼女流に語られるアンナ・カレニナの筋を彼女の口から聴かされたこともあった。ただトルストイやゲイテとなると、峰が高く大きすぎて与《く》みしがたい感じだったが、今はそういうものも読んでみたいと思っていた。ちょうど彼の机の上にはバルザックとアランポオとが不思議な対照を成していた。
庸三は、昔そんな物も本箱の中にあったことを憶《おも》い出しながら、懺悔録を二三章飛び読みしていたが、葉子はしきりに家庭の雰囲気《ふんいき》に気のおけるような気分で、落ちつきもなかった。
「先生、ほんとうにすみませんけれど、ちょっと外へ出て下さいません? いろいろお話ししたいこともあるのよ。」
「いや、しかし……。」
庸三は言ったが、何か事ありげなので、心はすでに動きかけていた。
「ちょっとそこまでならいいでしょう。子供さんに秘密《ないしょ》で……。」
「それだったら。」
庸三は後にその意味がだんだんわかって来たけれど、その時はただあわただしい彼女の気分に誘われて表へ出た。
葉子はぐんぐん彼を引っ張らんばかりにして、電車通りへ急いだが、町の反対の側を流して行く空車を一つ見つけると、急いで手を振ってその方向へと駈《か》けて行くと、彼をさしまねいた。日が大分西に傾いた時刻で、路傍の銀杏《いちょう》も薄黄色気味に萎《な》えかけていた。葉子は庸三を押し込むように乗せて、自分も乗ってドアをがちゃんと締めた。庸三はいくらか薄気味わるくも感じたが、好奇心も働いたので黙ってするままにしていた。
「一体どこにいるの? やっぱり逗子?」
「いいえ、あすこは最近引き払いましたのよ。それで今は渋谷《しぶや》に一軒手頃な家をかりていますの。どうせ手狭なものですけれど、でもちょっと手のかかった落着きのいい座敷もございますのよ。お庭も隣りの植木屋さんのにつづいて、さざん花や碧梧《あおぎり》や萩《はぎ》など、ちょっと風情《ふぜい》がありますのよ。あすこでしたら、きっと落ち着いてお書きになれますわ。だからぜひ一度先生をお迎いしたいと思いまして……。これから行きましょう。」
「さあね。」
庸三は何か擽《くすぐ》ったい思いで、呪《のろ》わしいあの事件の附け足しが初まるのではないかという不安と、どうして彼女の態度がこう慇懃《いんぎん》になって来たものかという不思議とで、頭脳《あたま》が一杯で、彼女の気持を判断するだけの余裕もなかった。この場合に限らず彼は元来直面した現実の意味をその時即座に理解するだけの聡明《そうめい》を欠いていた。それゆえ葉子が世間の風評に誤まられて、例の川沿いの家のマダムの小夜子と庸三とのあいだに、何か恋愛関係でもすでに生じているかのように考えたか、またそこまでではなくとも、二人のあいだに何かそういった事件が起こるであろうことを予測したか、いずれにしてもそれが由々しき大事件ででもあるように思って、さてこそ庸三を自分の家へ拉《らっ》し去ろうとしたのであったが、それは葉子の文学少女らしい思い過ごしにほかならないで、庸三と小夜子のあいだは、待合のマダムと客というにはやや親密すぎる程度の遊び友達という以上の何物でもなかった。もちろん庸三はそうした恋愛のトリックなどにも疎《うと》いので、小夜子との交遊を、葉子|牽制《けんせい》のカモフラジュに役立てるようなこともなかったが、別に秘密にしておくほどのことでもなかった。
とにかく渋谷の家へ、彼は誘われた。通りを少し離れて樹立《こだち》の深い高みの場所にその家があった。そして葉子の言葉どおりちょっと住み心地《ごこち》のいい間取りで、玄関を上がって、椅子《いす》や卓子《テイブル》のほどよく配置されたサロンを廊下へ出て、奥の方へ行くと、そこに住居《すまい》の方と懸《か》け離れた十畳の座敷があり、木口がいいのと床の高いのが感じがよかった。カアテンとかテイブルセンタアとか、童話趣味の装飾も彼女らしい好みであったが、奥の一部屋だけは、不釣合いに厳《いか》つい床や袋|戸棚《とだな》などちょっと擬ったところがあった。
「さあどうぞ。」
葉子は縁に近い処《ところ》へ座蒲団《ざぶとん》を持ち出して、かつて自分の田舎《いなか》の家へ招いた時以上にも気を配って、庸三を居馴染《いなじ》ませようとした。例の小樽《おたる》以来の乾児格《こぶんかく》の女流画家や瑠美子もいた。
「小父ちゃん今日《こんち》は。」
瑠美子は側へ来て、いつかのことも忘れたように、にこにこしていた。
ルッソオやトルストイの話もここでは出なかったし、晩飯の支度《したく》に働きながら、かつて逗子の家へ彼をつれて行った時と、少しもかわらない調子で、やがて晩餐《ばんさん》の支度に立ち働いていたが、何か融《と》け合えないことが、二人のあいだに挟《はさ》まっていた。庸三はせっかく親しみかけて来た家庭や書斎を、またしても遠ざかって来たような感じで、寛《くつろ》ぐ気持にもなれなかった。これからまたどういうことになるのか、その見透しさえもつかなかったが、差し当たりそれを考える必要もなかった。
やがて晩飯がはじまった。そしてそれがすむと、瑠美子の童謡舞踊なんかに笑い興じて、しばらく雑談に花が咲いた。新聞の小説の噂《うわさ》、文壇のゴシップ、円本の売れ高、等々。
「そのうち一度二日会のピクニックおやりになりません?」
「ああ、そうね。」
「玉川あたりどうですの。網船を※[#「※」は「にんべん+就」、第3水準1−14−40、284−下−17]《やと》って一日楽しく遊びましょう。私もしばらく皆さんにお目にかからないわ。ぜひやりましょう。私通知出すわ。」
いつもの彼の姑息《こそく》で、そうしているうちに幾日かの日がたってから、ある時葉子が思い出したように庸三を詰問した。
「いつか先生のところに、まつ屋の浴衣《ゆかた》があったでしょう。あれどうなすって? 私一反ほしいわ。」
その浴衣地というのは、そのころ誰かの思いつきでデパアトとタイアップで工夫されたもので、作家たちの意匠に成るものであった。庸三も自作の俳句を図案にという註文《ちゅうもん》で、それを葉子が工夫したのであった。
詰問する葉子の顔は、たちまち険悪の形相をおびて来た。ちょうど昔しの愚かな大名の美しい思いものが、柳眉《りゅうび》を逆立て、わがままを言い募る時の険しい美しさで。庸三はこれには手向かうことができなかった。
彼はデパアトから届いたその浴衣の一反を娘に、一反を小夜子に与えた。娘も小夜子もすでに仕立てて着ていた。庸三はその通り話した。娘に着せるのは当然だが、あの水ぎわの女などにやる法はないと言うので、葉子はヒステリイのように怒った。
「だって仕方がない。君とは別れていたのだから。」
「それにしても私が気持悪くおもうくらいのことは、考えてくれたってよかったじゃないの。あんな女にもったいないわよ。」
「じゃ一反買えばいい。」
「買ったのは欲しくはないわ。あれを取り戻してよ。」
「今でなくてもいいじゃないか。」
庸三は呟《つぶや》きながらも、仕方なし二三行書いたが、葉子は一応文句に目を通すと、やっと安心したように、封筒の表書のできるのを待って、画家の北山菊野に円タク賃をもたせて、小夜子のところへ使いにやった。
外は日盛りだったが、部屋のなかは涼しかった。庸三は床の黒柿《くろがき》の框《かまち》を枕《まくら》にしてしばらく頭を休めていたが、するうち葉子と瑠美子との次ぎの間の話し声を夢幻に聞きながらうとうと眠ってしまった。そして目がさめた時には、北山はもう浴衣をもって帰っていた。
「ちょうどあの人が外出しようとしているところだったんですて。芝の四国町《しこくまち》まで行くから、あの辺までお乗りなさいといわれて、北山さん一緒に乗って来たんですて。」
そう言って葉子は包装紙にくるんで寄越《よこ》した浴衣を、そこへ拡《ひろ》げていたが、
「あの人|目容《めつき》がなかなか油断ならないって、北山さんがそう言っていますよ。」
庸三もちらちら動きの多い小夜子の黒い瞳《ひとみ》が、どうかすると冷たい光を放って、その瞬間昔の妖婦《ようふ》を想像させるような美しさを見せることは知っていたが、それも、葉子などとはちがって、長いあいだのそうした職業から鍛えられた、どこか蕊《しん》に鋼鉄のような堅固なところをもっているからのことで、不良少女団長時代の可憐《かれん》な性情は今でも残っていた。
「梢さんしっかりしなくちゃ駄目よなんて、今菊野さんに言われたわ。」
そう言う葉子の言葉のうちには、明らかに小夜子への敵対観念が含まれていたが、それも小夜子を恋敵《こいが
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